2020年4月1日水曜日

堀潤「私が大きな主語で語る風潮を警戒する訳」

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200328-00339190-toyo-bus_all
3/28(土) 7:50配信、ヤフーニュースより
東洋経済オンライン
この10年でメディア環境は大きく変化し、SNSを中心に誤った情報や一方的な強い表現が跋扈するようになっている。「こうあるべきだ」「こうに違いない」という偏った情報により分断が深まり、分断は排除、排斥を加速させ、政治もそれを利用している。暮らしが豊かになるのであれば誰かの人権が制限を受けても構わないという、誤った認識も広まっている。
香港、朝鮮半島、シリア、パレスチナ、スーダン、福島、沖縄――。これらでは、ファクトなき固定観念が人々を分断している。いま、分断の現場では、何か起こっているのか?  分断の細部を、元NHKキャスターでジャーナリストの堀潤氏が描いた『わたしは分断を許さない』から一部を抜粋して紹介する。
■2008年 秋葉原通り魔事件の凄惨な記憶

 知らず知らずのうちに分断に加担している自分がいる。無自覚であってはいけないと思うようになったきっかけがある。

 2008年。今から12年前の夏、荒川の河川敷で、ある男性にインタビューをした。20代後半のその男性は日雇い派遣として働いていた。

 その年の6月8日、東京・秋葉原で酷い事件が起きた。日曜日の正午過ぎ、多くの通行人で賑わう歩行者天国の交差点に暴走したトラックが突っ込んだ。被害者は跳ね飛ばされた人たちだけではなかった。車を運転していた男は車を停車させると、奇声を上げながらナイフを持って逃げ惑う人たちに無差別に斬りかかった。防犯カメラは大通りを一斉に逃げ惑う大量の人たちの姿を映し出していた。
 近くの牛丼屋に助けを求め駆け込む人の姿もあった。子どもを抱きかかえて逃げる父親もいた。7人が亡くなり、10人が重軽傷を追った。男は近くの交番から駆けつけた警察官たちによって、取り押さえられ逮捕された。市民が携帯電話で撮影した写真に写っていたのは、返り血を浴びた若者だった。細縁のメガネの奥に見えた瞳は虚ろだった。男の名前は加藤智大、犯行当時25歳だった。安定した職を得られず、派遣社員として各地を転々としていた。
この事件のことは忘れられない。事件の一報を受け、自宅のあった新宿から現場に急行した。子どもの頃から家族団欒の場所だった秋葉原。到着すると被害者が倒れ、血だまりがあちらこちらで広がっていた。救急隊員たちが中年の男性に懸命に声をかけ処置を続けていた。震えが止まらなかった。事件後は度々現場を訪ねて手をあわせた。加藤はなぜ犯行に及んだのか。なぜ事前に食い止めることができなかったのか、答えを探し続けた。

 荒川の河川敷で臨んだインタビューもその答え探しの1つだった。同世代の派遣社員は、加藤の犯行をどう見ているのか知りたかった。事件が起きた2008年当時、経済情勢は混乱していた。「失われた20年」と言われた時代だ。バブル崩壊後の出口の見えない平成不況が続き、経済成長しても給与に反映されない「実感なき景気回復」と言われた時代を経て、アメリカの金融不祥事による世界的な景気悪化を引き起こした「リーマンショック」でとどめを刺された。
 安いものが売れる時代。賃金が上がらないため、さらなる安さが求められ、売り上げが落ちると賃金はさらに下がっていった。経済の悪循環で、デフレスパイラルに陥っていた。企業は賃金の安い非正規社員の活用に活路を見出した。

 男性は大学を卒業以来、派遣の現場で転職を繰り返していた。インタビュー当時、彼は東京の北部の町で、トラック製造工場の派遣社員として勤務していた。加藤の犯行について聞くと「非難はできない」と返ってきた。むしろ、気持ちがわかるという。「なぜ共感するのか?」と尋ねると逆に質問が返ってきた。
■僕らはトンカチやネジと同じです

 「堀さんを評価するのは、どの部署ですか?」

 「人事部です」

 「僕を評価するのは何部か知っていますか?」

 「人事部では、ないということでしょうか」

 「資材部です」

 「資材部?」

 「どのくらいの工具が必要か、材料が必要かを管理する資材部です。今日は何人派遣が必要か。明日は何人いらないか。僕らはとんかちやネジと同じです。会社にとってみたら人間ではないんです」

 日雇い雇用の現場は問題が山積だった。雇用の調整弁という言われ方もしていた。「堀さんは、人事部で人間として扱われる。僕らはそうではない。気持ちがわかりますか?」というくくりの言葉で、私は何も言えなくなった。
当時、私はNHK夜9時の報道番組『ニュースウオッチ9』の担当だった。格差や貧困と働き方が結び付けられて論じられるようになった頃だ。日々の取材でその現象を追っていた。2006年から2007年は、働いても働いても豊かになることができない現場を追ったNHKスペシャルでタイトルに使われた「ワーキングプア」や、所得や教育、職業などあらゆる分野で格差が広がったことを表した「格差社会」、雇用の現場が崩壊し、家も借りられずにネットカフェを転々として暮らす人々を指す「ネットカフェ難民」などが新語・流行語として注目を集めた。2009年は不況で次々と非正規社員が突然職を失う「派遣切り」という文言が続いた。そのほかにも「名ばかり管理職」、「偽装請負」など思い出しても辛い言葉が続く。
 非正規労働の拡大は、今も日本経済と暮らしを蝕む社会問題だ。非正規社員の給与は正社員の待遇とは大きく差がある。非正規で働く女性の年収は140万円台。子どもを育てるためダブルワーク、トリプルワークで身体を壊してしまう女性の取材もした。非正規雇用で働く人たちの駆け込み寺として立ち上がった労働組合「派遣ユニオン」の相談電話が鳴り止まなかったのも忘れられない現場だ。

 派遣先で怪我をしても補償が受けられないばかりか契約を解除されたり、本人に知らされないまま賃金が不当にピンハネされていたり、問題が山積だった。そうした人々を雇う派遣会社の本社が都心の一等地のビルに置かれていたことにも驚かされた。なぜ、人権を蔑ろにするのか理由を尋ねるため取材を申し込み訪ねた彼らのオフィス。六本木ヒルズの上層階に、デザインされたオフィスが広がっていた。
■「私たちもノルマがある」

 ずらりと並んだ社員1人ひとりの椅子には高い背もたれがついていた。経営者は雲隠れして、結局インタビューに答えることはなく、代わりに現場の社員が覆面を条件に取材に応じた。「私たちもノルマがある。ノルマが達成できなければクビになるかもしれない。派遣の人たちには申し訳ない思いもある」と、彼らの心情もまた苦しかった。資本主義とは得体の知れない欲望の装置だと感じた。

 六本木のビル前で行われた抗議集会に参加した男性に一通り、職場の状況や訴えの中身についてインタビューをした後、最後に「将来の夢は何ですか?」と尋ねた。その時の男性の失望に似たため息が、今も私の心を締め付ける。
「堀さんは、安定した給料がある。クビにもおそらくならないでしょう。だから来年どうしていたいのか、10年後にどんな暮らしをしているのか、未来を語ることができますよね。でも、僕はこの取材を受けた後、家に帰って布団の中で携帯電話で明日の仕事を探すんです。わかりますか?  この気持ちを。夢を語ることができると思いますか?」

 返す言葉がなかった。

 読者の皆さんに告白したいことがある。拙著『わたしは分断を許さない』を執筆するにあたり、しばらくの間、筆が全く進まなくなり、再開するまで2週間近くかかったことがあった。
 理由は、取材で話を聞いた男性たちの名前が思い出せなかったからだ。記憶の扉を開けて遡ろうとしたものの、1人ひとりの表情、取材場所の風景、言葉、日差しや風の吹き具合は覚えていても、どうしても名前が思い出せなかった。取材メモを探してみたが、資料は出てこなかった。思い出しても、思い出しても「派遣社員の男性」としか記憶になかった。

 最低である。1人の人間のアイデンティティを属性でしか記憶していない。きっと当時もそのような意識だったのだと思う。寄り添うように見せて、尊厳を傷つけていたのは、私だ。10年以上経って、私は私が当時しでかしたことが恐ろしくなり、筆が全く進まなくなった。そんなつもりはなかった。しかし、こうやって当時、自分が相手に投げかけた質問の数々を振り返って、並べてみると、想像力のなさにただただ俯くしかなかった。
■あちらとこちらを隔てる装置

 加藤を犯行に追い込んだのは、誰だったのか。それはおそらく、私、私の中にある無自覚さだったように思う。悪意はなかった。そんなつもりもなかった。私はあちらとこちらを隔てる装置の1つだった。

 私の意識を変えたのは、東日本大震災、原発事故だった。震災前から福島県への関わりがあった。事故から3年を迎える頃だ。ある番組で私はこんな発言をした。「福島では今も多くの人たちが苦しんでいます。忘れないでください」そんな呼びかけだった。
2014年秋の時点で原発事故による福島県内外の避難者数は13万人を超えていた。未だ、故郷を追われ、帰還の見込みさえつかない人が大勢いるんだということを伝えたかった。SNSへも同様の書き込みを行ったと思う。

 「堀さん、被災地を想ってくれてありがとうございます。もっと伝えてください」という声をもらう一方で、批判も受けた。会津地方を訪ねた時だ。観光へのダメージが深刻だった。温泉街は客の減少に悩んでいた。会津若松で商店を営む若手経営者からはこう言われた。
 「堀さん、いつまで被災地は、被災地は、って言うんですか?  福島は辛い、苦しい、しんどいって。福島の原発事故が、放射能が、って。この数年間、私たちが風評被害と闘ってきたのは知っているでしょう。福島県は広い。原発とここは100㎞も離れてる。事故直後だって、放射線の値はこの辺りは堀さんが住む関東とほとんど変わらなかったんじゃないですか?  福島は、福島はって、そういう伝え方はもういいんじゃないですか?」
 全くその通りだった。福島県は広い。本州では岩手県に次いで2番目に広い県土を持つ。原発のある浜通り、中通り、会津とぞれぞれの地域で原発事故の影響も、復興の速度も異なる。現場を訪ねながらそうした違いも伝えていたはずなのに、私は知らず知らずのうちに「福島は」という主語を使っていた。

 そして、さまざまな人たちを傷つけていた。現場の努力をふいにしてしまう発言をメディアで繰り返していた。その度にSNSでは賛否の声が沢山寄せられた。「福島を忘れるな。被災地を忘れるな」「いや被災地ではない、復興も進んできた。明るい話題を取り上げるべきだ」。異なる立場からさまざまな意見が寄せられた。「差別を生んでいるのは、あなただ」。そんな声も寄せられた。その通りだ。乱暴な表現で、私は分断に加担していた。ある人からは拍手をもらい、ある人からは傷つけられたと悲しまれた。
■大きな主語から小さな主語へ

 それ以来だ。大きな主語ではなく、小さな主語を使うべきだと明確に思うようになったのは。

 「福島県には今も多くの苦しんでいる人がいる」ではない。「福島県楢葉町のJR竜田駅前で商店を営んでいた木村さんは、今も元の場所で営業が再開できるかわからず、避難先で考え込んでしまうことがあるという」。どんなことがあっても一人ひとりの固有名詞で伝えるべきだと痛感した。100人いれば、100通りの物語がある。読者の皆さんにも投げかけたい。あなたにとって被災地とはどこですか?  と。
 おそらく皆さんの胸のうちに浮かぶ景色はそれぞれ異なるだろう。ある人は原発事故の被災地、ある人は津波の、ある人は帰還困難者としてトボトボと歩くしかなかった東京。熊本地震かもしれない。豪雨災害の西日本、インドネシアやネパールかもしれない。大きな主語はとても主観的な要素を含んでいる。

 大きな主語は私の暮らしの周囲で跋扈している。男は、女は、LGBTは、若者は、年寄りは、政治家は、官僚は、日本は、韓国は、中国は、と大きな主語で語ってしまう言論に溢れている。果たしてそうして語られる現場に、真実はあるのだろうか。もし意図的に大きな言葉で煽動されたら、あっという間にそこに分断を生じさせることはできやしないだろうか。これが、今、私が最も警戒している事象である。
堀 潤 :ジャーナリスト、キャスター

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