Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/17296e80334a16409679a8ef4ffa288f188ed378
1965年から1992年まで日本のサッカーはJSL(Japan Soccer League/日本サッカーリーグ)を頂点として発展してきた。連載『J前夜を歩く』ではその歴史を振り返る。第33回は読売クラブがJSLで初優勝、そして連覇を飾った際の立役者、ルディ・グーテンドルフについて綴る。 【写真】83年、JSL初優勝を果たした読売クラブの選手が、千葉進代行監督を胴上げ! 文◎国吉好弘 写真◎サッカーマガジン
クラマーの推薦で来日した大物
将来のプロクラブを目指し、それまでの企業チームとは一線を画したチーム作りを進めてきた読売サッカークラブが、初めて日本サッカーリーグ(JSL)を制したのは1983年のこと。1969年に創設されたクラブは72年にはJSL2部入りを果たしたが、そこから1部昇格までに5年を要し、臨んだJSL1部では初めから優勝争いに加わったものの、優勝にたどり着いたのは6シーズン目、創立から15年を経てのことだった。 この83年シーズン、チームを率いたのは千葉進監督代行。「代行」だったのは前年まで監督を務めていた相川亮一がシーズンを前に突如辞任したため、急きょその任を託されたため。この時まだ30歳で、前年からコーチを務めていたものの監督経験はなかった。さらにクラブの首脳は外国からプロフェッショナルの監督を呼ぶことを考えており、実際にこのシーズン後期からはドイツ人コーチがやってきて千葉をサポートすることになる。 そのドイツ人はルディ・グーテンドルフ。ドイツでも名門のシャルケ04やハンブルガーSVなどの監督を務め、南米のチリ、ベネズエラなどの代表監督、オーストラリア代表監督やアフリカのクラブも率いたヨーロッパではよく知られた指導者だった。読売クでは2部時代にもオランダ人のフランス・ファンバルコムが監督を務めていたが、世界的にも実績のあるプロの監督がJSLのチームを率いるのは初めてのことだった。 当時の読売クは、個々の技術や能力ではJSLでもトップレベルながらタイトルに手が届かなかった。その状況を打ち破るために思い切った策が必要と考えたクラブは、日本になじみの深いドイツ人のデットマール・クラマーに声をかけたが、この時はバイヤー・レバークーゼンの監督を務めていたため、クラマー自ら推薦してきたのがグーテンドルフだった。その経歴が示すようにグローバルな視点と行動力を備えたグーテンドルフはアジアでの新しい挑戦に興味を持ち契約に至った。 83年のシーズン途中だったため、この年は「特別コーチ」としてアドバイスを送る程度にとどめ、チームを観察して次シーズンに備えた。しかし千葉代行体制でも選手たちが慕う「兄貴分」のためにと奮起して初優勝を果たすことになる。
最初はジョージ、ラモスが反発
グーテンドルフは84年シーズンを前に監督に就任すると、チームに欠けていると見たGKに当時のユーゴスラビアからヴィエラン・シィムニッチ、前線にはスコットランドから190センチの長身FWスティーブン・パターソンを加えた。そしてドイツ人らしく組織戦術と規律を植え付けていく。 これまで、ジョージ与那城、ルイ・ラモス(のちのラモス瑠偉)を中心にブラジルスタイルでプレーしてきた選手たちからは反発もあったが、百戦錬磨の指揮官らしく、「昨年と同じようなオフェンシブなサッカーを目指し、より相手が驚くようなプレーで成果をもたらしたい」と語り、それまでのスタイルは維持して、そこに新しいオプションを加えるというチーム作りをした。 シーズン途中でまは苦しみながらも、パターソンの高さを使う術も身に着けたチームは終盤に盛り返してリーグ連覇を達成。天皇杯でも念願だった初優勝を果たして見事二冠を獲得した。選手たちも一流の監督から学ぶべきことを理解し、後に与那城も「グーテンドルフは選手の使い方がうまかった」と『読売クラブ~ヴェルディの40年』の中で振り返っている。 95年も6月から7月にかけて行なわれたJSLカップに優勝して国内タイトルを3連続で制覇したが、この年は86年メキシコ・ワールドカップ予選でに日本代表が勝ち抜いて、韓国との最終決戦まで持ち込む。最後はホーム、アウェーとも敗れてメキシコへの切符は逃すことになるが、主力の多くを送り込んでいた読売クと日産はともに選手たちの疲労でリーグでは不振に陥ってしまう。そんな事情もあって当初の2年契約は更新されず、ちょうど母国のヘルタ・ベルリンからのオファーもあったようで、グーテンドルフの日本での挑戦は2年で終了した。 在日時はサッカーマガジンにも「グーテンドルフの東方見聞録」というコラムを持ち、ヨーロッパのトップレベルの指導者の考えと独自の理論を展開した。連載の最後には韓国に敗れた直後という背景もあり、プロ化の必要性を強く訴えていた。 日本を去った後もすぐにヘルタの監督となり、さらにはガーナ代表、ネパール代表、フィジー代表、中国とイランのオリンピック代表なども指揮し、世界を股にかけて手腕を発揮した。指揮したチーム数と国の数は記録としてギネスブックにも掲載された。 2019年に93歳の生涯を閉じたと伝えられたが、Jリーグの誕生や日本代表のワールドカップ出場を世界のどこかで喜んでいてくれていただろうか。
著者プロフィール/くによし・よしひろ◎1954年11月2日生まれ、東京出身。1983年からサッカーマガジン編集部に所属し、サッカー取材歴は37年に及ぶ。現在はフリーランスとして活躍中。日本サッカー殿堂の選考委員も務める。
サッカーマガジンWeb編集部
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