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鼻にできた腫瘍の内視鏡手術で、「日本一」といわれる技術力を持つ医師がいる。耳鼻咽喉科医の大村和弘さん、42歳。東京慈恵会医科大学の耳鼻咽喉科に所属し、現在はアメリカのノースカロライナ大学に留学し、客員研究員をしている。ライフワークで10年以上にわたって東南アジアへの技術支援活動を続けながら、鼻や頭蓋底の手術を専門とする外科医として国内トップに上り詰めた。ただ、医師になったばかりの20代前半は、「自分が何をしたいのか」もよく分からない、どこにでもいる若者だった。そんな大村さんが、どのようにして類まれなキャリアを切り拓いていったのか。名医と呼ばれるまでには、意外なストーリーがあった。(構成/安藤 梢) 【この記事の画像を見る】 ● 「なんとなく」「面白そう」が キャリアを拓くきっかけに 東京慈恵会医科大学の耳鼻咽喉科には、他の病院の医師たちが「手術ができない」と判断した患者が数多く紹介されてくる。その“最後の砦”で、難しい例を一手に引き受けていたのが、耳鼻咽喉科医の大村和弘さん。鼻の外科治療のスペシャリストだ。 2018年からの4年間で、手掛けた鼻の腫瘍の手術件数は200例以上に及び、国内トップの実績。世界でも有数の執刀数を誇る。そうした技術力に加えて、大村さんがずば抜けているのが、次々と新しい術式を考案していること。これまで発表されたオリジナルの術式は12もある。 今でこそ、鼻の領域のトップに立つ大村さんだが、医師としてのスタートは決して順風満帆ではなかった。「誰もやっていないことをやりたい」という思いは強かったものの、「それが何のか」が分からない。とにかく「何かやってみよう」という勢いと、行動力だけが頼りだった。「他の人から見たら、寄り道ばっかりしていると思われるでしょうね」と大村さんは苦笑いする。 そんな大村さんの医師人生の方向性を決定づけたのは、「なんとなく行ってみた場所」での出会いだった。研修医2年目のときに声をかけられて、「なんとなく」吉岡秀人先生の講演会に参加したのだ。吉岡先生は、ミャンマーを中心に医療支援を行うNPO法人ジャパンハートの代表。当時から積極的に海外で活動を行い、若い医師たちに向けて講演会を開いていた。 「なんとなく参加した吉岡先生の講演会で衝撃を受けました。今どきこんなに熱くて、こんなに泥臭いことを言う人がいるなんて‥‥。その頃、社会全体に、努力や下積みをどこか馬鹿にするような雰囲気があったのですが、吉岡先生は真逆でした。『人よりも苦しいことを経験しておけば、みんなが苦しいときに笑っていられるから』と。それを聞いて、この人と一緒に働けたら面白そうだなと思ったんです」
何かを手に入れるために泥臭く努力をするよりも、熱くならないスマートさが格好良いとされていた時代。大村さんの目には、「苦労は買ってでもしろ」と熱く語る吉岡先生の姿が、とても珍しく映った。そして、その熱い思いは大村さんの心に真っ直ぐ届いた。 「面白そう」と思ったら、即行動。講演会からの帰り道で書店に寄り、国際協力をしている医師たちの本を購入すると、すぐに読み漁った。 それまで東南アジアに行ったことがなかった大村さんにとって、開発途上国での活動は未知の世界である。 アフガニスタンで、医療だけでなく干ばつや貧困対策にも関わっていた中村哲先生や、ネパールの「赤ひげ」と呼ばれた岩村昇先生‥‥。本に描かれていたのは、現地に骨を埋めて、生涯を捧げる医師の姿だった。家族と一緒に過ごす時間はほとんどなく、親の死に目には会えないのが当たり前。あまりに過酷な活動を知り、「これは自分にはできない」と諦めかけた。 「でも、そこで思い出したのが吉岡先生の言葉でした。『現地に骨を埋めるような活動をする人は、10年に1人、20年に1人は出てくるかもしれない。それを待っていたのでは国際協力は発展しない。たとえ1年に1回でもいいから続けていくことの方が大事だ』と。それなら自分にもできるかもしれないと思いました」 日本に軸足を置きながら、医師が国際協力を長く続けていけるような仕組み作りができないだろうか。大村さんの心には、「自分なりのやり方で国際協力に関わっていきたい」という目標が芽生えていた。 「なんとなく」参加した講演会がきっかけで、大村さんのキャリアは拓かれていく。ちょっとでも興味を持ったら、とにかく行ってみる。その行動が、人生を大きく変えるきっかけになるかもしれない。 ● 「誰もが羨むキャリア」か 「自分がワクワクする挑戦」か 医師になって海外で働きたい――。これは、内科医の父と、薬剤師の母との間に生まれた大村さんが、幼少期から漠然と抱いてきた思いだった。 「医療は世界中の人に平等にアクセスできます。どの国の人にとっても、医師は助けを求められる存在ですよね。せっかくそういう職業に就くのだったら、日本国内にとどまらず、世界中の人に向けてやっていきたいと思っていました」
吉岡先生の話で国際協力に興味を持ったのも、もともと「海外で働きたい」という思いが胸の中にあったからからだろう。ただ、研修医のときに「海外」で具体的にイメージしていたのは、医療先進国のアメリカ。最近では海外留学をする医師は珍しくないが、大村さんが研修医だった20年ほど前は、アメリカで働く日本人医師は憧れの存在だった。 吉岡先生の講演がきっかけで海外協力に興味を持った大村さんは、吉岡先生に宛てて「ミャンマーで働きたい」と手紙を送った。「ぜひ」と返事が来たものの、当時のミャンマーは社会情勢が不安定だったこともあり、すぐには受け入れのOKが出なかった。 「実は、もしミャンマーに行けなかったときのために、もう一つのキャリアプランを準備していたんです」 それは、横須賀にある海軍病院での勤務だった。アメリカで働くことを目指す医師にとって、海軍病院での勤務経験はかなり有利に働く。日本での実習が、アメリカでの実習単位としてカウントされることに加えて、アメリカの医師からの推薦状がもらいやすいからだ。もともと「海外で働きたい」と思っていた大村さんにとっては、まさに理想的な環境。 海軍病院の採用が決まるのと、ジャパンハートから「ミャンマーに来てもいい」と連絡が来たのは、ほぼ同じタイミングだった。海軍病院に行くか、ミャンマーに行くか――。大村さんは、かなり悩んだ。 「キラキラしたダイヤの原石と、何か分からないような真っ黒い石。どっちを選ぶ?と言われているようなものですよね。それが僕のキャリアの分かれ目だったと思います」
● 「横を見ずして前を見ろ」という言葉 その時のことを大村さんは、「漠然とアメリカに行きたいという気持ちはあるものの、具体的にやりたいことは見えていなかった。もっと言えば、「アメリカ=誰もが羨むキャリア」という医師の世界の常識に囚われていただけだった」と振り返る。 「面白そう」と感じた、自分の直感は「ミャンマー」だと告げていた。しかし、キャリアを棒に振るようなミャンマー行きは、周りの医師たちからは大反対された。 「開発途上国で国際協力をしている医師に対する一般的なイメージは、『何を遊んでいるんだ』というもの。国内でキャリアを積み上げていく道からは外れてしまう。だから、吉岡先生と一緒にミャンマーで働きたい気持ちはあったものの、もし行ってしまったら今後の自分のキャリアはどうなるんだろう、という不安はありました」 大村さんの決断を後押ししたのは、研修医時代に教わったことのある、アメリカで感染症の専門医として活躍している青木眞先生の言葉。「横を見ずして前を見ろ」というアドバイスだった。横を見ずして前を見ろ? 一体、どういう意味なのか? 「自分と同僚を比べて『あの人は手術を何件やっている』『あの人は昇進した』と比較してしまうのは、横を見ているから。青木先生が言う『前を見ろ』というのは、目の前の患者さんと向き合うこと。しっかり患者さんを診られる医師になれば、その人なりのキャリアが自然と拓けていく、と言ってもらえたのです」 その言葉に心が軽くなった。そして背中を押されるように、ミャンマー行きを決めた。 「10人中9人がやりたいと思うことをやっても、人生面白くないですよね。誰もやっていないことに挑戦すれば、それが自分だけのキャリアになる。今ならそれが分かります」 しかし、実際にミャンマーに飛び込んでみると、大村さんを待っていたのは想定を遥かに超えた苦難の数々。大村さんの「寄り道」は、まだ始まったばかり。何度も挫折を味わいながらも、ひらすら「横を見ずして前を見」続けることで、「日本一の名医」へとキャリアを切り拓いていったのだ。(つづく)
大村和弘
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