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2018年に亡くなった異色の登山家・栗城史多を描き、注目を集めた第18回開高健ノンフィクション賞の受賞作『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』。当初は栗城氏の面白さや革新性に心を動かされ、積極的に取材を行っていた著者の河野啓氏だったが、次第に彼の言動に違和感を覚えるようになっていく。
栗城さんの新たな野望
2009年5月18日。栗城さんはダウラギリ(標高8167メートル・世界第7位)に登頂を果たす。その2日後、1年あまりの取材をまとめた番組『マグロになりたい登山家~単独無酸素エベレストを目指す!~』が放送された。 北海道限定だがゴールデンタイムでの放送だった。彼の事務所から提供を受けた登山のシーンは極力短くし、むしろ彼の日常にフォーカスしている。この番組は日本民間放送連盟賞などを受けた。 私は「観察モード」ながらも、栗城さんと友好的な関係を維持してきた。番組作りへのモチベーションも保っていた。しかし、いよいよエベレスト初挑戦という矢先、ふたたび彼に対する疑問と不信感が頭をもたげてくることになる。 栗城さんのエベレスト遠征は、大手ポータルサイトのYahoo! JAPANとがっちりタッグを組んでいた。2009年7月、Yahoo!に栗城さんを応援する特設サイトがアップされた。栗城さんがエベレストの前進基地、ABC(バンス・ベースキャンプ)に入ったその日から登山の過程を動画で毎日配信する。 そしていよいよ山頂アタックという段階に達したら、配信から生中継に切り換え、ネット上で同時視聴できるという大仕掛けが用意されていた。小さな登山家が大きな山の頂に立つ瞬間を、リアルタイムで共有できるのだ。 単独無酸素でのエベレスト登頂はボクの夢。これを見ているあなたはどんな夢を見ていますか? その夢をボクも応援したい。誰もがみんな、目指すべき人生の頂を心の中に持っているはず。ボクと一緒に、あなたもあなたのエベレストを登ってください! ――そんなメッセージを込めた生中継を、栗城さんはこう呼んだ。 「冒険の共有」そして「夢の共有」。 栗城さんはこの発想をどうやって得たのか? 「栗城にネットでの生中継を吹き込んだのは、日本テレビの関係者ですよ。彼が考えたことじゃない」と話すのは、大学時代に登山部の先輩だった森下亮太郎さんだ。 2007年4月、栗城さんがチョ・オユー(標高8188 メートル・世界第6位)に出発する前日のことだ。東京都内の居酒屋でささやかな壮行会が持たれ、BC(ベースキャンプ)のカメラマンとして同行する森下さんも参加していた。 テレビ局関係者のTさんともう一人、番組関係者と思われる40歳前後の男性がそこにいた。栗城さんとはすでに何度か会っているようで親しげな様子だったという。その男性の口からこんな言葉が飛び出した。 「今回は動画の配信だけど、いつか生中継でもやってみたら? 登りながら中継したヤツなんて今までいないよね」 正確には、登りながら生中継をした登山家が、かつて一人だけいた。番組関係者はその登山家の存在も栗城さんに伝えていたと思われる。
1988年5月5日、日本テレビはエベレストの山頂から世界で初めて生中継をした。構想8年、研鑽と試行錯誤を重ね、富士山でのリハーサルを経て、30トンもの中継機材を現地に持ち込んだ。中国、ネパールのスタッフも合わせると総勢285人。北東稜のBCに置いたコントロールセンターから、インド洋上の通信衛星に映像を送った。 「北京時間、午後4時5分、テレビ隊……頂上に……」 ヘルメットに超小型カメラを取り付けて登り、8848メートルの頂から第一声を発したのが中村進さんだった。栗城さんがマナスルに遠征中の2008年10月、ヒマラヤのクーラカンリで雪崩に巻き込まれて亡くなった登山家である。 栗城さんは当時の番組を録画したDVDを持っていた。私は彼の事務所でそれを見せてもらった。パソコンの画面の中で、中村進さんらがエベレスト山頂から小さな鯉のぼりをはためかせていた。登頂日が「こどもの日」であることにちなんだ演出である。 「ボクはこれを少人数でやりたいんですよ。ネットが発達した今なら、できるみたいなんで」 と栗城さんは語っていた。 テレビ関係者から「生中継」の言葉を聞いた瞬間、栗城さんの中にスポットライトが点ったのかもしれない。眩しいばかりの光が、エベレストを単独で登る彼自身を照らしていた――。 自分がその劇場に立つ必然性、遠征資金を募る謳い文句……それらを思案していた栗城さんは、多くのコンサルタントや企業家との関わりから、「自己啓発」という世界に傾倒する。 そして彼は、「登山(見える山)」と「自己啓発(見えない山)」を一体化するアイデアを思い付いた――。「夢の共有」はこうして生まれたのだと、私は推察する。 そしてそれは、億を超える資金を提供する会社と、Yahoo!の協力を得たことで、実現可能な段階に入った。テレビマンが酒宴の席で囁いた言葉を、彼は持ち前のしつこさと営業力で、2年かけて具体性をもった「企画」のレベルにまで高めていったのだ。 しかし私は、この「夢の共有」に拍手を送ることに躊躇いを覚えていた。初めて会ったときの栗城さんは、凛とした表情でこう言ったのだ。 「山と一対一で向き合いたいから単独で登る」と。 彼が向き合う対象は、山だったはずだ。それがいつから「夢の共有」、つまり、人に変わったのか……?
山頂で流しそうめん、そしてカラオケ⁉
栗城さんの「夢の共有」を巡って、2つの出来事がワンツーパンチとなって私の脳を揺らした。最初に食らったパンチは、Yahoo!の特設サイト「小さな登山家、エベレストへの挑戦」から放たれた。 そこには、芸能人たちからの激励のメッセージとともに、「単独無酸素の意義」を解説するコーナーが掲載されていた(注:筆者は取材を通して、栗城さんが掲げる「単独無酸素」という看板がひどく誤解を生む表現であり、虚偽表示や誇大広告に近いことを知る)。 それを見て私は愕然とした。私の企画書の文章が、そっくりそのままコピペされていたからだ。実現しなかった全国放送の番組のために書いたものだった。 「ボンベが重いし高価なので他の6つの最高峰では使わなかった」という栗城さんの言葉まで、そのままサイトに掲載されている。 私は事務局が載せたのだと思っていた。《一言、了解を求める連絡があれば私が訂正できたのに》と腹立たしかった。10年が経過した2019年、児玉佐文さんから初めて真相を聞かされた。 「やったのは栗城本人ですよ。ボクらは逆に口出しできないです。彼はそういうとこメチャクチャこだわりますから」 栗城さんは「ボクのことを書いた原稿だから、ボクのもの」と思ったのだろうか? 仮にそうだとしても、自分の嘘まで載せてしまう感覚は理解に苦しむ。大勢の人たちが閲覧するサイトなのだ。 次に食らったパンチは、更に強烈だった。 東京のYahoo!本社での出来事である。エベレスト出発を2週間後に控えた2009年8月上旬、栗城さんとYahoo!スタッフとの最終打ち合わせの場だった。そこで語られた栗城さんの企画に、私は驚いた、いや、呆れてしまった。 「最終確認ですが、九月七日が『流しそうめん』、翌週の十四日が『カラオケ』で間違いないですね?」 Yahoo!スタッフの言葉に、栗城さんは頷いた。 《えっ! 流しそうめん? カラオケ?》 私は支援者が国内で応援イベントでも開くのか、と思いながら聞いていた。ところがそうではなかった。 「ギネスに挑戦します!」 栗城さんがニッコリと笑った。 彼のアイデアで「ギネスブックに挑戦」と銘打った生中継企画が行なわれるのだ。私は会議の場で初めてそれを知った。BCに入ってから山頂アタックに出発するまで、高度順応の期間が3週間ほどある。ギネス挑戦企画はその間に催される、登頂本番を盛り上げるためのプレ・イベントだった。 栗城さんはエベレストをどういう場所だと考えているのか……。ここは世界中から集まった数多の登山家が、登頂に歓喜し、挫折して咽び泣き、凍傷で指を失い、あるいは友の亡骸を下ろした、過酷なる「聖地」ではないのか? そこで、流しそうめんにカラオケ? 先人たちにあまりにも非礼ではないか。栗城さんはかつてこうも語っていた。 「山に登れば登るほど、その大きさがわかって謙虚な気持ちになる」と。ならばエベレストは、いくつもの山を登り、謙虚な上にも謙虚になって、ようやくたどり着いた「山の中の山」であるはずだ。そこでなぜ余興が必要なのだ? 一体どこが謙虚なのだ?
イベント中継ができないなら、エベレストには行かない……
打ち合わせを終えて移動するタクシーの中で、私は正直な感想を彼にぶつけた。 「登山というよりイベントですね?」 栗城さんは真顔で答えた。 「そうですね。絶対に面白くする自信があるんで」 面白くする? ……私はその言葉に、違和感を大きく超えて、嫌悪感を抱いた。それを顔には出さず、こう尋ねた。 「仮に登頂の生中継ができないとしたらどうしますか?」 彼は即座に返答した。 「それならエベレストには行きません」 中継ができないなら登らない……そう明言したのだ。彼は更に言葉を続けた。 「ただ登るだけではつまらないので」 登頂が目的ではない。世界最高峰の舞台からエンターテインメントを発信するのが、彼の真の目的なのだ。こんな登山家は過去にいなかった。 「一対一で山を感じたい」という山への畏敬と、「ただ登るだけではつまらない」という山への冒涜……彼が気づいているかどうかはわからないが、これは対極をなす。私には「夢の共有」が「矛盾の蟻地獄」に思われた……。 私は少し呼吸を整えた。そして質問を変えてみた。 「他の登山家が同じようにネット中継をしたら、栗城さんはそれを見ますか?」 彼は珍しく言葉に詰まった。10秒ほどして、「いやあ、面白く見せられる人いますかねえ?」と首をひねった。 2009年9月7日、「ギネスに挑戦!」企画第一弾が生中継された。標高6400メートルのABCを舞台にした「世界一高いところで流しそうめん」だ。日本から持ち込んだ人工竹を斜面に組み、茹でた素麺を上から少しずつ流した。つゆの入った椀を手に、栗城さんが下で待ち構える。つゆはテレビ番組『料理の鉄人』の鉄人シェフが作ったものだ。 「来ました! 来ました!」 氷点下の冷気に表面が凍りついた素麺が、ポチャンと音を立てて椀の中に落下した。栗城さんがそれをチュルチュルと啜る。「おいしいです!」とカメラに笑顔を向けた。 その1週間後の9月14日には、「世界一高いところでカラオケを歌う」企画が中継された。 ABCより更に上の標高7000メートル地点で、栗城さんは『ウイ・アー・ザ・ワールド』を歌った。ゼエゼエ、ハアハア、と息は荒く、時にひどく咳き込みながらの、ある意味「熱唱」だったが、同じ曲には到底聞こえなかった。 しかも衛星を経由して送られてくる映像は、容量が小さく圧縮されているため画質が良くない。仮に登頂生中継が見られたとしても、この画質に我慢しながら彼の姿を追うことになる。野球やサッカーのようなスピーディーな動きもない。 《ずっと見続けるのは正直しんどいな……》と私は感じた。彼がアピールしたい、登山に関心のない一般の人たちは、私以上に苦痛を感じるのではないか……? 私にはインターネット生中継というものが、荘厳な「世界の屋根」をわざわざ小さく見せている気さえした。 栗城さんがエベレストから帰国した後、私は彼から提供された映像で「ギネスに挑戦!」企画を振り返った。カラオケを歌い終えた栗城さんは、グッタリとしてその場を動けなくなっていた。スタッフとシェルパに両脇を抱えられ、引きずられるように山を下りていった。KO負けしたボクサーのようだった。 歌った翌日の映像に、ハッとするようなシーンが収録されていた。栗城さんが衛星電話を手に、怒鳴り声を上げていたのだ。 「ちゃんと見てくださいよ!」 電話の相手は東京のテレビ局の制作者だった。どうやらネットの生中継を見ていなかったようだ。自分の番組を作っているくせに、体を張って歌った『ウィ・アー・ザ・ワールド』を聞かなかったことに、栗城さんはご立腹だったのだ。 この企画に対する彼の本気度に、私は逆に驚いた。 ちなみに栗城さんが申請した「世界最高地点での二つの挑戦」をギネスは却下した。 「危険を伴う行為なので認定できない、って言われたみたいです」 私は栗城さんからそう説明を受けた。
私が栗城さんにした唯一のアドバイス
夢の共有はテレビマンの言葉が発端だった。私は自分にこう問いかけた。 《お前は表現者の端くれとして、栗城さんに何かアドバイスをしたのか?》 ……した。一つだけ。 「左手でも撮影したらどうですか?」 そう言わせてもらった。彼に会ってまもないころだ。栗城さんの自撮り映像は、最初のマッキンリーからすべて利き手である右手で撮ったものだ。必然的に、彼の顔は画面の右を向いている。左向きの顔がない。映像が単調なのだ。 栗城さんが山でどういうふうに撮影しているのか、番組の視聴者がイメージしやすいように、彼の事務所の向かいにあった公園で実演してもらったことがある。斜め前方に右手を出し、顔の方にレンズを向けるだけだ。要は、勘を頼りに撮っている。カメラグリップに指を通すのが基本だが、通さなくても十分撮れる。 グリップに指を通さないのであれば、左手で撮っても同じだ。左手でカメラを掴んで自分に向ければ、画面左を向いた顔が撮れる。自撮り映像のバリエーションが倍になる。単純な話だ。 「いいですねえ!」と栗城さんは目を丸くした。 だが、ついにやらなかった……最後まで。 「生中継やってみたら?」の言葉ほど彼の心をくすぐらなかったようだが、私は試してほしかった。映像を売りにするエンターテイナーであるならば……。 企画のスケール感に酔うのではなく、小さな発見と地道な改善が作品の質を高めていくことも知ってほしかった。 文/河野啓 同書と「冒険」をテーマにした過去の受賞作2作を合わせた形で、丸善ジュンク堂書店の複数店舗で「開高健ノンフィクション賞20周年記念ブックフェア」が開催中。
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