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東京・多摩地区でも有数の歓楽街ハモニカ横丁。戦後の闇市を発祥とする横丁にはいま、アジアの陽気さが満ちている。飲食業界の人手不足から、さまざまな国籍の店員が急増したのだ。彼らはどんな思いで仕事をしているのか。そして外国人とともに働くとはどういうことなのか。外国人頼みになった飲食の実情を取材した。(取材・文:室橋裕和/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
ネパール、台湾、ベトナム、タイ……路地裏は多民族
JR吉祥寺駅の北口から通りを渡って、雑居ビルの隙間から奥に歩いていくと、そこはまるで映画の世界。古びた狭い路地が迷路のように連なり、小さな商店や飲み屋が密集する。夜になれば酔っぱらいたちのざわめきがなんとも楽しい。ギターを手にした「流し」も行き来して、昭和の匂いも立ち込める。 ここは東京武蔵野市吉祥寺、ハモニカ横丁。間口の狭い店がびっしりと立て込む様子をハーモニカの吹き口に見立ててそう呼ばれるようになったというが、この街でいま元気なのは外国人の店員たちだ。 「一杯だけでも大丈夫です! 何名様でしょうかあ」 威勢よく呼び込みをしているのはネパール人のおばちゃんだ。台湾人とベトナム人が切り盛りする居酒屋もあれば、中国人が働く餃子屋もあり、その隣からは陽気なタイの音楽が流れる。路地の出口にあるビアホールの店長はネパール人で、カウンターに座った客の日本人と楽しげに話している。
無国籍な賑わいが評判を呼び、人気の歓楽街となっているハモニカ横丁だが、そこにはまた外国人の労働力頼みになりつつある日本の現状も垣間見える。 「もう彼らとやっていく以外に、飲食なんて成り立たないんですよ」 横丁の片隅で飲んでいた手塚一郎さん(75)が言う。街の「多国籍化」の立役者だ。手塚さんの運営するVIC社は横丁内に11店舗を展開、正社員やアルバイト合わせておよそ60人の外国人が働く。手塚さんは彼らに店を任せながら、どう付き合っていけばいいのか、考え続けている。
闇市の面影をいまに残す
終戦直後、吉祥寺駅前にできた闇市がハモニカ横丁のルーツだ。露天商が集まり、食料品や衣服や酒、進駐軍から流れてきた品などを売っていたそうだ。そこにバラックが立ち、やがて商店街に。東京西郊の吉祥寺には焼野原となった都心部から移住してくる人が増えたこともあり、庶民の生活を支える商店街としてずいぶん賑わったという。戦後復興の波に乗ったのだ。 しかし1970年代に入ると風向きが変わる。吉祥寺駅周辺にも大型デパートが続々とオープン。再開発からも取り残され、少しずつ寂れていく。
「シャッター通りで、真っ暗でしたよ」 1998年に横丁へとやってきた当時のことを、手塚さんはそう回想する。 「だから、ここならなんでもできるって思ったよね」 もともとはビデオ機材の販売業者だ。まずビデオテープの専門店をハモニカ横丁に開き、空いていた2階で焼き鳥屋「ハモニカキッチン」を始めた。これが評判になった。というのも、店はカフェバーのようなおしゃれな佇まいで、闇市の面影が残る横丁の中にあって奇妙なコントラストを見せたからだ。 それから手塚さんは名前も内装も一風変わった飲み屋を次々と横丁につくっていった。「モスクワ」という名のスぺインバル、隈研吾内装の焼き鳥屋「てっちゃん」、ローストチキンが専門の「ポヨ」……。昔懐かしい横丁を期待してやってきた人々は、見事に裏切られる。そこに面白さを感じるお客で、街はまた賑わうようになってきた。 「昭和レトロという一言で横丁を消費されないように、いろいろ考えてきたよね」
横丁で稼ぎ、家族を養う外国人
横丁再興の仕掛人とも呼ばれた手塚さんの次なる挑戦が「外国人との共存」だった。飲食の世界で働こうという日本人がだんだんと減り、代わりに外国人が仕事を求めてやってくるようになったからだ。ネパール人のアルジュン・タパさん(34)もそのひとりだ。 「VICで働いてもう9年ですね。はじめは留学生で、アルバイトだったんです」 先に日本に来ていた友人に誘われ、自分も留学してみることにした。新大久保の日本語学校に通いながらVICでのアルバイトを始めたが、すっかり面白くなってしまった。 「いろんなお客さんと会話して、日本語に慣れていって、毎日新しい言葉を教えてもらって。むしろこっちがほうが日本語学校みたいだった」
卒業後は働きぶりを認められ、正社員として採用された。いまではビアホール「ミュンヘン」を切り盛りする。「13種類もあるんですよ」というヨーロッパのビールをグラスに注ぎ、客と冗談を言い合いながら、横丁を通る人たちに「2階広い席ありますよ、どうぞ」なんて声をかけている。常連客の中には、9年前からの顔もあるそうだ。 「いまではVICというより、自分の仕事だと思って働いているんです。この店で育った人間ですから」 同じネパール人のサビナ・タパさん(32)はいまや、横丁の名物おかみだ。毎晩「FOOD LABO」の前に陣取り、行き交う人々に声をかける。 「お通しありません。2階3階空いてますよ、どうですかあ」
親しげな口調と笑顔に、つい誘われる客は多い。「彼女の呼び込みであの店の売り上げが倍くらいに伸びた」と手塚さんも舌を巻く。 「日本人だったらさ、呼び込みでも『どうすか、いかがですか』って適当に言うだけでしょ。でも彼女は違う。この人に寄っていってもらうんだって情熱と確信をもって声をかけてるよね」 席が埋まってきたとみるや、今度はホールを慌ただしく縫い、注文をさばき、酒や料理をサーブする。とにかくずっと動いているのだ。 「生まれはゴルカなの(世界各地の軍隊で重用されているグルカ兵のおもな出身地)。だから強いよ、あっはっは」 彼女の原動力は子どもたちだ。荻窪にあるネパール人学校に通わせている。授業はすべて英語のインターナショナル校で、学費はなかなかに高い。それでも、少しでもいい教育を受けさせたい。 「だから頑張ってるんじゃん!」 サビナさんは笑顔でそう言い残し、またお客のもとに走っていく。
国を越えた近所づきあい
VICグループ以外にも、ハモニカ横丁には外国人が働く店がいくつもある。タイ居酒屋「アジア食堂ココナッツ」もそのひとつだ。代表の小林ポンティップさん、ニックネームなっちゃん(31)はいつも元気に路地を行き来する。お店だけでなく、横丁の看板娘なのだ。
「お隣は50年やってる餃子屋さんで中国の方がいて、向かいの焼きとんの店でもミャンマーの方が働いていて」 ご近所さんとはすっかり仲良しだ。彼女の笑顔を見に来る常連客も多い。手塚さんも「ココナッツ」の前を通り過ぎるときには、なっちゃんに手を上げていく。 「ハモニカ横丁はいろんな店があって、わくわくする場所ですよね」 そう話すなっちゃんが高校生のときだ。日本人の父とタイ人の母が横丁に店を開いた。駅に近いだけあって家賃の高さに父は躊躇したが、VICグループの進出もあって賑わうようになっていた横丁を見て「いい場所だな」と思った母が思い切って契約書にサインをした。 しかし5年ほど前のことだ。父が体調を崩し、母ひとりで店を回すのがしんどくなった。だからなっちゃんは就職していた会社を辞めて、横丁にやってきた。 「それからどんどん、ほかの店でも外国人のスタッフが増えはじめましたよね」
なっちゃんは彼らと気さくに言葉を交わす。着なくなった服をサビナさんの子どもたちにプレゼントすることもある。横丁の近所づきあいなのだ。それはアルジュンさんも同じで、隣の着物屋の日本人とも親しげに挨拶しあう。仕事を終えた商店街の日本人がアルジュンさんやなっちゃんと話そうと飲みに来る。 こんな横丁にギターを手にし、夜ごと訪れる「流し」の歌うたいトモクロウさんも外国人の店員たちにはすっかり知られた存在だ。 「仕事の合間にさりげなく歌を聞いてくれたり、良かったよって褒めてくれたり。たまにこっそり一杯おごってくれたり(笑)。ここは流しやすい、受け入れてもらいやすい街ですよね」 なっちゃんが言う。 「就職活動してたとき、外国籍だからと落とされることが多かったんです」 でもハモニカ横丁は違うのだ。誰でもなじめる空気がある。大切な居場所となったこの街でずっと店をやっていきたいと、彼女は思っている。
日本人も外国人も待遇は同じ、コロナ禍で得た手応え
毎週月曜11時、VIC本社で行われるミーティングには各店舗の責任者たちが日本人も外国人もなく参加する。 「ラムのローストが思ったほど出ないですね」 「かなりお客さんが増えていて手が足りません。人を回してもらえないでしょうか」 互いにその週の出来事や気が付いたことなどを報告し合う。もちろん日本語で、だ。 日本人のスタッフからはお灸も据えられた。 「お客さまからクレームがありました。店員にワインをこぼされてクリーニング代をもらったけれど、洗濯に出しても汚れが落ちなかったそうです。だから電話をしたところ日本語がわからないのか、切られたと」 気まずい空気が流れる。改めてトラブルの際の対応や、保険会社とのやりとりの説明があり、「何度も配ってますが」とお酒をこぼしたときのマニュアルが全員に手渡される。
それでも手塚さんが厳しく怒ることはあまりない。外国人が貴重な戦力だからということ以上に、一人ひとりを観察し、彼らとの付き合い方を模索しているようにも見える。 「大学がICU(国際基督教大学)だったから、欧米の学生もたくさんいてね。接しているうちに、世界中みんな同じなんだって思うようになった。でも、10年ほど前から増えてきた子たちは違うんだよね」 途上国から働きに来た人々。習慣や感じ方がずいぶんと異なる。良くも悪くもおおらかだ。一生懸命に働いているようには見えるが言葉の問題もあって本質はなかなかわからないし、どこか日本人を信じていないようにも感じる。 「だから、一緒にやるぞ、なにかあったら必ず面倒を見るぞって過剰なまでに発信しないと、信用されないのかなって思う」
手塚さんは毎夜ハモニカ横丁を飲み歩き、外国人のスタッフに声をかけ、見守る。給与や待遇はすべて日本人スタッフと同じだ。帰郷のため年に3週間、まとまった休みも取れる。 「でも中には、1か月たっても帰ってこないやつがいる」 なんて苦笑する。産休も取れるし、赤ちゃんを抱いてミーティングに参加する人もいる。社会保険もある。ごく普通のように思うが、この国ではそんな当たり前の労働環境を得られていない外国人はけっこう多いのだ。
「一生懸命に働くやつが、やりやすいように店をつくっていこうとは考えてるよね」 こうしておよそ10年、外国人たちと向き合ってきた。 少しだけ手ごたえを感じ始めたのはコロナ禍のときだ。すべての店を閉め、横丁は閑散となった。 「給料はいらないからがんばろう、乗り切ろうって言ってくれたのは、日本人よりもむしろ外国人だった。それからは、割合いろんなことを話してくれるようになったかな」 とはいえ、まだまだ足りない、彼らをカバーできることはあるのだと手塚さんは言う。 「外国人と働くようになって、いま10年。さらにあと10年続けて、やっと信頼みたいなものを得られるんじゃないかな。それが僕の仕事だと思ってる」
「ハモニカキッチン」のカウンターでは、ネパール人のソナ・タマンさん(39)が客と談笑している。柔和な笑顔の安心感は、なんだか小料理屋のおかみのようだ。 「働くのは楽しいよね。お客さんと話していると、時間が過ぎるのあっという間で」 週1回くらい来るという日本人客は、好物だというラムのネギ炒めをつつきながら言う。 「話してると居心地良くて。それに、ほかのお客さんとの会話を見てるのも楽しいですよね」
はるかヒマラヤから来たネパール人が、日本人に束の間の安らぎを与えている。飲食業界に外国人はもう欠かせない存在だ。手塚さんが言う。 「言葉もぎりぎりわかるくらいで、身体ひとつで異国で働くんですよ。あのエネルギーにはかなわないと思う」 老いていくばかりのこの国はますます、外国人頼みになっていくだろう。もっと行政は柔軟な制度づくりをすべきではないか。ビザの種類によって可能な仕事が限られ、例えば店舗管理者が皿洗いをするだけで「違法」になる。もっと働いてもっと稼ぎたいと思っても、労働基準法による制限がある。
「働き手として一緒にやっていく仕組みをつくらないと」 手塚さんは訴える。 しかし、だ。どうしてそこまで外国人に親身になり、面倒を見るのだろう。 「うーん、なんでですかね」 悩みながらも、しばらくしてからこう答えた。 「外国人って、わからないから面白いよね。お互いわからなくて当たり前で、その中でも通じるものができればいいなって」 ハモニカ横丁は今夜も賑わう。常に時代を映し出してきたこの街はいま、アジアの混沌の中にある。これからどう変化し、どんな人たちが行き交うようになるのだろうか。 ___ 「#昭和98年」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。仮に昭和が続いていれば、今年で昭和98年。令和になり5年が経ちますが、文化や価値観など現在にも「昭和」「平成」の面影は残っているのではないでしょうか。3つの元号を通して見える違いや残していきたい伝統を振り返り、「今」に活かしたい教訓や、楽しめる情報を発信します。
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