Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/59f2249db6f96579daf85ebf635f3b27fdc47a52
配信、ヤフーニュースより
56年前の1965年10月15日に、2人のフランス人の若者がコルシカ島からシトロエン2CVフルゴネットで世界一周の旅に出た。予定では、ヨーロッパから中東を巡り、ネパールを目指し、さらに日本を経由してオーストラリアに渡り、そこからアメリカ大陸に向かうつもりだった。しかし、若者のうちのひとりが東京で日本人女性と結婚し、男の子も生まれ、家庭を持ったので彼の世界一周の旅は半分で終わった。もうひとりは旅を続けたらしいが、詳細はわからない。2CVフルゴネットのその後も不明だ。しかし、若者たちは多くの写真を残し、『La GLANDOUILLE』という本まで自費出版していた。 【写真を見る】旅の記録
1965年12月から9カ月間、レバノンに滞在していたポールさんと相棒のモーリス・モニエたちは、zuzuと名付けたシトロエン2CVフルゴネットに乗って、再び東に向けて走り始めた。 レバノンから隣国のシリアに入り、そのまま広大なシリア砂漠を駆け抜けて、さらに東のイラクに入った。イラクはシリアのほか、ヨルダンやサウジアラビアなどとも国を接している。4つの国々をまたぐようにアラビア半島北部のほとんどの地域を占めているのが、広大なシリア砂漠である。シリア砂漠を各国に分割している国境線は、長く真っ直ぐな人工的な直線だ。 イラクでは、ポールさんたちはさまざまな体験をしている。まず最初は、砂漠の洗礼だった。砂漠は平坦なようで、起伏もある。広大になればなるほど、人間の高さから目視しにくい範囲も広がっていく。 ポールさんたちが自費出版した本『La GLANDOUILLE』には、シリア砂漠の様子をイラスト付きで次のように描写している。 <360度見渡しても何もない砂漠をずっと走り続け、途中でzuzuを停め、外に出て「ここには自分たち以外、建物も人間も植物も、何も存在していない!」と砂漠の広大さに感激していたら、「やあ!」といった感じでどこからともなく地元の人が現れたのには驚いた。それも、一度や二度ではない。イラクの砂漠でzuzuを停めると、いないはずと僕らが思い込んでいる人たちがいきなり寄って来るのだった。不思議だった> 砂漠では誰もいないように見えていても、それはこちらが気付いていないだけで、絶対に誰か砂漠の民がいて、こちらをうかがっている。だからといって、特別にこちらを警戒しているというわけでもない。親しげに近寄って来るのは、彼らも広大な砂漠を移動しながら生きている遊牧民のひとりであり、同じ旅人であるポールさんたちにいくらかの興味と関心を持っているからなのだろう。 砂嵐にも遭って、危ない思いもした。 「勢いの強い砂嵐に襲われて、zuzuを停めて、過ぎ去るのをただ待つことしかできなかった。どのぐらいの時間が過ぎたか。嵐が過ぎて、景色が晴れると大変なことが起きていた。道が砂に埋れてしまって迷子になってしまったのだ。他に目標となる建物や山などもないから、どっちに走って良いのかわからなくなってしまった。うかつに走り出すと迷って、ガス欠になるだけだ。対向車や、後ろから走ってくるクルマもいなかった。モーリスと交代で、zuzuを見失わないように周囲をあるいて様子を探ったら、幸いにも、鉄道の線路が顔を出しているのを見付け、それ伝いに走って難を逃れることができた」 そもそも、なぜ、一歩間違うと危険が迫ってくる広大な砂漠などを通ろうとしたのか。それには理由がふたつあった。ひとつは安全上の理由。 「1966年当時でも、イラクやイランにはイスラム教の原理主義者たちが力を持っていて、僕らのような外国からの旅行者を見付けると、襲って来たり、捕らえられてリンチに掛けられ、殺されたりする話を聞いていた。だから、僕らも、そうした目に合わないように地元の人々や旅行者同士で情報交換を行なっていた。イラクで砂漠を通った方が良いと教えられたのは、地元の人からだった。イラクの砂漠は、何日間走り続けても延々と続いていた。この旅で最も遠さや長さを感じたのは、イラクの砂漠だった。それほど広大だった」 もうひとつは、食糧確保のためだった。 「イラクの砂漠にはガゼルがいるので、それを銃で仕留めて食べようと考えていたんだ」 ガゼルはウシ科の動物だが、見た目はカモシカだ。銃は、狩猟のために22口径のスコープ付きライフル銃をコルシカから持って来ていた。 シリア砂漠の東側の端にあたるところを北西から流れてくるのがユーフラテス川で、それを越えると緑地も増え、次々と町や集落などが現れてくる。そのままさらに東に進むと、今度は北の方角から流れてくるのがティグリス川だ。 ティグリス川とユーフラテス川はやがて合流し、ペルシャ湾に注ぐ河口の都市バスラとその周辺地域には肥沃な土壌が広がっている。メソポタミア文明が発祥したところだ。 イラクの首都バグダッドは河口よりも内陸に入ったティグリス川の河岸に位置している。バグダッドでは、ポールさんたちと同じようにスイスからルノー4で旅して来たエドワールに再会できた。彼とは、レバノンで初めて会い、「世界の道を走ろう」と意気投合していた。その後、アフガニスタンのバーミヤンでも会うことになる。その時、ポールさんたちは彼のアドバイスで命拾いすることになるのだ。 それまで通って来たトルコやヨルダンでも、ポールさんたちと同じようにシトロエン2CVやルノー4のようなベーシックカーで長期の旅に出た若者たちと遭遇している。ポールさんたちの行動が特別に珍しかったのではなく、そうした若者たちがほかにもいたということだ。 「ええ、そうした人は珍しくなかった。ヨーロッパの若者はクルマだったが、アメリカ人は歩いて旅する者が多かった。ノルウェーの女性は、ノートンのオートバイで来ていたし、イギリスからランドローバーで走ってきていた75歳の爺さんもいた」 2CVや4のような、安価で入手できるクルマが大量に生産されたことが、若者を旅立たせるひとつの大きな要因になっていたようだ。 さらに驚かされたのは、ポールさんたちより9年も前の1956年に、Jacques Cornetという若者がパリから東京まで、ブルーの2CVで旅してきているのだ。書籍が著されているし、編集された動画までYouTubeにアップされている。東京在住の古い2CVオーナーから教えてもらった。 zuzuは、バグダッドから、バビロン、ナジャフ、ウル、バスラとイラクを南下して進んでいった。 ナジャフでは、スパイに間違われて逮捕もされた。ナジャフとウルの間ぐらいにあったモスクのツーリストオフィスであらぬ疑いを掛けられてしまったらしいのだが、もちろんポールさんたちに非があるわけもなく、すぐに放免された。 バビロンもウルも古代の遺跡が残っていて、ポールさんたちもzuzuを停めて、写真を撮っている。 バビロンは、紀元前17世紀には、広大な地域に人口20万人を抱える世界最大の都市として栄えていた。ポールさんがzuzuを前に停めて撮影したイシュタル門の写真からは、そのコンディションは悪くないように見える。しかし2022年現在、インターネット上に「2004年に復元されたイシュタル門」としてアップされているのは、イラク戦争によって損傷を受けたからだ。 圧巻なのは、ウルのジッグラトだ。紀元前21世紀という遠い昔にシュメール人によって建造されたピラミッド状の階段を持つ石造りの神殿だ。南北1200m×東西800m、高さ20mという巨大なものだ。 「ジッグラトは赤っぽい岩を積み上げて造られていて、ほかには何もない砂漠の中にジッグラトだけが堂々と存在している。そこに夕陽が落ちてきた時の美しさは、息もできないほどだった」 ポールさんたちがジッグラトの前にzuzuを停めて写真を撮影した時以降は、イラクは何度もの戦乱に見舞われている。それらによって、維持保存などが疎かになっていたが、近年になって欧米の研究機関や開発協力機構などがイラク当局とともに修復に乗り出している。 筆者がこれまでイラクと聞いて思い浮かべることができたのは、イラン・イラク戦争やサダム・フセインなど、偏ったものしかなかった。イラクに限らず、ポールさんたちの軌跡を辿ることによって、ヨーロッパや中東などの史跡について知るきっかけを得ることができた。コロナが収束した際には、ウルやバビロン、そしてヨルダンのペトラなどをぜひ訪れてみたい。 PROFILE
金子浩久
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