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中東・アラブ諸国の王妃
「FIFAワールドカップカタール2022」の開催地として注目されるカタール。サッカー日本代表にとっては、1993年の「ドーハの悲劇」と2022年の「ドーハの歓喜」の舞台となり、記憶に残る国のひとつとなりました。しかし、多くの日本人にとって、あまり馴染みのない国ではないでしょうか。 【写真】気品あふれる中東のプリンセスが素敵すぎる! カタールはペルシャ半島の北東部にあるカタール半島を領土とし、面積は秋田県と同じくらい。カタールは世界有数の液化天然ガス輸出国で、世界で最も裕福な国とも言われます。1868年以来、カタール国首長のポストを独占しているサーニー家の資産は、約50兆円と推定されています。 カタールの人口は約260万人なので、茨城県と同じくらい。全人口のうちカタール国民は1割程度で、約9割をインド、フィリピン、ネパールなどの外国人労働者が占めています。 16世紀以降、湾岸地域はポルトガル、オランダ、イギリス、オスマン帝国などが支配してきました。カタール国が独立したのは1971年。サーニー家による世襲首長制は続いていますが、現在は三権分立の制度も確立しています。 日本とカタールは、1972年に国交が樹立し、カタールにとって日本は第6位の貿易相手国となっています。カタールは、天皇皇后両陛下が結婚後初めて訪問した中東の国々のひとつ。皇室の国際親善は欧米諸国との関係が注目されがちですが、中東の国々とも親交があります。
カタール国前首長妃モーザ殿下
天皇皇后両陛下(当時皇太子ご夫妻)は、1994年11月5日から15日まで11日間の日程で、サウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーンを親善のため訪問されました。 両陛下が3番目の訪問国カタールに到着したのは、11月11日。カタールの6代目首長ハリーファ・ビン・ハマド・アール=サーニ殿下(以下ハリーファ殿下)の晩餐会には、お二人で出席されました。サウジアラビア、オマーンでは、「公式の場に女性は同席しない」というアラブの習慣に則り、天皇陛下は公式の晩餐会に出席し、皇后陛下雅子さまは女性が出席する非公式に会に出席しました。 イスラム教では一夫多妻制が認められており、1人の男性が最大4人の女性と結婚することができます。ハリーファ殿下は4人の妻と結婚し、5男10人女に恵まれました。欧州の王室の多くは、性別に関係なく第一子を優先する「絶対的長子継承制」を導入していますが、カタールなどイスラムの国々の王室は事情が異なります。 カタールの例を見ていきましょう。1995年、6代目首長ハリーファ殿下は、皇太子ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニ殿下(以下ハマド殿下)に追放され、ハマド殿下が7代目首長の地位に就きました。2013年、ハマド殿下は皇太子タミーム・ビン・ハマド・アール=サーニ殿下(以下タミーム殿下)に権力を委譲し、タミーム殿下が8代目首長となりました。ハマド殿下もタミーム殿下も長男ではないのですが、皇太子に選ばれ、首長になりました。 モーザ・ビント・ナーセル・アル=ミスナド妃(以下モーザ妃)は、1959年、有力部族ミスナド家に生まれ、1977年、ハマド殿下と結婚。5男2女に恵まれました。モーザ妃は、ハマド殿下(7代目)の第二婦人で、タミーム殿下(8代目)の母親にあたります。 モーザ妃はカタール財団の共同創設者であり、会長として教育振興事業などに力を注ぎ、カタールの国策の一翼を担っています。また、ハマド殿下の公的配偶者として、国賓訪問や王室の結婚式など、多くの国際的なイベントに出席しています。ハマド殿下は、夫人を同伴するという西欧の外交スタイルを取り入れました。 モーザ妃はシャネル、バレンティノ、エルメスなど、オートクチュールの常連としても知られ、イスラム教のルールに則ってオートクチュールをカスタマイズ。オリジナリティ溢れる洗練されたスタイルを確立しています。ロイヤルファッションは、全身をワンカラーで統一することが多いのですが、モーザ妃は腕やデコルテ、頭部を覆い隠すので、色のインパクトが強調されます。 2013年4月30日、オランダのアムステルダム新教会で挙行されたウィレム=アレクサンダー国王の就任式のドレスはヴァレンティノ。黒一色のドレスですが、異なる素材を組み合わせ、お祝いの席にふさわしいゴージャスな印象を作り出しています。この日は天皇陛下の隣で、両陛下とモーザ妃が談笑する様子をカメラがとらえています。 ヴァレンティノなど、欧州のラグジュアリーブランドは中東の国々に多くの顧客をかかえています。イスラム教の国々では、女性は目と手足の先以外をすべて隠し、近親者以外には、目につかないようにするという習慣があります。イスラム教徒の女性といえば、黒い布で覆われたスタイルというイメージがありますが、中東の女性たちは、我々の目の届かないところで、最先端のモードも積極的に取り入れているようです。 ヴァレンティノ、バルマン、パルジレリの親会社である「メイフーラ」は、モーザ妃の投資会社としても知られます。モーザ妃は、ラグジュアリーブランドの経営にも進出しています。 ゴージャスでパワフルなドレスの数々が示すように、モーザ妃の活動は国内外に広がっています。2005年はハマド殿下とともに、2001年と2014年はモーザ妃がおひとりで皇居に招かれ、ご会見や午餐などを通して、皇室の方々と親交を深めています。 カタールの要人の外国訪問は、桁違いの豪華さで知られます。カタール政府が設立した航空会社「カタール・アミリフライト」は、世界規模のチャーター便をオンデマンドで運航しており、モーザ妃らの活躍を支えています。
ヨルダン王妃ラーニア陛下
両陛下の2度目の外国訪問はクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンの3カ国でした。当初は1995年1月20日に日本を出発し、1月30日帰国予定でしたが、出発直前に発生した阪神淡路大震災の被害が甚大だったことを憂慮し、2日予定を早め1月28日に帰国しました。 両陛下がヨルダンに到着したのは、1月26日。ヨルダン国王フセイン1世(在位:1952年8月11日-1999年2月7日)は長年にわたり病気を患っていたため、公式晩餐会は王弟のハッサン皇太子・サルワット妃夫妻が主催し、両陛下もお二人で出席しました。 フセイン1世の次にヨルダン王に即位したのは、息子のアブドッラー2世です。ハッサン皇太子が王の死を前提にした行動をとったことに激怒したフセイン1世は、突然ハッサン皇太子を解任。長男のアブドッラー2世を皇太子に叙任し、フセイン1世の崩御に伴い、アブドッラー2世がヨルダン国王に即位しました。 通称ヨルダンは1946年に独立し、1949年に国名をトランスヨルダン王国からヨルダン・ハシミテ王国に改めました。ヨルダンは国王を元首とする立憲君主制で、二院制の議会があり、国王は内閣と共に行政権を執行します。 国王はハーシム家の世襲で、基本的に王の長男に継承権があります。王家に男子がいない場合には、 議会がヨルダン国民のなかから皇太子を選び出すことができるとされています。ただし本人はもちろん両親もイスラム教徒でなければなりません。 ヨルダンは一夫多妻制を認めているものの、すでに結婚している妻の了承を条件としています。フセイン1世は4回結婚しましたが、離婚と結婚を繰り返し、同時に複数の女性とは結婚しませんでした。 アブドッラー2世はフセイン1世と2番目の妻ムナー・アル=フセイン王妃(以下、ムナー王妃)との間に長男として生まれました。ムナー王妃はイギリス生まれの元英国陸軍軍人の娘で、結婚後に改名しました。 アブドッラー2世の王妃ラーニア・アル=アブドゥッラー(以下ラーニア王妃)は、クウェート出身で両親はパレスチナ人。イラクによるクウェート侵攻後にヨルダンに移住。アブドゥッラー2世と半年間の交際を経て、1993年6月10日に結婚しました。 ラーニア王妃は、その美貌で知られますが、アンマンのシティバンク、エヌ・エイに勤務していた経歴を活かし、女性や子供など、社会的弱者の地位向上のために貢献しています。2010年には自身の保育園時代の経験を基にした絵本作品『ふたりのサンドウィッチ(原題:Sandwich Swap)』を出版するなど、多方面に活躍しています。 ファッションは欧州の王族たちほぼ同じ。アブドッラー2世はスーツ、ラーニア王妃は腕やデコルテは隠しますが、膝丈のスカートを着用することもあります。ヨルダンは1年を通して乾燥していますが、四季があり、冬は雪が降ることもあります。カタールとヨルダンのファッションを比較すると、ヨルダンの方が近代的という見方もできるかもしれませんが、三方を海に囲まれているカタールは湿度が高く、夏は気温が45℃を上回ることもあるので、伝統的な服装の方が快適に過ごせるという面もあるのかもしれません。 ラーニア王妃は、1999年に国賓として、2006年にもアブドッラー国王とともに皇居に招かれ、会見や晩餐会などを通して、皇室の方々と親交を深めています。 今回は、カタールのモーザ妃とヨルダンのラーニア王妃のファッションと来歴を振り返ってみました。お二人のファッションに共通点は少ないものの、社交界の花形として、それぞれの国を象徴する存在となっています。継続的にメディアに登場する数少ない中東の王妃であり、王位継承を巡る確執を経て、国のために献身的に活動を継続されています。
松本英恵
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