Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/160900ef6104b181d4287aad4458411f52e7f3fc
2018年に亡くなった異色の登山家・栗城史多を描き、注目を集めた第18回開高健ノンフィクション賞の受賞作『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』。栗城氏が果敢に挑み続けた「8000メートル峰」とは、いかなる世界だったのか。また、栗城氏の能力は登山界ではどのように評価されていたのか。
8000メートル峰とはどのような世界なのか?
私が栗城さんの取材を始めた理由は、登山の過程を詳細にカメラで撮る「新しさ」と、「マグロが理想」など放つ言葉の意外性に惹かれたからだが、もう一つ、「この人なら、『登山家のすごさ』を私のような素人にもわかりやすく伝えてくれるのではないか?」と期待したからでもあった。 登山家のすごさは一般の人にはわかりづらい。体力、スタミナ、精神力、状況判断……様々な要素を兼ね備えて初めて8000メートル峰の頂に立てるのだろうと推測はするのだが、私はそれをできるだけ具体的に、可視化して、視聴者に伝えたかった。 「滝に打たれたい」と言い出した栗城さんに同行したことがある。2008年8月だった。栗城さんは少し前までエベレスト遠征を公言していたのだが、8000メートル峰での経験がまだ足りないと考え直し、直近の目標をネパールのマナスル(8163メートル・世界8位)に変更していた。 滝は小樽の山の中にあった。深い山ではないが、水量はかなりのものだ。修験者のように合掌して、落ちてくる水を跳ね返している栗城さんを見て、私もやってみたくなった。パンツ一丁になり、彼の隣に立った。 瞬間、前につんのめった。何とか堪えたが、今度は後ろに尻もちをつきそうになる。足元はコケで滑るし、水は容赦なく頭を叩く。しかも、その強さも向きも一定ではない。私は中腰の情けない姿勢のまま耐え続けた。栗城さんのように直立不動ではいられなかった。やはり腰が強く体幹もしっかりしているのだろう。 登攀の「攀じる」という言葉が表す通り、登山家は手と足だけではなく、全身を岩や雪の壁にこすりつけるようにして攀じ登っていく。センスとバランス感覚、ヒマラヤのような高所になれば高度順応力というハードルも加わるはずだ。 8000メートル峰とはどのような世界なのか? 栗城さんはこう言った。 「標高7500メートルを超えると酸素の量は地上の3分の1しかありません。『デス・ゾーン(死の領域)』と呼ばれる世界です。そこにずっといたら死ぬわけですから、そりゃあ苦しいです」 「そのデス・ゾーンを乗り切るために、どんなトレーニングを積むんですか?」 「時間があれば、心肺を強くするゴムのマスクをしてジムで走ったりしますけど、日本にいるときは営業で忙しいし、実際に山を経験しながら強くなるしかないですね」 「『登山家のすごさ』をテレビでどう表現すればいいですかね?」 私のストレートな質問に、栗城さんが少しムッとした表情になった。《ボクが撮った映像だけでは弱いのか?》と機嫌を損ねたのかもしれない。 「何ならエベレストのベースキャンプで、朝青龍(当時の横綱)と相撲でも取りましょう か?」 反発から出たであろうジョークは、彼の企画力の片鱗をうかがわせた。《それ、面白い!》と私の脳に刺激が走った。横綱が苦しそうに登る姿や、それを励ましたりニヤリとしたりする栗城さんの顔が浮かんできた。 《でも、もし朝青龍がベースキャンプまでたどり着いて、がっぷり四つに組んだとしたら ……》 私はうっかり言葉を返してしまった。 「本当に勝てますか?」 栗城さんは「ここ、笑うとこですよ」と苦笑した。私は素直に謝った。
運動神経は鈍い方で、体力も並
登山家のすごさはひとまずおいて、栗城さん自身のすごさはどこにあるのか? 幼馴染の齊下英樹さんは、「運動神経は鈍い方です」と明言する。中学時代、野球部でも栗城さんと一緒だった。齊下さんは1年生の秋から正捕手となりクリーンナップを打ったが、栗城さんは3年間ベンチを温めた。 野球部でパッとしなかった栗城さんの身体能力が、登山を始めた大学時代になって急に開花したとは考えづらい。彼を知る複数の登山関係者はこう話す。 「技術はないね」 「体力も並」 「パフォーマンスがすぎるな」 日本ヒマラヤ協会の顧問で、札幌市内で居酒屋「つる」を経営していた大内倫文さんは、私が頻繁にコメントを求めた一人だ(店は2019年に閉店)。 「すごさねえ……? ヒマラヤを何度も経験している人たちは、『ふざけるな』って内心はらわたが煮えくり返っていると思うよ。でもまあ、なかなかいないよね、ああいう発想の登山家、っていうか、登山やってる人間は」 登山やってる人間、とわざわざ言い直したのが印象的だった。 大内さんの自宅には、世界の峰々に次々と新ルートを開拓した山野井泰史さんや、功績のあった登山家に贈られる「ピオレドール(フランス語で、金のピッケル)賞」を女性として初めて受けた谷口けいさんなど、日本が世界に誇る登山家が泊まりに来ている。 「これ、誰だかわかる?」 大内さんが壁にかかった1枚の写真を指差した。2人の男性が写っている。 「右は私。1985年、37歳のとき」 左の男性はアジア系の外国人だった。風格のある老紳士が柔和な笑みを見せていた。 「テンジン・ノルゲイさん。この翌年に亡くなったけど」 1953年5月29日、エドモンド・ヒラリー氏(1919~2018年)とともにエベレストに史上初めて登頂したシェルパの名前は、登山に疎い私でも知っている。亡くなる前年、70歳のときの写真だという。大内さんがブータンの未踏峰ガンカー・プンスム(7570メートル)に遠征した帰り、インドのホテルで会って撮影したそうだ。 1967年に設立された日本ヒマラヤ協会は、ヒマラヤ登山のアカデミックな役割を一手に担ってきた、と大内さんは話す。世界各国の登山隊がいつ、どの山に、どんなルートで挑んで登頂もしくは敗退したか、敗退の理由は雪崩か事故か、死者やケガ人は出たか、を克明に記録してきた。それはヒマラヤに挑んだ同胞たちへの賛辞や弔意であり、後進に示す貴重な道標でもあった。 しかし、2005年に個人情報保護法が施行されてから、情報収集がままならなくなった。折しもヒマラヤ登山が商業化し、旅行会社が参加者を募る「公募隊」が急増していた。ツアー会社は個人情報を盾に情報を流さない。敗退した場合は特にそうだという。 ヒマラヤ登山の姿が大きく変わろうとしていた時期に、栗城史多という登山家がメディアで脚光を浴び始めたのは、偶然ではない気がする。栗城さんは一時期、大内さんが主宰する「北海道海外登山研究会」の実行委員にも名を連ねていた。 「彼にはヒマラヤの大きさを知ってほしくて、何冊も本を貸したんだけどね。読んだのか、読まなかったのか、1冊も返って来なかった」 ヒマラヤの歴史を伝えていこうと考える人たちにとって本や資料がどれだけ大切なものか、「新時代の登山家」にはピンと来なかったのかもしれない。
栗城さんに「これだけはかなわない」と舌を巻いた経験
登山関係者の大半が栗城さんを批判的に見るのに対して、彼の「すごさ」を具体的に語る人物もいた。札幌在住のプロスキーヤー、児玉毅さんだ。栗城さんとは2007年、共通の友人を交えた飲み会の席で知り合った。 毅さんは、シベリアの誰も滑ったことのない山やマッキンリー山頂からの滑降など、辺境地や高所でのスキーを得意とする。「スキーを背負って世界を旅する」がライフワークだ。中東のレバノンやシリア、地中海沿岸のトルコやギリシャなど「なぜここにスキー場が?」と驚いてしまうような国々でも滑る。北アフリカのモロッコでは雪ではなく、砂丘を滑走した。 毅さんは、実はエベレストの登頂者でもある。 2005年の春だった。遠征するきっかけはその前年、札幌の手稲山のゲレンデで、ケガをして動けなくなっていた年配のスキーヤーを救助したことだった。 本多通宏さんというその男性は東京で会社を経営する素封家で、2003年、三浦雄一郎さんが当時の最高齢記録となる70歳7カ月でエベレスト登頂を果たしたことに刺激を受け、「自分も挑戦したい」と意気込んでいた。本多さんは毅さんを「命の恩人だ」と惚れ込み、エベレストでのサポートを依頼したのだ。 毅さんたちが登ったのは、ネパール側から南東稜を行くノーマルルート(ヒラリー氏とテンジン氏が初登頂した、谷あいを詰めて急斜面に出る一般的なルート)だった。だが、標高8000メートルを越えたところで、本多さんが体調不良に加え、軽度の凍傷を負ってしまった。やむなく隊はBC(ベースキャンプ)に下り、本多さんはヘリで下山した。 「どうしよう? もう一回、登ろうか?」という登攀隊長の言葉に、「隊としては登頂成功させたいですよね、本多さんのためにも」と毅さんが応じた。シェルパを伴って再びBCを出発し、4日後、標高8848メートルの山頂を踏んだ。一度BCまで下りてからの再チャレンジだ。毅さんは8000メートルの標高を2回越えたことになる。 「たぶん高所への順応力は、栗城君よりボクの方があると思います」 笑ってそう話す毅さんだが、栗城さんに「これだけはかなわない」と舌を巻いた経験がある。
再生できないDVDのディスクを…
「彼のすごさは、しつこさ、ですね」 毅さんは2009年春、栗城さんのダウラギリ(標高8167メートル・世界第7位)への遠征でBCマネージャーを務めている。 当初、毅さんはこのオファーを断った。「世界各国へのスキー旅」というライフワークがあり、応援してくれるスポンサーもいる。人の挑戦に協力している場合ではなかった。 「そしたら栗城君は、『スポンサーや支援者にはボクから話します。誰に会えばいいですか? どうすれば一緒に来てくれますか?』って……面白いヤツだな、って思いました」 できないではなく、どうやったらできるのか、できることを前提に話をする。その熱意に負けて毅さんは遠征に加わったという。 ダウラギリのBCで、こんなことがあった。ある晩、栗城さんは音楽のDVDを見たいと言って、一枚のディスクをプレイヤーにセットした。だが、再生できない。他のディスクは作動するので、プレイヤーの問題ではない。 「おかしいな」 ……栗城さんはそのDVDのディスクを布で拭いたり、水をかけたりといったことを、延々2時間繰り返したという。結果的にディスクが再生されたかどうかについて毅さんの記憶は曖昧だが、一心不乱にディスクと向き合う栗城さんの姿は鮮明な印象として残っている。 「呆れました。普通は諦めて別のディスクを見るじゃないですか? ああ、彼のすごさって、体力でも技術でもなく、しつこさなんだな、このしつこさがあるから8000メートル峰にも登れるんだな、って納得できました」 栗城さんの武器である「しつこさ」。それは16年間も温泉を掘り続けた父親譲りのものであることは疑いようがない。 文/河野啓 (注)栗城さんの父・敏雄さんはある時、「温泉を掘り当ててやる」と決意し、自宅のそばを流れる後志利別川の岸辺のあちこちを、なんと16年も掘り続けた。そして1994年、ついに源泉らしきものを発見する。やがてその場所には町の中心部で唯一の温泉施設ができ、2008年には温泉に隣接してホテルも建築された。敏雄さんはそのホテルのオーナーとなった。 この逸話の詳細は『デス・ゾーン』第一幕に記されている。 同書と「冒険」をテーマにした過去の受賞作2作を合わせた形で、丸善ジュンク堂書店の複数店舗で「開高健ノンフィクション賞20周年記念ブックフェア」が開催中。
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