Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/15a3850e4aa22464a02c8376aff0775d6a7d60b9
翼をもがれた航空機技術者によって生まれたベスパ
イタリアを代表するスクーター「ベスパ」が2021年4月、誕生75周年を迎えた。 それを記念して製造元のピアッジオ社は、特別仕様車「ベスパ75th」シリーズをイタリアで発売した。ボディーカラーは1940年代に流行した黄系の色を再解釈したメタリックで、排気量は標準型の「プリマベーラ」には50、125、150ccが、上級モデルの「GTS」には125cc、300ccが用意される。 【画像】イタリアの街とベスパの写真を見る(10枚) これを機会に今回は、ベスパの歴史を振り返るとともに、イタリア人にとってベスパとは? を解説しよう。 ピアッジオ社は創業を1884年にさかのぼり、第2次世界大戦中は航空機メーカーとして多くの製品を旧イタリア王国軍に納入していた。しかし1943年、ピサ県ポンテデラの工場はドイツ軍によって占領され、飛行機製造の停止を余儀なくされた。そうしたなか、北部ピエモンテ州ビエラを本拠としていた研究開発陣は、創業家出身の社主エンリコ・ピアッジョのもと、戦後復興を担う民生品を模索し始めた。到達した答えは「スクーター」であった。 主任設計者に指名されたのは、同社で星形エンジンやイタリア初のヘリコプター計画にも参画したコッラディーノ・ダスカーニョ技師(1891-1981)だった。彼はチェーンを介さずエンジンの動力を後輪に伝達するダイレクトドライブ、ペダルではなくハンドルのグリップを回す変速機など、従来の二輪車とはまったく異なる機構を次々と盛り込んだ。さらに、乗員を衣服の汚れや乱れから解放すべく、機構部分全体を覆うモノコック(一体型)ボディーを採用した。 前輪を支える機構にも、通常の二輪車のフロントフォークの代わりに、片持ち式シングルアームを採用することでタイヤ交換を容易にした。 ダスカーニョ技師の娘たちがイタリアのテレビに明かした記録によると、生前の父親の関心はもっぱら飛行機と自動車に向けられ、二輪車には興味がなかったという。筆者が考えるに、だからこそ従来のモーターサイクルにとらわれない、画期的な乗り物が誕生したといっても過言でなかろう。 ネーミングについて記せば、プロトタイプ段階では従業員たちは、ディズニー映画のドナルドダックを示すイタリア語である「パペリーノ」と呼んでいた。ただしエンリコ・ピアッジョがある日、絞られたテールを目にすると同時に、エンジン音を聞いた途端「まるでハチ(vespa)のようだな」と感想をもらしたことから、正式な商品名が即座に決まった。 そしてピアッジオ社は1946年4月23日、「機械部分全体を包括する前後フェンダーを組み合わせたフレームを持つ、部品と要素を合理的に組み合わせた自動二輪車」の名称で特許を出願した。これこそベスパの誕生であった。 発売当初こそ鳴かず飛ばずの状態だったが、戦後イタリアで公共交通機関が不足や混乱をきたすなか、まもなく軽便な国民の足として大きな人気を博し始めた。 1953年には、ウィリアム・ワイラー監督による映画作品「ローマの休日」のなかで、グレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンが移動手段として用いたことで、その存在は世界的に有名となった。 以後バリエーションを拡大しながら、今日に至っている。2021年現在、ベスパは83の国と地域で販売されている。生産拠点は3カ所で、発祥の地であるピサ県のポンテデラでは西欧圏および北米向け、ベトナム工場では現地および極東アジア、インド向け、そして2012年に開所したインド工場では同国およびネパール向けが造られている。歴代ベスパ・シリーズの累計生産台数は、1900万台にのぼる。
誰もが思い出を語れる「イタリアの恋人」
ベスパは多くのイタリア人にとって、初めて手にしたエンジン付き移動手段であると同時に、戦後文化のひとつであるといっても過言ではない。 最初のベスパ愛好クラブは、なんと誕生わずか3年後の1949年に結成されたうえ、同年に大会も催している。「ベスパッパッパッパ」という、エンジン音を模した1960年代の映画館用コマーシャルフィルムは、イタリア広告史における名作として知られている。そうしたCMに描かれているのは、高度経済成長期にベスパで移動の自由を謳歌(おうか)する若者たちである。イタリアの恋人といった感が溢(あふ)れている。 いっぽう近年のイタリア市場では、ベスパの独壇場とは言い難い。2019年スクーター新車販売台数における1位はホンダ(54,855台)で、ベスパを製造するピアジオはそれに次ぐ2位(36,282台。台数はいずれもANFIA/EICMA調べ)だ。それを台湾のキムコとヤマハが猛追する。 それでも今回写真で紹介するように、今日でも各地でベスパ、それもちょっと古いモデルが人々と生活をともにしている姿を目にする。 トスカーナに住む元・石工のお年寄りは、秋になるとライフルを担ぎ、ベスパのステップ部分に猟犬を載せてハンティングに森へと向かって行くのが趣味だ。元病院勤務医の知人は、ベスパPXの復元が定年退職後のホビーである。 現在50代以上の人と話をすれば、大抵ひとつやふたつ、ベスパにまつわるエピソードを聞くことができる。知人の観光ガイドで、1958年生まれのルチアも、そのひとりだ。「父が持っていた1970年代の白いベスパ50を、本人が亡くなってから使い始めました」という。 参考までに、ベスパ50は1963年にピアジオ社が発売した排気量50cc、日本でいうところの原付き扱いのモデルである。発売当初のイタリアの道路交通法でこのカテゴリーは、免許不要、ヘルメット不要、登録およびナンバープレート不要であった。ヘルメットに至っては1992年まで不要で、筆者も人々がいわゆる“ノーヘル”で運転していたのを記憶している。 本人の回想は、例の変速機に及んだ。筆者自身もベスパを操縦した経験があるが、独特な変速機の操作は、それなりに慣れを要したのを覚えている。 「私はエンジンブレーキを利かせて走るのが好きでした。でもある日、1速で下り坂を走っていたとき、いきなりギア抜け(変速機が勝手にニュートラルに戻ってしまう現象)を起こしてしまい、いきなりスピードが上昇して、それは焦りました」 そうした古いなりの苦労があったが、ベスパを通じ、父の思い出を楽しんだ。 彼女の夫で医師のアルベルトも、ベスパの記憶を披露してくれた。 「1990年代初頭、赤い1962年製のベスパ125を手に入れて、家族4人で乗っていましたよ。運転する私の前に5歳くらいの息子が立ち、私の後ろに娘と妻が座るのです。まだ法規や取り締まりが緩かった時代の楽しい思い出です」 その後彼のベスパは自邸に放置されていたが、しばらく前友人に譲ったところ、再塗装も含め丹念に修復を施され、見違えるように蘇(よみがえ)ったという。 ベスパは、中高年の思い出アイテムだけにとどまっていない。若者にとって、ベスパはヴィンティッジ・スタイルを体現する身近なアイテムである。 各地で行われる自動車のスワップミート(部品交換会)は、来場者の高齢化が顕著だ。しかし毎年9月、北部のイモラ・サーキットで開催されるそれは、若者たちの姿も目立つ。主催者のブルーノ・ブルーザ氏に理由を分析してもらえば、「うちのイベントは二輪のショップも充実していて、ベスパの古いパーツを物色できるからですよ」と教えてくれた。加えていえば、イタリアの街には、今でも大小のベスパ・クラブが大抵存在し、自身よりも年上のベスパを大切にする若者たちが集っている。 歴史を語って楽しみ、修復して楽しみ、そして同好の士と乗って楽しむ。このように偉大かつ身近な20世紀の工業遺産があるイタリア人を、筆者はうらやましく思うのである。 (写真/Akio Lorenzo OYA/PIAGGIO)
朝日新聞社
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