Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/b4e45103fa8f1a8faee0b1a4b87e7d0b13530885
米国でのアジア系住民に対する差別の広がりを知ろうと、アメリカの新聞やテレビ報道に当たっていたら、『Minor Feelings(マイナー・フィーリングズ)』という本に行きついた。それを書いた韓国系アメリカ人の女性で詩人のキャシー・パク・ホンさんの、突き刺さるような率直な物言いに目をみはったからだ。
今年3月に全米批評家賞を受け、テレビドラマ化も決まったこの本のタイトルについて、著者はインタビュアーでこう答えている。以下は 2021年3月17日に配信された米国のデジタルメディア「VOX」でのジャーナリスト、アレクサ・リー氏の問いに対する答えだ。 「『マイナー・フィーリングズ』は私の中にある意識を、私自身が知るために考えだした割と緩い言葉です。それはマイクロ・アグレッションと同じではない。もっと大きなものです」 ここで言うマイクロ・アグレッションとは、1970年にアメリカの精神医学者、チェスター・ピアス氏が提唱した、語り手に意図があろうがなかろうが、マイノリティーに向けられた言葉の中にある偏見や差別、侮辱、否定的な意味合いを指す。パク・ホン氏の言うマイナー・フィーリングズはこのマイクロ・アグレッションとは違うそうだ。 「例えば私の両親は朝鮮戦争を経てこの国に来ましたが、誰もそんな史実を知らないし気にもとめない、理解しようさえしない。マイナー・フィーリングズとは、そういった自分の現実、歴史が完全に無視された状態とも言えます」 彼女がこの本で自分の感情をあえて吐露した動機はこうだ。 「あくまでも自分を慰めるため。私が物を書くのは、いい思いをしている人を苦しませ、苦しんでいる人々を慰めるためだ。私たちアジア系はその両方であって、単なる加害者や被害者ではない。私たちはその間のどこかにいるのです」。だから、差別する側にもいる彼女は「いつも自分の中にあるレイシズムをチェックしています」。 彼女が書いたことを吟味せずに批判する声もある。 「あるアジア系アメリカ人を研究する大学教授は、私の本を読まずに、あなたが書いている事は少し古くさいと私に言いました。その教授は「アジア系はもうマイノリティーじゃない」と言いたそうでした。こういう人がいるから、私はこの本をあえて書いた。アジア系の目を覚まさせ、コミュニティーとして集まり、この国での自分たちの居場所について声を上げさせるため」 米国にいる日系、中国系、韓国系がそうであるように、常にばらばらだったアジア系の集団が連帯し、アジア系に対する差別と闘わねばならない。パク・ホン氏は発言の機会があるたびにそう語っている。
白人が勝手に描くアジア系についての幻想に彼女はうんざりしている。「私たちはこの国でうまく成功し、レイシズムもなく、みな核家族でみな科学者だ――といった白人の言い分に、私たちの多くはもう、いい気分ではいられない」 「アメリカ人は共存の仕方を知らない。一方の私たちは人種間暴力を処理する言葉を知らない。そのいい例が1992年の(黒人と韓国系が対立した)ロサンゼルス暴動と、今起きているアジア系差別だ」 「この国は今よりも多様になり、15年、20年もすれば多数派(の白人)が少数派になる。そのことはもっと語られていい。黒人とアジア系、そしてブラウン(茶色)の人たちはお互いのことを、白人の語りで知っているすぎない。つまり、本当の問題は依然として白人至上主義なのだ」 インタビューでも、一つ一つの言葉に力がある。そう感じた私はすぐさま彼女の2020年のエッセー本、「マイナー・フィーリングズ」のアマゾン・キンドル版を買い、本にすれば224ページ分を3日で読み切った。 まさに、読書の醍醐味を味あわせてくれる良書だった。良書には二つのタイプがある。一つは冒頭から書き手の考えにどんどん入り込んでいける「思考の旅」を味わえるもの。もう一つは書き手の感覚、考えに同調する点は同じだが、それがすぐさま自分に跳ね返り、自分の中から芋ずる式に忘れていた記憶がよみがえる本だ。 パク・ホン氏の本は後者であり、私は読むほどに、自分自身の被差別体験や、嫌悪感、違和感、それと裏腹にある奇妙な優越感をともなうエピソードが次々によみがえった。 彼女の文章は、読者が長年陰に陽に受けてきた差別、恥ずかしく思ってきた過去、隠してきた事実を表にさらけ出す。それだけ、彼女がアジア系としての居心地の悪さを正直に見せているからだ。 <いつも自分自身をもう一人の自分が見ていた。「なぜ私はこんなにも被害妄想がひどいのか」と問いながら。(大学の詩の)講座などで私が人種問題を取り上げるたびに、(上の者が下の者に示す)恩着せがましい配慮の壁を感じた。結果、私はその恩着せがましさを自分も身につけ、他の人の民族的な詩を「エスニックすぎる」とバカにした>(筆者訳、以下同) パク・ホン氏は常に「アジア系の詩人」とみなされ、作品も何もかもが「アジア系」というアイデンティティーに絡められる。 プロの詩人になった彼女は、<詩を書くたびに自由を感じ、自分の身体は物質から脱し、アイデンティティーを脱ぎ捨て、自分自身が全く違う人間に成りかわれると想像できた>。ところが、批評家や読者ら、受け止める側はそうではなかった。 <ジョン・キーツは「詩人にアイデンティティーはなく、詩人は他人の身体で自分を埋める」と語り、ロラン・バルトは「文学は中性で、さまざまなものの合成であり、テーマの逃避先に応じて傾き、すべてのアイデンティティーが失われる罠であり、それを書く身体のまさにアイデンティティーとともに始まる」と書いている。 でも、私が詩集を発刊し始めたとき、何を書こうと私はアジア系女性というアイデンティティーを消すことができなかった> <もしホイットマンの言う「私」が大衆全体を含んでいるとしたら、私の言う「私」はこの国の人口の5・6%しか含んでいない。読者も先生も編集者も「自分の心に真実だと感じることを書け」と私に言うけれど、私はアジア系なので、アジア系という題材にこだわってしまう。たとえ誰もアジア系なんかに関心がなくても。でも私にどんな選択がある? 例えばもし私が自然を書いたら、誰も私に関心を持たないはず。なぜなら、私は自然を書くアジア系とみなされるから> <自分の体のアイデンティティーが問題なんだといつも思っていた。でも書くときに、仮に私自身が目の前にいなくても、私は私自身より高みには行けないと気づいた。それが私を一種の絶望へと追い込んだ> アジア系という外見、そして、一目で韓国系とわかる姓。詩を書くことで、そんなアイデンティティーから脱け出したいと思っても、自分自身を含めた世の中、社会の目から脱け出すことなど決してできない、ということだろうか。
「馬に乗れる中国人」
パク・ホン氏のこだわりを読んでいて、私は以前書いた「馬に乗れる中国人」という言葉を思い出した。 2000年代の初頭、アルゼンチンのブエノスアイレスで会った日系2世の男性、アンドレスさんから聞いた言葉だ。 彼は父親が日本人で母親がフランス系のアルゼンチン人で、私には日系人には見えなかった。街のどこにでもいる「普通のアルゼンチンの若者」に思えたが、彼に言わせれば、「どう自分で考えようが、何を主張しようが、自分はアルゼンチン人の目から見たら明らかなチーノ(中国人)」となる。 ここで言うチーノは東洋人全般を指す。インドなど南アジア系はまず含まれないが、顔だちが中国、日本人と似ているネパールやチベット人、そして東南アジアのタイ人やベトナム人、フィリピン人もそこに含まれる。厳密な線引きはない。彼らに言わせれば「チーノは全部チーノ」なのだ。 彼はチーノと呼ばれるのを嘆いているのではない。幼い頃からそう言われてきたし、時にからかわれることもあったが、そんなことにはすっかり慣れている。 20代後半の彼がつきあう相手は恋人も含め、欧州系のアルゼンチン人だ。そんな仲間と山に行った時のエピソードをこう語った。 「アルゼンチン人は山や原野に行くと、馬に乗りたがる。そこで、僕がうまく馬を操ると、『中国人なのに馬に乗れるじゃないか』ってみんな驚くんだ。それで僕は、『馬に乗れる中国人』と言われるようになる。で、仮に僕が乗馬の選手になって誰よりも上手に馬を手なずけられても、僕の呼び名は変わらない。『馬に乗れる中国人』のままだ」 彼は不平を言っているのではない。それが現実だと言っているにすぎない。大半のアルゼンチン人の目にはそう見えてしまい、それは覆しようのないことなんだと。 では、なぜ彼はこんな話を私にしたのか。彼にアルゼンチンの第一印象を聞かれた私が、当時暮らしていたメキシコや、よく訪ねるペルーと比べても、「よそ者を排除するムードが薄い感じがする」と答えたからだ。 その一例として、その時知り合った日本人のタンゴダンサーの言葉を彼に紹介した。「アルゼンチンでは、国籍など関係なく実力だけで評価される。日本人だから、といった目で見られることはない」 そこまで聞くと、アンドレスさんは苦笑いし、「馬に乗れる中国人」の話を始めた。
タンゴをうまく踊れる中国娘
「多分、そのダンサーはとても優れた人なのだろう。でも彼女がどんなに上手でも、どんなにアルゼンチン人のように踊っても、彼女は『タンゴをうまく踊れる中国娘』のままだ。それは未来永劫ついてくる。もちろん、表立って誰もそんなことは言わない。でもそうなんだ」 アンドレスさんは現実を淡々と語るだけで、その良し悪しを述べているわけではない。そこが私にはとても新鮮に思えた。 そういう風に世間を眺め、自分の置かれた立場を鳥瞰していれば、自分の外見や出自、人種的なストレスを感じることも少ないだろう。
我傷つく、ゆえに我あり 私の本はその傷みの大きさで計られる
「マイナー・フィーリングズ」を著したパク・ホンさんは、アンドレスさんとは全く逆に思えた。彼女は何を書いても「アジア系」と見られるのがたまらないのだ。 <エスニック文学の企画は必ずヒューマニストの企画になる。そこでは非白人の作家たちが自分たちも傷みを感じる人間であると言い続けなければならない。本の中の「私」が単なる「私」になれる未来はあるのだろうか。自分たちも傷みを感じる人間であると訴えるエスニシティーをまるごと抱えた「私」でない、ただの「私」。そんな未来はないような気がする。だから、我傷つく、ゆえに我あり。私の本はその傷みの大きさで計られる。もしそれが2くらいなら、話すほどの価値はない。もし10なら、ベストセラーになる> 「傷ついたアジア系の私」という枠から決して抜け出せない。 羽目を外しドラッグやセックスにはまり、自分の内面をえぐり出すような作品があったとしても、その主人公がアジア系なら、どうしたって移民やアイデンティティーの問題と絡めた目で見られてしまう。 <自分の欠点を隠さずに何もかもさらすような本を書いてきた白人男性の作家たち、例えばフィリップ・ロスやカール・オーヴェ・クナウスゴールといった存在は昔からずっともてはやされてきた。読者は白人男性作家が不良のようにふるまうのを楽しむようだが、マイノリティー作家は逆にいつも良い子であらねばならない> 戦後の米国文学を代表するような作品にも、パク・ホン氏はなじめない。 <9年生(日本の中学3年)の時の教師が、私たちはみな「ライ麦畑でつかまえて」と恋に落ちる、と言った。私はサリンジャーの読みづらく散漫な文章を読みながら、恋に落ちる瞬間を待ったが、結局いらついただけで終わった。主人公のホールデン・コールフィールドはただの金持ちの高校生で、年寄りのように世の中をのろい、水のようにお金を使い、どこに行くのもタクシーを使う。彼はれっきとしたクズで、彼がフォニー(にせもの)と馬鹿にする同級生と同じくらい傲慢なやつだ。その特権ぶりはまだしも、彼の子供時代へのこだわりは、私の目からすればまるで宇宙人のようだ。私は自分の幼少期など、できるだけ早く過去に追いやりたかった。なのに、このホールデンはなぜいつまでも成長したがらないのか?> サリンジャーの小説に限らず、アメリカ文学の主人公である「白人の男たち」の心に、どうして全米の子供たちは「恋に落ち」なくてはならないのか。 白人男性とアジア系女性。同じ国に生きながら、全く違う世界に暮らす人間に人はどこまで感情移入できるのか。では、日本の読者はどうだろう。フォークナーの、ヘミングウェーの、スコット・フィッツジェラルドの、あるいはカート・ヴォネカットの、レイモンド・カーバーの主人公たちにどこまで入り込めるのだろう。それを、自分の問題として引き受けることがどこまでできるのだろう。 より気持ちが入るとすれば、むしろ、戦後間もない頃の日系人の人種的葛藤を描いたジョン・オカダの「ノーノー・ボーイ」ではないか。 パク・ホンの言葉は読む者にそんなことまで考えさせる。 つづく
藤原章生 (作家、毎日新聞記者)
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