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「歴代の受賞者はすごい人ばかり。『えっ、私でいいんですか?』と驚きしかなくて。『あなたを選びました』というお言葉をいただいて嬉しかったです」 【写真あり】2019年11月、カトマンズを出発する際の荷物 こう語るのは、大阪で唯一の村、千早赤阪村在住の美容師、稲葉香氏(48)。標高5000メートルにある西ネパールの村ドルポで越冬し、村の暮らしをつぶさに観察した活動に対して、2020年の「植村直己冒険賞」が授与された。 これまで、「グレートジャーニー」の関野吉晴氏(1998年)、K2に日本人女性として初登頂した小松由佳氏(2006年)、全盲で太平洋を横断した岩本光弘氏(2019年)──など、自然を相手に創造的な勇気ある行動をした人に贈呈されてきた同賞。7月3日に兵庫県豊岡市で授賞式がおこなわれた。 過去4度、西ネパールに位置するドルポ地区を横断してきた稲葉氏。今回の受賞は、2019年11月11日から2020年3月11日までの122日間の越冬についてだ。標高5000メートルの峠を越えないと入れないこの村は、冬の間は完全に雪に閉ざされる。 「冬の暮らしはどうなっているのか、自分の身体で体感したい」 それが、大きな動機だった。これまでおこなった講演料や支援者からの支援金などを貯め、やっと出発の日を迎えるのだが、とんでもないハプニング、アクシデント、予想外の出来事の連続だったという。 出発からして、前途多難だった。稲葉氏は18歳からリウマチの持病に苦しんできた。両手首と右足首の関節に変形と激痛があり、眠れない日もたびたび。ふだんは2、3週間に一度、免疫抑制剤の自己注射を打っている。 それが、29歳でネパールに行って高い山に登るようになってから、痛みが軽減されると体感し、高地が自分の体に合っていると気づく。稲葉氏はそれを「自然地癒力」と呼んでいる。だが再発もあり、主治医に山行きを止められることも多々あった。 この旅のために主治医を説得し、やっとのことで出発直前にもらえた痛み止め薬と免疫抑制剤の自己注射用注射器。機内持ち込み荷物として書類も用意していたのだが、航空会社カウンターの係員に預入荷物に預けないと搭乗不可と言われ、泣く泣く預けた。そのすったもんだに時間と気を取られ、出国前に関西空港のATMで出金するのをすっかり失念してしまった。 「うわっ!! お金忘れた!」 見れば、財布の中には2万円しか入っていなかった。慌てて日本にいる相方にメールした。そのうえ、カトマンズの街のATMでは、キャッシュカードが入ったまま戻らなくなるというさらなるアクシデント。弱り目に祟り目のスタートだった。 「基本的にボケてるんです。なんかやらかすんですよね・・・」 その後、ネパールで活動している知人と事前に会う約束をしていたので、事情を話すと20万円を貸してくれたという。 ラッキーだったことはほかにもある。出発の8カ月前から準備を始めたのだが、2人分で約200キロ(米50キロ、食用油5リットル、豆10キロ、小麦10キロ、砂糖10キロ、灯油90リットルなど)にもなる越冬のための荷物を運ばなければいけなかった。そこにちょうど秋、日本から現地に行くという隊があって、その半分を現地に運んでくれた。 「これは本当に助かりました」 残りの約90キロを、稲葉氏が運んだ。 またドルポ地区のニサル村で、たまたま外国人が誰も見たことのない年に一度の祭り「クリンチェンモ大祭」に出くわしたことも。 「過去に、仏像を盗んだ外国人がいたとかで、私が泥棒かスパイではないかと最初疑われたらしくて、撮影をさせてくれなかったんです。でも、ホームステイ先の娘さんの父親が偶然その祭りを仕切っている僧侶だとわかり、連絡してくれて撮影もできました」 ドルポには2007年から行っているが、山岳ガイドはカトマンズで日本語を話す信頼できる人を確保。 「今回のガイドは10年以上の付き合いで、元コックで料理も作ってくれるので助かったのですが、慣れてくるとお互いに言いたいことを言うので、たまに喧嘩になります」 さらにドルポで交渉し、現地のポーターを数名雇う。そこでもバトルが繰り広げられる。 なぜなら、稲葉氏の歩く地域は一般トレッキングコースとはかけ離れているからだ。通常よりも、ガイドやポーター選びは重要になってくるのだ。 「ガイドにはいろいろなタイプがいます。『ここはどこだ』と言い出すガイドや、道がわからなくなったりして、『先へ行きたくない』などと言い出す人もいます。そうなると、頭から反対したり嘘をついたりすることもあります。とはいえ、彼らの歩き方は、大地と一体化しているように歩く。けっして真似が出来ない、現地に住む人々ならではの強さを感じます」 驚くべきことに、現地のガイドやポーターには、地図を見るという習慣がないのだそうだ。だから稲葉氏は現地の地理のすべてを把握したうえで、地図を見せて説明し、理解してもらう努力もする。それができないと、西ネパールを歩くのは難しいという。 「一度、ポーターたちから『これ以上は行きたくない』と反対されたことがあって、『私は2、3日行ってくるからここで待ってて』と、ガイドと2人で荷物を担いで行ったこともあります」 また、ドルポという厳しい自然環境の中では、その日にならないとわからないことが多く、そのときどきの状況に左右される。リウマチの状態はどうだったのだろうか。 「下山を決めた日の夜中に、いきなり痛くなり目が覚めました。下山には最低10日間かかり、残雪の中5000メートルの峠を1本越えないといけない。救助ヘリは呼びたくなかったし、自分の足で下山したかったので、注射を打って体調をなんとか整えました」 結局注射は、最初にカトマンズからドルポに向け出発する前日の夜と2回だけだった。厳寒なのでシャワーも浴びない。体はたまに拭く程度。髪は1カ月に一度洗ったそうだが、空気が乾燥しているので臭わないそうだ。 「でも、最後は獣の臭いがしました(笑)。なんというか、野生に戻った感じがして嬉しかった。一度でも風呂に入りたいと思ったらあかんから、思わないようにしました」 今回の旅で、どんな新しい発見があったのだろうか。 「ドルポはツァンパという麦こがしが主食なんですが、今まで野菜なんて育てていなかったのに、ビニールハウスができていました。それと、大きな電波塔が立っていて、電波は不安定ではありますが、初めて携帯電話が使えて、驚くと同時に残念だなと思いました。 とはいえ、ふだんはスマホの電源を切っていました。友人たちがドルポ越冬チームの本部を大阪に置いてくれていたので、スマホと連動させて使える衛星メールを使って、できるだけ毎日状況を伝えました。そして本部から2週間に一度、日本の支援者のみなさんに近況メールを送ってもらっていましたね」 稲葉氏をここまで駆り立てたのは、明治時代に梵語とチベット語の仏典を求めて中国人、チベット人と偽ってチベットに密入国し、壮大なルートを歩いた僧、河口慧海(えかい)師の存在がある。慧海師の歩いた道や見た風景を辿りたいと思ったのが、そもそものきっかけだそうだ。 慧海師もまたリウマチでありながら、ユニークな巡礼の旅を続けたことを名著『西蔵旅行記』に綴っている。強盗に遭ったり、女性に言い寄られたりといったハプニングの日々のなかで壮大な景観を見て歌を詠むなど、その冒険譚は味わい深い。 「慧海師ルートは2016年に2カ月間の遠征で歩いたんですが、本と照らし合わせて観察しながら、『慧海師もここをこうやって歩いてたんやなあ』と、にやけてました。リウマチが痛いときは瞑想したと書いていて、自分も山を歩くことが瞑想になっています」 山では本当に無になれるという稲葉氏。慧海師の痛み止めのお灸も真似したが、高所にいると痛みはいつも軽減されるのだそう。 「こんなに壮大な旅になって、慧海師のご親族にも支援いただいて感謝しています。テーマはまだまだあり、ライフワークです」 近年、急速に変わっていくドルポの村。昔ながらの暮らしをつぶさに見るには、今しかないと稲葉氏は考えている。 「ここの暮らしは生活が山や自然と一体化していて、太陽や月が近くて、祈りとともに生きている。先人の研究者や登山家の先生方の残してくださったものを、次の世代につなげていきたいです。今やらないと消えていってしまう。使命感が沸いてきました」 取材&文・西元まり いなばかおり 1973年、大阪府東大阪市生まれ。美容師の傍ら、1997年から年に一度旅に出るライフスタイルを続ける。ベトナムから始まり東南アジア・アラスカ・インド・チベット・ネパールを放浪し、旅の延長で山と出会う。18歳でリウマチを発病し、山に登るなど想像もできなかったが、ヒマラヤトレッキングにより自然治癒力に目覚め、山を登るまで復活した。復活と再発の繰り返しのなか、河口慧海師の足跡ルートに惚れ込み歩み続け、2007年西北ネパール登山隊(故・大西保隊長)との出会いで、西ネパールに通い始める。2020年度「植村直己冒険賞」を受賞。現在は大阪市内で美容室『Dolpo-hair』を個人経営しながら、金剛山にある住まいの横に山小屋美容室を改造中。2021年7月17日~2022年1月末まで、植村直己冒険館(兵庫県豊岡市)にて稲葉香の特別展を開催予定。新刊『西ネパール・ヒマラヤ 最奥の地を歩く』(彩流社)が8月刊行予定
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