Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/93fbc4db30f7e9e2433bf6b2bf1e84c52440459f
56年前の1965年10月15日に、2人のフランス人の若者がコルシカ島からシトロエン2CVフルゴネットで世界一周の旅に出た。予定では、ヨーロッパから中東を巡り、ネパールを目指し、さらに日本を経由してオーストラリアに渡り、そこからアメリカ大陸に向かうつもりだった。しかし、若者のうちのひとりが東京で日本人女性と結婚し、男の子も生まれ、家庭を持ったので彼の世界一周の旅は半分で終わった。もうひとりは旅を続けたらしいが、詳細はわからない。2CVフルゴネットのその後も不明だ。しかし、若者たちは多くの写真を残し、『La GLANDOUILLE』という本まで自費出版していた。 【写真を見る】インドでの旅の様子。
1966年11月前半の頃だった。ポールさんたちは、首都デリーを中心として北インド地方を精力的に移動し続けていた。デリーからカラコルム山脈の麓であるカシミール地方のシュリーナガルまで一気に上っていき、チャンディーガルに寄ってデリーに戻り、南西のジャイプルへ向かい、そこからタージマハルのあるアグラへと東に戻る。カジュラホ、サーンチーなども訪れながら、さらに南下していく。感じ、考えさせられたことも多かったのか、道中のできごとをこまめにノートに記している。 「インドでは積極的に寺院を見学して回った。なるべく多くの寺院を訪れてみたかったからだ。なぜならば、インドの寺院は“生きている”からだ。すでに役割を終えた遺跡ではなくて、いま現実を生きている人々が集い、神仏に帰依していた。そこを訪れ、同じ空間を体験してみたかった」 それぞれに魅せられた。インドの歴史と宗教美術に圧倒された。 <11月1日、ジャイプルで、マハラジャの家を観に行った。繊細な装飾や絵などが大きな家の壁や天井などにびっしりと施されている。昔の武器なども展示されていて、それらも見応えがあった。夜は、観光客向けのバンガローに泊まった。2.5ルピーだった> <11月3日、ジャイプルを出て、アグナに向かった。途中で、鳩4匹、孔雀1匹を銃で仕留めた。孔雀は羽根をむしると、見た目は大きなターキーそっくりだ。アグナに向かう道の町外れにキャンプして、孔雀を焼いて食べた。見た目と一緒で、食べてもとても美味い。焼いていると、匂いに釣られて付近のインド人が何十人も寄って来た> <11月4日、ひたすらアグナに向かって走り続ける。昼に、昨日の鳥の残りをご飯と一緒に食べる。美味い。夜中に到着。チャンディーガルで友達になった人たちに勧められたホテルにチェックイン。彼らが、僕らが泊まりに行くことをすでに連絡しておいてくれて、歓迎された> <11月5日、タージ・マハルを観に行った。純白の巨大な霊廟に圧倒された> <11月6日、アグラからカジュラホに向かう。狩りがうまくいかず、鳥を手に入れられなかった。今晩は何も食べるものがない> <11月7日、朝、オートミールを食べる。カジュラホにはたくさん寺院があって、そのうちのいくつかの寺院の壁の外壁は全面に人間の姿が彫られていて、なんと男女が交合しているのだ。すべて異なったポーズを取っている男女が何百も彫られていたのには驚かされた。しかし、すべてが美しく、ブッダがきれいだ。写真をたくさん撮った> ポールさんが驚いたのは、豊穣祈願の交合像が無数に彫られているカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院やヴィシュヴァナータ寺院、パールシュバナータ寺院などだ。 <11月8日、象の前にzuzuを置いて、写真を撮った。5匹の鳩と2匹の青い鳥を仕留める。ショパールという町で、手持ちのアメリカドルをルピーに両替した> ポールさんたちは、各地で仕事をした報酬をすべてアメリカドルで受け取っていた。それをそのまま使うこともあったし、現地通貨に両替して使うこともあった。 「現地通貨でしか支払われなかった場合は、それでゴールド(黄金)を購入して、次の国で両替して支払った」 <サーンチーに夕方に到着。今晩のディナーは鳩とインゲンだ。娼婦はきれいだが、可愛くない> サーンチーも大乗仏教遺跡があり、多くの仏塔や寺院などが存在している。1989年に世界遺産に登録されている <ナグプールというところに、フランスの尼さんがいるらしいというので行ってみた。2時間も掛かったが、シスターたちに会えた。彼女から、この辺りは飢饉が起きると人が死ぬ地域であると困っていた。そこらじゅうに歩いている牛たちを食べればいいのではないか。僕と同じことを考えている人たちもいるようで、その人たちに反対するデモにも遭遇した。「牛は敬うべきものだから、国が保護して、象徴として大切に扱え。牛を食べるなんて反対!」と主張していた。なんということなのだろう。人間が飢えているというのに、牛を国が保護してどうしろというのだろうか?> シスターからパンと缶詰をもらったポールさんたちは、ナグプールの町を出た。走行中のzuzuに猿がブツかり、サイドミラーが外れてしまった。 <11月10日、教会に戻り、神父さんと一緒にご飯をごちそうになる。泊めてもくれた。蚊がスゴかった。夜中に、叫び声と泣き声で起こされた。怪我をした女性が運ばれて来たのだが、ここでは治療できるわけではなく、どうしようもなかった。朝、zuzuのオイル交換とサスペンションのグリスアップを行なう。日曜日なので、礼拝にも参加した。朝ご飯まで食べさせてくれた。神父さんとシスターからインドの実情などをいろいろと聞く。出発時に、シスターは僕らに5kgの米、2kgのナッツ、6個の缶詰をくれた。ありがたいことだ。道端で眠る> 現代のクルマでは必要がなくなったが、昔のクルマにはサスペンションなどの可動部分の潤滑のためグリスアップが必要だった。筆者は、1978年型のプジョー504Dに乗っていたことがあったが、4輪のサスペンションとステアリングのピニオンに必要だった。走行5000kmごとに、ガソリンスタンドや修理工場で、リフトで持ち上げ、グリスガンという注入機で入れ込んでいた。 <11月13日、zuzuのガソリンがなくなったので、隣村で3リッターだけ入れた。資金も乏しくなったので、腕時計を売ろうとしたが、売れない。良くないことは続くもので、右前タイヤがパンク。直して走り出したところで、猛烈な下痢に襲われる。教会に戻って、ご飯を恵んでもらい、シスターから下痢に効くという“リシンのオイル”をもらう。横にならさせてもらったが、治らなかった。下痢がずっと続く> <11月14日、オイルが効いたみたいだ。下痢は治った。ビラスプールに向かって出発。走り出して、また、猿が突っ込んできた。ドアを開けられ、窓が割れた。ジャングルの中を抜ける区間は道が悪く、舗装もされていない。土ボコリがすごい。左右の前輪ともパンク。パーキングスペースで車中泊。寄生虫をやっつける最後のことをした。ツラかった。調子の悪い時の旅はツラいぜ> 14日を最後にインドについての記述は途絶えている。ヒンドゥー教の聖地ヴァラナシのカーシー・ヴィシュヴァナート寺院(黄金寺院)の絵を後に描いているから訪れたと思われるのだが、11月23日にネパールに入国したことの後に、ひとこと「16日から23日は地獄だった」と書かれているだけだ。下痢の悪化と道路事情の悪さが理由だろう。ノートに日記を記す元気も失われていたに違いない。 その代わり、インドについての総括的な記述が『La GLANDOUILLE』に書かれている。旅を終え、時間が経ってから自費出版されたものだから、冷静に振り返りながらも、詩的な表現も含まれている。 <この頃は、インドに行くのが流行っていた。誰がインドからのメッセージを持ち帰るのかを競うようだった。 見たよ、わかったよ。 ガリガリに痩せたヤツらが大勢集まっているところを見にいく。 ハゲタカたちの残酷な料理を見に行く。 ハゲタカは人間が食べてはいけない牛も食べることができる。 カルカッタでは、プロの物乞いに気を付けろ。 インド人はガンジーのような非暴力的な人間ばかりではない。アブないヤツらだ。 インドでは、(選択肢の)2つ目が必ず答えになっている。 牛は食ってしまえばいいんだ。 インド人は、太陽が上がってきて、しゃがみ、大便をしながら、僕たちを眺めている。 でも、僕たちがインド人を見ることはできない。ヤツらがお前を見るからだ。この視線はすべてを悟っていて、僕らに理解されることを拒否している。カメラだけが、彼らの視線に耐えられる。 インドは、百万の視線の国なのだ。 僕らに、インド人の考え方やヒンドゥーの教えなんてわかるわけがない。 なぜ、ヨーロッパ人はキリスト教を他に広めようとするのか? インドには、インド人の数だけ宗教と哲学がある。 インドについて的確に捉えていたのは、ルイ・マルの作品だけだった。(注:1969年に公開されたドキュメンタリー映画『カルカッタ』のこと) インドの景色やジャングルなどは素敵だ。 商売したくても、インドでは難しいだろう。 セックスに対しての考え方が異常におかしい。ルイ・マルに、ぜひ次回作を期待したい。インドが好きになるだろう。 マルクス、レーニン、マオ(毛沢東)、チェ(・ゲバラ)、ヒッピー。 すべてのことは手が届くところにあるのに> PROFILE 金子浩久 モータリングライター 本文中のユーラシア横断は『ユーラシア横断1万5000km』として、もうひとつのライフワークであるクルマのオーナールポルタージュ『10年10万kmストーリー』シリーズとして出版されている。 文・金子浩久 取材協力・大野貴幸
文・金子浩久 取材協力・大野貴幸
0 件のコメント:
コメントを投稿