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地上で最も厳しい8000m級の14座を最速で制覇したネパール人登山家、ニルマル・"ニムス"・プルジャ。自信過剰な言動でかつてない実績を叩き出す彼は、登山界で大論争を招いている人物でもある。 【写真】ニルマル・プルジャは、インフルエンサーの時代にあって、登山家とは何を意味するのか、という問いを投げかけている。 ■シェルパの存在感を登山界で高めるために 「ヒマラヤのマッターホルン」と呼ばれる標高6812mのアマダブラムのベースキャンプに辿り着くと、登山家ニルマル・〝ニムス〟・プルジャはビーチバレーの熱戦の最中だった。周辺には、ニムスの登山ガイド会社「エリート・エクスペディションズ」が立てた65張ほどのテントが村を成している。 この会社は、超のつく野心家であるニムスが、世界屈指の有名登山家という地位を、登山記録を塗り替える資金を稼ぎ出す以上の事業に繋げるための新たな一手だ。ネパール生まれのニムスはヒマラヤガイド産業の旧来のパラダイムを一変させ、シェルパガイド(ネパールの少数民族で登山者の案内役)の存在感を高めようとしている。そして彼の常として、やるならとことん派手に。 急拵えのバレーボール・コートで試合中だった39歳のニムスの身体能力は高い。薄い口髭、アーモンドのような瞳、黒髪を撫でつけた姿はボリウッドスターのようだ。身長は170cmちょっとしかないのに、ネットの上からスパイクを打てる。 この4年間、彼は、登山界のみならず広く世界に衝撃を与えてきた。2019年に8000mを超える高山14座すべてを、わずか6カ月と6日で踏破して、その名を世界に轟かせた。この独創的偉業のあと、『Beyond Possible』(原題)という本を出し、Netflixのドキュメンタリー『ニルマル・プルジャ:不可能を可能にした登山家』も公開され、登山家が滅多に手に入れることのない力を得たことで、悪評も同時に広がった。そして今、ニムスはその影響力を自分自身のため、そしてシェルパの仲間のために、どのように使うか考えている。目指すのは、ヒマラヤのガイド産業を自らの思う通りに変革すること。その過程で、インフルエンサーの時代にあって、登山家とは何を意味するのか、という問いを投げかけている。 ニムスがヒマラヤ登山隊を率いるアマダブラムのベースキャンプでの取材を取り付けた私は、まずカトマンズから道無きシェルパの里、標高3440mのナムチェバザールまでヘリコプターで飛んだ。そこからは、クンブ谷を通って、エリート・エクスペディションズのテント村まで歩いて3日の道程だ。登山に参加する20人ほどの客は、1人あたり、およそ1万1000ドルもの金を払って、ニムスのシェルパガイドとロープを共にし、25日間で山頂を目指す。そのうち1週間は高度順化のために使われ、その後に苦しい2日間の頂上アタックがある。ベースキャンプには「エリート」のほかに、12かそこらの団体がいたが、互いの交流はなかった。「エリート」の敷地はロープで囲まれ、上品な看板が「立ち入り禁止」と告げている。 「エリート」キャンプの中心は、高さ9mほどのドームテントが2張。そこで登山客らは食事する。その日の夕食で、ニムスはいっぽうのドームのT字型に置かれたテーブルの中心に座ると、天気予報に続いて、客とシェルパのチームごとに作られたアタックプランを、メモも見ずに個別に説明していった。ニムスを囲むのは、元英軍特殊部隊などの陽気でいかつい男たち。ヒーターがうなるテントのなかでは、高度順化中ではない12人ほどの登山客が座り心地の良いアームチェアで何かをつまんでいた。 夕食後、シェルパたちが地元のDJバダルを呼び出すと、テントのなかは一気にダンスパーティに。ボトル5分の1のラムを、ニムスがみんなのコップに注ぐ。ノリノリの客やシェルパたちについて、ニムスはこう言った。「何をしたって構わない。でも、次の日使いものにならなかったら、終わりです」 2019年、エベレストの山頂近くで数百人の登山者が渋滞を起こす光景を撮ったニムスの写真は国際的なニュースになった。同様に、彼が行った数多くの救助活動も。昨年9月には、世界第8位のマナスル山頂から滑落死したアメリカの山岳スキーヤー、ヒラリー・ネルソンの遺体回収チームを組織した。 ニムスは客たちに細心の注意を払い、シェルパチームを大切にしている。背負っているのは、客とスタッフの安全だけではないことをニムスは自覚している。 ニムスの名はカトマンズ中に存在する。トリブバン国際空港で私を迎えてくれた特注の白いランドローバーのフードには、すっきりしたフォントで「Nimsdai」という言葉が書かれていた。 約9000人を犠牲にした2015年のネパール大地震のあと建設された5つ星ホテル、マリオットに隣接するショッピングモールの上にも、この7文字が輝いている。それは、この一角にあるアップルストアの上にあるニムスの登山用具の旗艦店の名であり、同時に、ヒマラヤの登山者の口の端に上らないことのない小柄なネパール人の名前でもある。ニルマル・プルジャは、別名ニムス・プルジャ、またの名をニムスダイという。 ニムスダイの意味は「兄弟ニムス」。彼は家族であると同時に神のような英雄でもある。テンジン・ノルゲイの再来でもあるが、新生テンジンは、礼儀正しくエドモンド・ヒラリーの手伝いをするのでなく、自分の実績を誇り、隠れてシェルパを雇おうとする海外の著名登山家を嘲笑う。 現在、ニムスは英国籍を持っているが、元はインド国境に近いチトワンの茹だるような道を駆けるマガール族の裸足の少年だった。ストライプのネクタイと青いカーディガンという制服を着て、腕を組んで道を歩く寄宿学校の生徒でもあった。その後、大英帝国が19世紀初頭に開設したグルカ兵部隊に入り、強い意志で自らを鍛え、ネパール人として初めて英海兵特殊舟艇部隊に選ばれた。米海兵隊のシールズに相当するエリート部隊だ。ネパールは海を持たないにもかかわらず。 ニムスは9つの会社を経営しているというが、すべての名前は明かさなかった。著書とドキュメンタリーはどちらも自伝的なもので、ベストセラーとなった『Beyond Possible』は、まるでアイオワでの休暇に突然連れて行かれたアメリカの政治家の回顧録のようにも読める。ドキュメンタリーのほうは2021年にNetflixが公開した番組のなかで最も人気だったという。講演の依頼は後を絶たず、マンツーマンでエベレスト登山をガイドしてもらうと100万ドル以上かかるのだと続ける。 ニムスは過剰だ。だが、その頑張りと虚勢があったからこそ、メインストリームに躍り出ることができた。私は10年以上、折りに触れて登山の世界とシェルパ文化について取材してきた。ネパールにルーツを持つ登山家には、正気の沙汰ではないくらいに強靭な者が常にいた。しかし、マーケティング用語で言うところの「マインドシェア(あるブランドや企業が消費者にどのくらい好まれているかを示す比率)」をニムスほど集めた登山家はほかにいない。そうなる途上で、ニムスは熱烈なファン軍団と同時に、数多の批判を集めた。ファンは高山登山界の時代の星だと言い、反対する者は、自己宣伝がうまい自信家だと批判する。 いよいよニムスに会えるとカトマンズで支度を整えながら、私はこうした問いを反芻していた。空港でヘリコプターのローターの下に身を屈ませながら、機体の「ニムスダイ」という黒いレタリングに目が引き寄せられた。 ヘリを降りたナムチェバザールは、ドゥドコシ川とボテコシ川の合流点の上にある広々とした円形劇場のような丘の上にある。街の向こうの稜線に目をやると、西峰に100トンの氷の飾りをつけた花崗岩の頂点が「母のネックレス」のように見えるアマダブラムが見える。そのさらに奥には、8848mのエベレストのどっしりとした姿も見える。シェルパたちがチョモランマと呼ぶこの山は決して最も美しい山ではない。だが、ジェット気流に突き出るほど高いために、頂上は成層圏に飛沫を飛ばし、まるで宇宙に爪を立てているようだ。 ほとんどの人にとって、ヒマラヤの山々はたんに畏れの対象だが、ある種の不運な登山者たちにとっては、我慢できない憧れとなる。世界で最も高い14座は、地質学とメートル法の絶妙な一致によって、8000m峰と呼ばれる。8000mを超えると人間の体は空気の薄さに適応できなくなる。つまり、ここは長居のできない「死のゾーン」なのである。 ニムスが世界を驚かせた舞台が、ネパール、チベット、パキスタンの国境地帯に隆起したまさにこの14座だった。ニムスが高山に最初に挑んだのは2012年、29歳の時だった。4年後、特殊部隊から離れている時にエベレストの頂上を踏んだ。そして、それ以前には「死のゾーン」4座しか制覇していなかったにもかかわらず、2019年、わずか6カ月と6日で14座を踏破。プロジェクトの名は「プロジェクト・ポッシブル(可能)」。山を知る人たちが、そんなことは不可能だと言ったからだ。ニムス以前の記録は相当に速いものだったが、それでも7年かかった。モンスーンと厳冬期の間の春と秋に1座ずつ制覇していったからだ。 ヒマラヤの山々をあたかも日帰り登山のように制覇していくなど前代未聞のことだった。2021年11月、ニムスがプロデュースして撮影もした記録映画が公開されると、ニムスとシェルパのチームはたちまちSNSの有名人となった。2022年半ばには、ニムスのインスタグラムのフォロワーは200万人に膨れ上がり、顧客リストには億万長者が名を連ねるようになった。 私がベースキャンプにたどり着いた時、@SwissAlpineGirlsと総称される女性クライマーたちや〝健康エンジニア〟のアンドリュー・ショーが標高6100mのロブチェ・イーストに行ったと聞いた。ニムスはヒマラヤの山に初めて登る初心者にはこの山を薦めている。SNSでの存在感が大きいからか、見かけ重視のクライマーがニムスに引き寄せられているように見える。 夜、ニムスのアマダブラム・ベースキャンプはディスコと化す。高地での飲酒に関してニムスの鉄則はひとつ。「次の日使いものにならなかったら、終わりです」 ■"純粋派"の批判と、反響を呼ぶ物語 ソーシャルメディアがニムスを持て囃すいっぽうで、登山界は彼をどう扱ったものか未だに判断しかねている。もちろんニムスが大きなことを成し遂げたことはわかっている。だが、それがどれほど大きいかについては意見が割れている。酸素ボンベや固定ロープといった純粋派が見下す装具を使ったこと。さらに、複数のシェルパがニムスのガイドをしたことにも冷ややかな目がある。 1980年、初めて冬にエベレストの山頂に立ったポーランドの伝説的登山家、クシストフ・ヴィエリツキは、ポーランドのラジオにこう語った。「統計的成功とでも言うべきでしょうか」。そして、この成功は「アルパイン登山の歴史には記されないでしょうね」とも。 14座の制覇なら、はるかに見事なやり方で達成した先人がいると、ヴィエリツキは言う。たとえば、イタリア南チロル出身の偉大なるラインホルト・メスナーが1986年に16年かけて14座を極めた時は、無酸素、固定ロープなしだった。翌年、メスナーに次いでこの偉業を成し遂げたポーランド人のイェジ・ククチカは、8年で成功し、酸素ボンベを使ったのはエベレストだけだった。「ククチカやメスナー級のクライマーに比べたら、何光年も後れをとっている」とヴィエリツキは言った。 だが、ヴィエリツキはニムスの革新性を見落としている。映画監督で登山家でもあるジミー・チンは、ニムスの成功は後方支援の偉業であると指摘すると同時に、「決してそれだけではありません……だって、山に登らなくてはならないのですから」と語った。 実際、ニムスがわずか189日で14座を制するまで、8000m峰で速さを競おうなどと考えた者はいなかった。肉体的才能の成功であると同時に、創造性の勝利だった。これ以降、人々がヒマラヤの山々を見る目は変わった。今ではワンシーズンに複数の8000m峰を攻めようという登山者が珍しくない。 登山をしない人にとって、何が難しいルートで何がそうではないのか、その違いのニュアンスを理解するのは難しい。だが、物語は誰にでもわかる。ニムスが提供するのが物語だ。彼のスタイルはアルパインでもなければ、スピード登山でもない。それらをまとめてアップデートしたものだ。ニムスはそれを「ニムス・スタイル」と称す。 人々に刺激を与えるいっぽうで、ニムスの特異なコミュニケーションスタイルは批判の的ともなっている。本や映画やインタビューで、ニムスはよく格言めいたフレーズを繰り出す。まるで台本があるかのように。ドキュメンタリー『ニルマル・プルジャ』の初めのほうに出てくる救助活動の最中でも、ニムスは何度か「〝諦め〟の血は流れていない!」と叫び、今やTシャツに印刷されたキャッチフレーズになっている。また、驚くような証言は裏の取れないことも多いために、判断力のある人間はニムスの話を疑うようになる。 皮肉なことに、ニムスのメディアにおける影響力は、彼を取材しようとする登山関係メディアの影響力をはるかに上回っている。「私の物語は、ほかの誰にも語られたくない。そんなことを許せば正義が守られないから」と、ニムスは私に語った。ニムスの語る話には、小さな破綻が少なくない。とはいえ、ニムスには切り札がある。山における偉業が続く者すべての規範となった、誰も異論を挟むことのできない高山の権威であり、酸素を使う目立ちたがり屋を落胆させ、1971年に書いた『The Murder of the Impossible』(原題)で不朽のアルピニズム倫理を打ち立てた男、ラインホルト・メスナーがニムスの擁護者になったことだ。 「ニルマルを批判するクライマーがいるが、私にはそれが理解できません」。メスナーは『ニルマル・プルジャ』でそう語っている。「ニルマルはこのやり方を選んだ。そうしなければ、こんな短期間で成功させることはできなかったはずです」 ニムスは批判に敏感で、コメントをよく読む。そのうえで、反論するよりも、2020年の後半、新たな挑戦に目を向けた。登山界において、1987年の初めての挑戦以来、世界のあらゆるトップクライマーたちを拒んできた、ただひとつの、紛れもなく称賛を集める挑戦があった。厳冬期のK2登頂である。冬のK2は2時間を切るマラソンであり、ステロイドなしの62本塁打であり、あらゆる意味で前代未聞の偉業となるからだ。 「国のためにやらなくてはいけないことがわかっていました」。ニムスは言う。「ネパールの人のためにも。そして、正しくやれるのが自分しかいないことも」 標高8611mでエベレストよりも237m低く、世界第2の山であるK2は、8000m峰のなかで唯一12月半ばから3月半ばまでの厳冬期に登頂されていない。というのも、エベレストよりも緯度で8度北にあるために、「獰猛な山」とも呼ばれるK2は異次元の難しさなのだ。気温が低いために気候が穏やかな時期でも難しいのに、冬になると気温と気圧が低くなり、気象的に言うとK2山頂はエベレストに匹敵する。クライマーの肺と生理を考えると、1月のエベレストとK2は標高9100mに匹敵する厳しい条件となる。 この数十年、いくつもの遠征隊が冬のK2を狙ってきたが、2021年はコロナ禍のため、とりわけ難しい年だった。加えて、ニムスは新たなチームを編成しなければならなかった。「プロジェクト・ポッシブル」のあと、数人のシェルパがチームを離れたのだ。ほかの地元組織に引き抜かれたとニムスは考えている。おそらくは「どうしてニムスだけが有名になった?どうしてお前は無名のままなのか?」とでも言われたのだろうと。ニムスは言った。「辛い」。彼らはサポート役に納得しているものと思っていたからだ。 「プロジェクト・ポッシブル」に参加したミンマ・デイビッドは勢いよく参加を決めた。もう1人のシェルパ、ゲルジェンも前向きだった。30近い8000m峰制覇の実績を持つミンマ・テンジ、国際ガイドとしてエベレストに合わせて20回も登っているペムチリとダワ・テンバも加え、ニムスは6人のチームを編成した。調理人2人、大量のパキスタン人ポーター、ベースキャンプマネージャーを引き連れて、2020年12月21日、一行はパキスタンのスカルドゥを目指した。 ニムスのK2チームには多数のシェルパがいた。昔の遠征隊のように。1922年には既に、イギリスのエベレスト遠征隊がシェルパの支援を頼りにしていた。100年前のこの遠征で、7人のシェルパが命を落としている。その後、シェルパなしで登るのが海外最強クライマーの流行になっているが、ニムスがシェルパと共に登ることの革新性は、西洋の指揮を受けないことにある。 シェルパたちは、その強さ、誠実な仕事ぶり、外国人が最高峰の頂を踏むことへの献身などで尊敬されてはいるものの、基本的に「シェルパ」と一括りで語られることが多い。シェルパ族は「高地での生活に適応進化した」という説明で、彼らが成し遂げてきたことは過小評価されてきた。 シェルパ族は600年ほど前、チベットからクンブ地域に移住してきた。文字を持たないため、シェルパの歴史を物語るのは口承以外にない。地球上最も困難な畑と呼びたい急斜面の棚田でイモなどを育て、小さなコミュニティは生きてきた。ネパールの多くの民族がそうであるように、シェルパ族もシェルパを姓として使ってきた。そして多くの名前は性別に関係なく曜日─ダワ(月)、ミンマ(火)、ラクパ(水)、プルバ(木)、パサン(金)、ペンバ(土)、ニマ(日)─がつけられている。 その結果、シェルパの電話帳はこれ以上ないほど役に立たないものとなる。当時27歳だったミンマ・ギャブ・シェルパは、ワンシーズンに52ものレスキューを成功させ、2016年の番組『Everest Air』でスターとなっていた。さらに名を挙げようとしていたとき、電話帳問題に気がついた。「みんな同じ名前。だから、新しい名前を見つけようとしました。ミドルネーム、デイビッドを追加してからは、見つけてもらいやすくなりました」。ミンマはそう話す。 ミンマ・デイビッドの物語は、ネパールの登山シェルパの典型といえたかもしれない。1989年、カンチェンジュンガの麓、タプレジュン郡レレプに生まれ、17歳の時、ポーターの仕事についた。55キロ足らずの体で、合計31キロほどの外国人のザック2つを運んだ。「大変でした。よく泣きましたよ」。うんざりしたように言う。この仕事で支払われたのは、1日あたり300ルピー。2009年にはマナスルのキッチン補佐に採用され、1万ルピーの装備代と800ルピーの日当を稼いだ。 2010年、21歳になる頃には最高峰に挑む用意ができていた。「カトマンズで2回訓練を受けました。7日間の初期トレーニングと7日間の救助訓練。そしてエベレストに直行です」 地元の会社が1600ドルの装備代を出してくれたが、日当は800ルピーだった。だが、客を頂上まで連れて行けば500ドルのボーナスがつく。そしてミンマは最初のトライでボーナスを手にした。ほどなく、叔父のドルジ・カトリがガイドしていた「あの軍人」に会わせたいと言ってきた。ニムスだ。「話し始めて、とても親しくなりました」。ミンマ・デイビッドは振り返る。2016年、ニムスが初登頂を目指したとき、エベレストのサウスコルで出くわしたことはあったが、2人が初めて一緒に登ったのは2018年のことだった。そこからミンマ・デイビッドの物語はありきたりのものではなくなっていく。 当時、エベレスト登山でシェルパはワンシーズンに約6000ドル稼ぐのが普通だった。今はもう少し高くなっている。ニムスがガイドビジネスに乗り出すことを決めた時、トップガイドには年間最高7万ドルを提示した。海外のガイドが受け取る報酬と同レベルだ。さらに、ミンマ・デイビッドと後にミンマ・テンジには、2人合わせて「エリート・エクスペディションズ」の株式の25%を供与した。ネパール全体との比較でいえば、シェルパ族の暮らしは豊かだ。2022年、観光業は3億ドルをもたらすと予想され、基本的に自給自足のネパール経済における存在感は大きい。とはいえ、10万ドルもの収入となると人生を一変させるものとなる。「ニムスと金の話なんかしたことはありません。一緒に作ってきた会社だから」と、ミンマ・デイビッドは言う。彼は人事を担当し、ニムスは顧客獲得と投資の呼び込みを担当している。 自分のソーシャルメディアブランドを打ち立てたミンマ・デイビッドを、もはや「補助のシェルパ」として一括りに語ることはできない。これこそが、ニムスのやったことのうち最も大きなことだ。ニムスは重力をシフトした。今や、いちばん大きなメガホンを持つのは「ニムス系」のシェルパなのだ。 ■自分が何者かは僕自身が決める ニムスが「シェルパ」ではなく英国籍(ネパールは二重国籍を認めていない)であることを問題にする人は少なくない。私は彼に単刀直入に聞いてみた。自分をシェルパと考えるか? 「はい。シェルパは階級ではありません。ブランドです。民族でもあり、登山コミュニティです」。ニムスの定義は20世紀の植民地政策の流れを汲むものだ。初期のイギリスのヒマラヤ遠征隊のポーターは、民族を問わず「シェルパ」と呼ばれ、ポーターたちはイギリス人に「サーヒブ(主人)」あるいは「サー」と呼びかけた。その結果、大文字のSherpaではなく、一般名詞として小文字で書かれるシェルパは職業名ともなった。実際、イギリス遠征隊に雇われたのは低地のさまざまな部族の人々で、ニムスのルーツであるマガール族もそのひとつである。 「登山の歴史を見れば、マガールは最初からイギリス遠征隊と共に登っています。今ではタマン族も、ライ族も登っています」。ニムスがまとうのは、こうした無名の部族の衣だ。彼自身はもはや無名ではないにもかかわらず。「それが僕のアイデンティティです。自分が何者かは僕自身が決めます」 2020年暮れ、パキスタン・カラコルムの奥深く、K2のベースキャンプにニムスたちが落ち着いた時、そこには3つのチームがキャンプを張って、まるでロックフェスの最前列のように混み合っていた。しかも、このうち2つは、冬のK2という過酷で危険な企てにもかかわらず、高額を払う客をガイドする商業遠征隊だった。 コロナ禍によって、2020年のヒマラヤは春、夏シーズン共に閉鎖された。このため、家にこもるのにうんざりして冒険に飢えた85人もの屈強な男たちが、標準的な「アブルッツィ・スパー」ルートを登攀(とうはん)するという正気を疑うような賭けに出ようとしていた。ニムスたちより先に現地入りしていたのは、「イマジン・ネパール」、「セブンサミット・トレックス」という2つのシェルパチームだった。 世界初という大きな勲章が懸かっているだけに、チーム同士のミーティングには駆け引きの匂いが漂った。最初の高度順化ローテーションの間、ニムスは「イマジン・ネパール」のミンマ・Gに連携を申し入れた。「『どうして競争する?そっちは3人、こっちは6人チームだ。ネパール人チーム同士で争うより、協力しないか?』って言いました」。3人は回復のためにベースキャンプに戻っていった。 世界の登山家が注目していた。尊敬されるドイツ人登山家ラルフ・ドゥイモビッツもその1人で、12月28日、究極の増強剤を使った登山でK2が貶められるかもしれないとインスタグラムに書き込んだ。「もしも誰かが初の冬のK2制覇を、酸素補給を受けて盗んだなら、とても残念なことだと思う。世間はこの『K2制覇』を偉業と思うかもしれないが、初登頂の称号は正当な手段で登った者のためにとっておかなければいけない」 奇妙なことに、1980年にポーランドのヴィエリツキが冬のエベレストに初登頂した時、酸素ボンベを使ったが、それにケチをつけた者はいなかった。ドゥイモビッツ(と、その他たくさんのアルピニスト)の基準に従えば、正当な手段で冬のエベレストに登頂したのは、たった1人だけ。「雪豹」の異名を持つアン・リタ・シェルパが1987年12月22日、拍手喝采を浴びることなく静かに成し遂げた1回だけだ。この時、アン・リタは韓国人登山家のガイドをしていた。アン・リタは20世紀の終わり、間違いなく最強で最も多く最高峰の頂を踏んだ男だが、その才能は常に誰かのサポートに費やされた。長年の高地での働きが祟ったのか、2017年に脳卒中を起こし、2020年に72歳で静かに永眠した。 2021年新年から1月第2週まで、K2の天候は忌まわしいものだった。そこへ、1月13日以降、アタックのチャンスがあるかもしれないという報告が届く。ニムスは、誘ったミンマ・Gとその仲間のシェルパ2人、ダワ・テンジンとキル・ペムバを加えた臨時チームを呼び集めた。加えて、「セブンサミット・トレックス」からソナ・シェルパを引き抜いていた。ニムスが戦う相手はK2だけではなかった。ほかのチーム、家で眺めているに違いない中傷する人々とも戦っていた。「僕にとって何より大事だったのは、どうやって世界に向けて決着をつけるかでした。ネパールのクライマーが最強であることを事実によって語らせるんです」。14座を制覇したあと、ニムスは苦い思いを抱えていた。望みは、総体としてのネパールクライマーの圧倒的な力を示すことだ。今回はチームとして一緒に頂点に立つ。紳士協定を保持するために唯一ニムスにできることは、常にチームの先頭近くにいることだ。 そして、ベースキャンプのほかのチームを惑わせるために、ニムスは通常のアタック開始場所であるキャンプ4ではなく、そのはるか下から頂上アタックを開始したかった。「だから全体の戦略を変えました。キャンプ3から出発すれば誰もついてくることはできません」 最後に、クライミングスタイルの問題が残った。ニムスはチームの1人か2人は無酸素で登る必要があると考えた。何度もK2に挑戦しているベテランであるミンマ・デイビッドたちは「ノー」と答えた。 その時点で、ニムスは自分が無酸素でいく1人になるしかないことがわかっていた。この計画を打ち明けたのはミンマ・デイビッドとミンマ・テンジだけだ。1月13日、チームはベースキャンプを後にした。リードしたのはミンマ・テンジ。キャンプ4よりも上は、ロープのピッチひとつひとつを固定し、続く「イマジン・ネパール」のダワ・テンジンがミンマを確保した。ニムスとミンマ・デイビッドが2人に続き、必要に応じてロープを伸ばしていった。ミンマ・テンジは強かった。雪に杭を打ち、アイススクリューをねじ込み、着実に高度を稼いでいった。この10人は登山史上最強の男たちだった。足を引っぱる雇い主なしに、己のゴールに向かって歩を進めた。 1月16日、現地時間午後5時少し前、ミンマ・テンジは英雄的な前進を完遂した。男たちは集まると、ネパール国歌を高らかに歌いながら腕を組んで、獰猛な山を打ち負かした。ニムスはもちろん、自撮り棒を掲げていた。 登山界は衝撃に包まれた。ネパール人たちが登頂したのだ。と同時に、ニムスのSNSに10人の勝利がアップされた。彼らは偉業を達成しただけでなく、あたかも簡単なことのように見せてしまった。ニムスが頂上から送ってきたものをアップしたのはベースキャンプマネージャーのアショク・ライ。このスクープだけは、ほかの誰にも渡すわけにはいかなかった。そのあとは、また沈黙。まだ下山がある。日没が迫っていた。 登頂から48時間後、ニムスは山頂での写真をアップし、打ち明けた。K2に無酸素で登頂したと。登頂だけではない。テントのなかでも眠る時も、下山の時も使わなかったと私に明かした。 信じられないようなことをやったうえに、ニムスはストーリーを自分でコントロールすることに固執するために、疑惑の声が上がってしまうのかもしれない。事態をさらに複雑にするのが、5人のクライマーが冬シーズンの終わりまでにK2で命を落としたことだ。ニムスのチームが下山の時に、後続の邪魔をするために固定ロープを切ったのではないかと邪推する者もいた。ニムスは沈黙を守った。 しかし、2022年夏、K2に登ったクライマーたちは、シェルパのロープが頂上まで続いていたことを確認した。「良かった」。ニムスは言った。「母なる地球が語ってくれる。亡くなった人たちは、固定ロープに結ばれていたよ」 それでも、無酸素で14座を制し、ガッシャーブルムⅡ峰とマカルーで初の冬の登頂を果たしたロシア系ポーランド人のベテランアルピニスト、デニス・ウルブコなどは批判の急先鋒だ。「山頂での写真とビデオを見た。K2の頂上で、無酸素であんなふうにしているなんてあり得ない。まして、酸素補給を受けている仲間と同じペースで登れるわけがない」。Explorerswebという登山のウェブメディアに彼はこう語っている。 注目すべきことに、1978年、メスナーとピーター・ハーベラーが最初に無酸素でエベレストに登頂したと公表した時─キャンプ4からわずか8時間で登頂し、下山は45分だった─ほかならぬテンジン・ノルゲイがロイターの取材に対し、2人を信じないと語っていた。酸素を吸っていても通常12時間から14時間かかる道程だ。ハーベラーは後にこう記している。専門家には、2人のアルピニストが「少なくとも、時折、ちょっと(酸素を)吸うくらいのことはしていた」と信じる者がいたと。 いっぽう、ジミー・チンはニムスの言葉を信じるのに何の問題も感じていない。「シェルパが自分たちのために登るとどんなことができるのか、世界に見せつけるチャンスを彼らは得たのです」。もしニムスが嘘をついているならば、フェイスマスクからジャケットに垂れ下がるホースを目撃した者が9人いるはずだ。口裏を合わせたのならば、9人の結束を必要とする。 ニムスと過ごしてみて、彼はとてもチャーミングでカリスマ性があると思った。20人以上の登山客の野心をうまく扱いながら、同時にロジスティックスの手配をし、イギリスの自宅に残した妻と幼い娘の機嫌もとっている。 彼の成功が崩れる最大のリスクは、クレバスに落ちるのでなければ彼自身だろう。自分の神話に溺れるという危険な誘惑はそこにある。 諸説あって真偽ははっきりしないが、ネパールで最も有名なクライマーであるテンジン・ノルゲイの晩年は参考になるかもしれない。1953年、エベレストから戻ると、テンジンは想像したこともない形で世界的な有名人になっていた。ネパールの顔となり、世界中から尊敬された。ダージリンの登山スクールのディレクターとなり、ヤンキースタジアムで大リーガー、ミッキー・マントルと並んでファンに会ったりもした。テンジンには3人の妻と7人の子がおり、浮気もした。伝記を書いたダグラスは英『ガーディアン』紙にノルゲイの死後、こう書いた。「晩年、テンジンは孤独とアルコール依存症と闘っていた」 最近、ニムスには立て続けに良くないことが起きたが、たまたま運が悪かったと思おうとしている。9月21日、秋のガイドシーズンのために空港に降り立ったニムスが携帯電話の電源を入れると、郊外の住宅街カパンにある「エリート・エクスペディションズ」の事務所で火事が起きたと知らされた。スタッフ3人が亡くなった。K2のベースキャンプマネージャーだったアショク・ライ、ミンマ・デイビッドの弟カルサン・テンジン・シェルパ、連絡役のツワング・シェルパの3人だ。事務所に貯めていた酸素シリンダーが爆発したため火災が大きくなったが、火元が何だったのかは調査中だ。 ニムスが始めようとしている新規事業にスカイダイビングの学校がある。スカイダイビングの技術は、特殊部隊10年の経験で培った。だが、火事から1カ月後の10月14日、スペインでプロのスカイダイバー、ディーン・ワルドと訓練降下中、2人の装具が絡まってしまった。ニムスの後を追って降下していたワルドが、上空1000m超でニムスのパラシュートに当たって絡まったのだ。ニムスはパラシュートを切り離し、予備のパラシュートで無事に着陸した。だが、ワルドは地面に激突して命を落とした。私が会う2週間前の出来事だ。「僕は今、世界で誰よりも死を目の当たりにしている極限のアスリートのひとりです」。ニムスは言う。「だから、こうした出来事に区切りをつけて、前へ進む能力があるんです」 その後、「エリート・エクスペディションズ」の客のひとりがロブチェで死んだという知らせが届いた。彼はロブチェの山頂に向かう途中で気分が悪くなり、シェルパガイドがキャンプまで連れ戻し、午後になってヘリコプターで下山することになった。だが、テントに戻って眠り込んだアンドリューが目を覚ますことはなかった。 後にニムスはこう語った。「我々は無敵ではありません。それを思い起こさせてくれました。エリート・エクスペディションズの旗の下で起きてしまったのは、残念でならないですが」。当面、死を防ぐためにできることはすべてやるとニムスは言った。自宅を抵当に入れてまで金を工面した14座への挑戦の最中でも、ニムスはほかのクライマーの救助のために立ち止まることを厭わなかった。「そのためにダウラギリ登頂のチャンスを失う恐れがありました。14座制覇が潰える恐れも」。ニムスは言う。それでも救助に走った男だ。これまでの人生でニムスはあまりに多くの死に面してきた。だからこそ、彼の死生観はあなたや私のものとは違う。客が死ぬことがあったからといって、彼は人生の目的を疑い始めたりはしない。「生まれた時から死は確実なものです」。ニムスの言葉だ。 ロサンゼルスからの電話だった。モチベーションをアップさせる講演をするのだというニムスは、2023年を睨んでいた。14座のうちエベレストを含む13座へのガイドをすることがすでに決まっているという。まもなくニムスは山に戻っていく。客を率い、負傷者を救助し、ライバルと競いながら、伝説の次の章を書き進める。私たちの長い対話を締めくくるニムスの一言を聞いていると、太陽に向かって目を細める彼の姿が目に浮かんだ。「旅を続けなくてはいけません。もっと大きなゴールが待っているから」 【ニルマル・"ニムス"・プルジャ】(登山家) ネパール人。2019年、8000m級の14座をわずか6カ月と6日(189日)で完登。 2021年には史上初のK2冬季登頂にも成功。SNSやNetflixの番組などを通じ、"脇役"だったシェルパの存在感を世界に見せつけている。 WORDS BY GRAYSON SCHAFFER PHOTOGRAPHS BY AF WEBB TRANSLATION BY AKIKO NAKAGAWA
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