Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/69b417fd2ce24a2294bc67326cc42a5fe0c38f73
米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。 独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。 ■専制主義とワクチン外交 新型コロナウイルスによる感染症との闘いにおいて切り札とされるのがワクチンである。すでに人口の半数のワクチン接種を終えたイスラエルでは新規感染者が劇的に減り、通常の生活に戻りつつある。先進国の中でも特に大きな被害を受けていたアメリカとイギリスでもワクチン接種が進み、トンネルの出口が見える状況になっている。そんな中で誰がワクチンを開発・製造し、誰が接種できるのかをめぐって地経学的な競争と対立が起きている。
誰がワクチンを開発し、誰が接種できるのかを決めるにあたって、専制主義的な体制は地経学的な戦略に基づいて判断することが容易である。ロシアは冷戦時代から蓄積していた生物兵器開発のレガシーを生かし、驚異的なスピードでワクチン開発を進め、そのワクチンに「スプートニクV」と冷戦時代の栄光を彷彿とさせる名をつけて、通常のワクチン開発で用いる治験の手順を省略してワクチン接種を開始した。感染症研究の権威的雑誌である『Lancet』に掲載された論文では、スプートニクVの有効性は91%と評価され、世界を驚かせた。
ロシアは製造元のウェブサイトによれば2021年2月の段階で20カ国以上に供給している。デューク大学のデータベースでは契約分も含めるとインドに1億回分、ベトナムに5000万回分など、ラテンアメリカ諸国を中心にワクチンを供給している。しかも、ロシアはワクチンの配分が少ない国の富裕層を狙って「ワクチンツーリズム」を展開し、ビジネスにしている。 同様に、中国もかなりのスピードでワクチン開発に成功したが、その有効性は79%とみられており、欧米やロシアのワクチンと比較すると見劣りする。しかし、ワクチンに対する需要が高い中では戦略的なツールとしての効果は十分に発揮している。
中国は63カ国に無償、有償でワクチンを供給しており、東南アジア(ASEAN10カ国のうちベトナムを除く9カ国)やスリランカ、ネパールなどのインド近隣諸国、さらにはハンガリーやセルビアなどの中東欧諸国など、幅広く供給している(THE|DIPLOMAT/The Logic of China’s Vaccine Diplomacy/2021年3月24日配信)。 興味深いのは、無償で提供する場合は数万から十数万回分と少量である。これだけの量しかなければ、公衆衛生上の集団免疫を獲得できないが、一部のエリートや富裕層には行き渡る。また、いくつかの国は無償の提供を受けた後、有償で数百万回分を調達しており、ワクチン外交が「試供品」のように扱われている側面もある点である。
ロシア、中国ともに注目すべきは、国内でのワクチン接種よりも輸出を優先しているという点である。ロシアは3月中旬の時点で550万人に1回目のワクチン接種を実施しているが、これは人口の3.8%にすぎない。また、中国は6月末までに人口の40%に接種を終えることを目標としているが、4月中旬の段階で人口の12.5%しかワクチンを接種していない。こうした輸出優先のワクチン戦略を実施できるのは、まさに専制主義体制のなせる業といえよう。
■民主主義体制のワクチンナショナリズム 他方で、多くの感染者と死者を出し、ロックダウンなど強制的な措置を導入したにもかかわらず感染拡大を抑えきれない状態を経験した欧米諸国において、ワクチンはコロナ禍から抜け出す唯一の手段といっても過言ではない状態であった。 そのため、国内で生産されたワクチンは優先的に国民に向けて配分し、一刻も早くワクチンによる集団免疫を獲得することが最優先事項となった。そのため、ワクチン生産能力を持つアメリカもイギリスもワクチンの国外への供給は制限されており、EUも輸出規制をかけて域内でのワクチン供給を優先した。
こうしたワクチンナショナリズムが席巻する中で、民主主義体制に光明をもたらしていたのはインドであった。インドはジェネリック医薬品の製造などで高い実績があり、度重なる感染症の経験からワクチン開発の技術基盤も生産能力もある国である。そのため、3月に行われた日米豪印(いわゆるクアッド)の首脳会議では、中国のワクチン外交に対抗するものとして期待されたのがインドからのワクチン輸出である。 実際、中国が台湾と国交を持つパラグアイに対し、ワクチン供給と引き換えに台湾との断交を迫ったときも、アメリカがインドに働きかけ、インド製のワクチンをパラグアイに供給することで中国の圧力を中和し、パラグアイも台湾との国交を維持することが可能となった。
しかし、2021年4月に入ってインドの感染状況が急速に悪化し、ワクチンへの需要が急激に高まったことで、インドもワクチンの輸出を規制するようになった。しかし、アメリカとイギリスにおけるワクチン接種がおおむね完了するため、これらの国々で輸出に向けた余力が生まれることになる。 ■ワクチン外交の地経学 ワクチンを生産する国は地経学的な優位性を持ち、その優位性を政治的なパワーに転換し、他国に圧力をかけ、自らの政策や要求を押し付けることができる。しかし、ワクチンを受け入れる側とすれば、どのワクチンであれ、提供してもらうものは何でも欲しいという状況にあり、供給する国が1つであれば、その供給国が圧倒的な影響力を得ることになる。そのため、パラグアイの例が示すように、敵対する国が独占的にワクチンを供給しようとしていれば、そこに割って入り、独占させないことがワクチン外交への対抗手段となる。
専制主義国家は国内での接種を後回しにしてでも、ワクチン外交を展開できるのに対し、民主主義国家は自国での接種を優先せざるをえない。この状態で民主主義体制におけるワクチン外交のカギとなるのはスピードである。より早くワクチンを開発し、より早く国内での接種を終えることでワクチン外交を展開する余力が生まれ、地経学的な優位性を維持することができる。そのためには、平時からのワクチン開発の技術基盤を整備し、人材を育成し、生産体制を整えることが重要である。
新型コロナは先進国でも甚大な被害が発生したことで、感染症が単なる公衆衛生の問題ではなく、安全保障の問題と同様に、人々の生命と財産を国家が守らねばならない危機として位置づけられた。 しかし、日本では、「新型コロナ対応・民間臨時調査会」(コロナ民間臨調、委員長:小林喜光 三菱ケミカルホールディングス会長、前経済同友会代表幹事)の検証が明らかにしたように、「泥縄だったけど、結果オーライ」という認識が行き渡り、ワクチンによる感染の抑え込みではなく、「三密を避ける」といった社会的介入によって感染を抑えられると認識していた。ところが、変異株が急速に拡大し、感染をコントロールできなくなってはじめてワクチンの接種が進んでいないことに焦り始めている。
日本は創薬国であるにもかかわらず、国産ワクチンがないのは、少子高齢化により、ワクチンよりも治療薬の開発が優先されたことや、研究開発予算が限られていることや、過去のワクチン薬害などからリスクの高いワクチン開発を避けたことなど、さまざまな原因がある。これらの原因が一朝一夕に変わることはなく、日本が国産ワクチンの開発を民主主義国に求められているスピードで開発することは、今後も難しい そんな中で日本に求められる政策は、まず、ワクチン開発を安全保障上の問題として位置づけ、ワクチン開発のための基礎研究を国が支え、将来の感染症に備えることである。いつ来るかわからない災害に対する備えは、地震であれ、津波であれ、感染症であれ、同じである。地震に対する備えと同様に感染症への備えとして、ビジネスにはなりにくいワクチン開発能力を国が支えなければならない。
また、ワクチンが開発できない場合に備えて、世界の製薬会社との関係を構築し、必要な量のワクチンを確保するための投資とネットワークづくりが欠かせない。ワクチンナショナリズムによって輸出規制がかかる場合もあるだろうが、世界の製薬会社に投資し、協力関係を築いておくことで、優先的に契約を結び、輸出許可を得やすい状況を作ることはできるであろう。 ■ワクチンは安全保障戦略としての再構築が必要 これまでの日本のワクチン外交は人間の安全保障という観点から、ワクチンの公正分配に主眼が置かれていた。パンデミックと戦うためにはグローバルなワクチンの分配は不可欠であり、公正な分配は最終的に目指さなければならない目的である。
しかし、新型コロナは保健衛生の論点を国際協力から安全保障にシフトさせ、地経学的な戦略が必要であることを認識させた。政府はワクチン開発を含め、感染症戦略としての検査、ワクチン、治療の備えを安全保障戦略として組み立て直す必要がある。これまでのように、厚労省や外務省に任せきりにするのではなく、国家レベルでの問題として国家安全保障局の経済班が司令塔となって地経学的観点から戦略を練り直すことが喫緊の課題である。国民の健康と安全を確保してこそ、人間の安全保障戦略を展開できるのである。
(鈴木一人/東京大学公共政策大学院教授、アジア・パシフィック・イニシアティブ上席研究員)
API地経学ブリーフィング
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