Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/f094ceae4c02ec12d3ea65ffb5699cf63afe1063
56年前の1965年10月15日に、2人のフランス人の若者がコルシカ島からシトロエン2CVフルゴネットで世界一周の旅に出た。予定では、ヨーロッパから中東を巡り、ネパールを目指し、さらに日本を経由してオーストラリアに渡り、そこからアメリカ大陸に向かうつもりだった。しかし、若者のうちのひとりが東京で日本人女性と結婚し、男の子も生まれ、家庭を持ったので彼の世界一周の旅は半分で終わった。もうひとりは旅を続けたらしいが、詳細はわからない。2CVフルゴネットのその後も不明だ。しかし、若者たちは多くの写真を残し、『La GLANDOUILLE』という本まで自費出版していた。 【写真を見る】インドでの旅の様子。
ポールさんと相棒のモーリスは、1966年10月9日にパキスタンからインドに入国した。ノートには、次のように書かれている。 <インドにようやく入れた。パキスタン側のイミグレーションで足止めされ、ずいぶんと待たされた。でも、他のフランス人3人組は11日間も足止めされていたというから、まだマシだったのだろう> アフガニスタンからパキスタンに入国する時には、<パキスタンのイミグレーションの役人はいいヤツばかり>とポールさんは好印象を得ていたが、反対に、出国時には待たされたのだ。その時点での、パキスタンとインド両国の関係性によるものなのだろうか。1947年にパキスタンがインドから分離独立しているから、緊張感のようなものがまだ生々しく残っていたのかもしれない。 インド入国初日の様子が、やや興奮気味でノートに記されてある。 <人が多い。クルマが多い。牛が多い。僧侶やコブラまでいる。道路の水たまりで身体を洗うヤツだっている。生きているものは、何でも焼かれて食べられている。眼に入るものすべてに驚かされる。インド初日は、面白かった> zuzuでフランスのコルシカ島を出発したのが、1年前の1965年10月15日だった。レバノンに9カ月間滞在していたことを差し引けば、シトロエン2CVフルゴネットに乗って、3カ月間の旅程でコルシカ島からインドまで到達したことになる。 <10月10日、デリーの手前50kmぐらいのところまで走って来た。捨てられた小屋に泊まる。食べ物もなく、周囲に何もないので晩ご飯は抜きだ。インドに来て、まだ1日しか経っていないが、こちらがコルシカからzuzuで走って来たからなのか、いろんな人が寄って来た。いいヤツもいれば、しつこいだけのヤツもいた> 翌10月11日、インドの首都デリーに到着した。インド全体の人口は1965年にはまだ5億人に達していなかった(2020年には14億人を超えている)。とはいえ、人口はデリーなどの北部の都市に集中していたというから、ポールさんが人の多さに驚くのも無理はなかっただろう。 <アカデミアの前でキャンプ。ガードマンがいるから安心だ> アカデミアと呼ばれているのは、何らかの教育機関だろうか。 人が密集しているデリーであっても、ヨーロッパからクルマで走ってきた連中とすぐに遭遇した。 <10月12日、シトロエン2CVでデリーに走って来たフランス人のジャンとスイス人のアンドレと会った。彼らは、旅行者が宿泊可能な寺院のリストを僕らにくれた。また、シーク教の寺院に行けば食べ物をタダで恵んでもらえることも彼らから教わった。“赤い城”に行った後、町の中心部で酒を飲んだ> 赤い城というのは、デリーの「ラール・キラー」のことで、ムガル帝国時代の城塞のことだ。 <ジャンとアンドレは、エドワールの友達だった。エドワールは今、アフリカにいるらしい> それは奇遇だ! エドワールとはベイルートでクリスマスを一緒に過ごし、バーミヤンでは知らずに殺されていたかもしれないところを教えてくれて助けられた。そのエドワールと友達だというのだ。 しかし、クルマでネパールを目指すルートは限られていただろうし、ルートが複数あっても、デリーのような“ポイント”となる都市に、ポールさんたちのようなクルマに乗った旅行者たちは自然と集結することになる、と考えることもできる。奇遇ではなく、必然だったのかもしれない。 <エドワールはアフリカに行ってしまったが、ジャンとアンドレたちと「さぁ、カシミールに行こう!」と気勢を上げた。ふたりが一緒に、チャンディーガルまで行ってくれた。そこには、フランスのニースから来た二人がいた。彼らは看護士だ。彼らには、アフガニスタンでも会っている。こん晩は、インド人の家に泊めてもらった。21時に、5人で行って頼んだけれども、泊めてくれた> 10月14日に、ポールさんとモーリスはデリーを出発して、ソラウに向かった。 <ジャックに言われたアドレスを目指した。フランス人が経営しているブラッスリだという。そこはビール工場に併設されていて、オーナーを呼んでもらったが、なんと、2カ月前に亡くなっていた> <10月15日、あるパーティに呼ばれる。昨晩、歩いていたら地元の人に声を掛けられ、一緒に食事して、酒を飲んだ。“明日、チャンディーガルの町のお祭りがあるんだけど、参加しないか?”と誘われた。パーティのようなものなのかと思って、翌日に行ってみると大きなシアターがあって1500人も見物客が入っていた。地元の人なのか、プロなのか、代わる代わるにステージに人が上がって、歌を唄ったり、踊りを踊ったりしていた。僕らも促されてステージに上がり、モーリスがギターを弾き、僕がハーモニカを吹く真似をして、子供が悪ふざけで歌うような歌を3、4曲唄った。まあまあ受けた> シリアやイランなどでは、移動距離が長かったわりには書かれた文章量がとても少ない。それに較べて、インドは一転して大都会デリーの人の多さや混沌、ヨーロッパ人旅行者たちとの邂逅もあり、ポールさんは心持ちを刺激されたのか、マメにできごとを記している。 <10月17日、アンドレとジャンたちと別れる。少し寂しい> <10月18日、アンバラに向かう。ビュッフェを食べる。4人で20ルピー。カシミールに向かう。山に泊まる。雨が降っている。軍人に招待され、キャンプでご飯を食べる> 10月19日には、インド・ジャンムー・カシミール連邦直轄領の首都シュリーナガルに到着する。デリーから876km北にある。インダス川の支流ジェルム川の両岸に位置していて、そこに浮かぶハウスボートが有名だというから、風光明媚なところなのだろう。ポールさんたちも、ハウスボートに泊まっている。 <イギリス人のビートニクにハウスボートに誘われる。1泊15ルピー。土地の結婚式を見に行く。男が女の父にカネを渡して、周りと相談するセレモニー。ハウスボートに戻る。ハシシでパーティになる。誰も陸に戻らない> <10月20日、隣の船に移る。静かに眠れそうだ。zuzuを置いて、40kmほど離れたギュルマルグに行こうと歩いて向かったが、雇ったガイドが道を間違え、タンマルグで泊まった。とにかく寒い。フランスで買って持って来た寝袋が役に立たなかった> 出直して、翌日、カシミール地方のギュルマルグに着いた。その翌日、早起きして、コーナンマルグという山に登った。 <ご来光を見た。雪がたくさん積もっているが、とにかくキレイだ。ヒマラヤの山々が目の前にある。木で建てられた家々も美しい。最後の何kmかは大変だったが、美しさに圧倒された。ベジタリアン料理もうまかった。ガイドに30ルピーを請求されて、高さに驚いた。時計とトランジスタラジオで勘弁してもらう。シュリーナガルのハウスボートに戻り、23ルピーで泊まっていいと言われ、翌朝、払わずに逃げた。古い街並みを散歩した。倉庫のような美術館を覗いたが、最低だった。シュリーナガルを出て、チャンディーガルに戻った> チャンディーガルは、1950年代のル・コルビュジエやピエール・ジャンヌレなどの都市計画が行われたことで有名だ。インドで最も高い生活水準を持っているらしい。 「最近、チャンディーガルのル・コルビュジエが設計した建物のことをフランスのテレビが取り上げていた番組を観た。マルセイユにもル・コルビジュエが設計した団地があって、そこもチャンディーガルのものも修復作業が進んでいるというニュースだった。チャンディーガルはゼロから造られたので、他のインドの都市にあるような混沌がないから、モダンでまったく違っていた」 <10月30日、チャンディーガルに泊まる。10月31日、デリーに戻った。シーク教の寺院には泊れなかったので、警察署の床で寝た。スイス人ヒッチハイカーもいた> デリーに戻って来たのは、ネパール入国用のビザ申請の結果を知るためだった。結果はOK、取れていた。急かされていたわけではないだろうが、ポールさんとモーリスは、デリーを出発し、この後、インド各地の名所旧跡をあちこち訪ね、ネパールに向かった。 PROFILE 金子浩久 モータリングライター 本文中のユーラシア横断は『ユーラシア横断1万5000km』として、もうひとつのライフワークであるクルマのオーナールポルタージュ『10年10万kmストーリー』シリーズとして出版されている。
文・金子浩久 取材協力・大野貴幸
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