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松本 卓也(ニッポンドットコム)
夢枕獏のベストセラー小説を谷口ジローが漫画化し、海外でも広く読まれている『神々の山嶺(いただき)』。この登山漫画の名作が、谷口の人気が特に高いフランスでアニメ化され、同国のアカデミー賞に当たるセザール賞のアニメ映画部門で最優秀賞に輝いた。「なぜ命を懸けて山に登るのか」。この問いに向き合う人々の思いが熱く伝わってくる力作だ。
世界最高峰エベレストの登頂は、20世紀に人類が挑んだ最大の冒険の1つだ。イギリスが国の威信をかけて、半世紀にわたり遠征隊を派遣し、登頂ルートの調査を重ねながら何度も試みた結果、1953年にニュージーランド人のエドモンド・ヒラリーと、ネパール人のシェルパ、テンジン・ノルゲイの2人組が初登頂を果たした。 ところがそれに先立つ1924年、第3次遠征隊として派遣されたジョージ・マロリーが山頂付近で行方不明になっており、彼が先に偉業を達成していた可能性も捨て切れない。捜索隊が長年にわたって探し続けたマロリーの遺体は、1999年になってようやく発見されたが、登頂したなら決定的な証拠となるはずのカメラがなぜか見つからなかった。 「なぜエベレストに登るのか」と問われたマロリーが答えたとされる「そこにあるから」という言葉は、登山という分野を超えた歴史的な名言として語り継がれている。彼が滑落して息絶える前に地上で一番の高みから眺めた景色が、写真に残されていたとしたら…。マロリーが人類初のエベレスト登頂者であったか否かは、カメラが発見されない限りミステリーであり続ける。
映画の完成を見ずに逝った谷口ジロー
そのミステリーを背景に、「なぜ人は山に登るのか」という永遠の問いに挑んだ小説が夢枕獏の『神々の山嶺』。表舞台から姿を消した伝説の天才登山家・羽生丈二と、彼を追う山岳カメラマン・深町誠の物語だ。この文庫版で1000ページを超える大作を、『孤独のグルメ』の作画で知られる谷口ジローが漫画化したことによって、より広い読者層を獲得した。それは国内にとどまらなかった。 谷口ジローといえば、フランスとベルギーで発展した「バンドデシネ」という漫画のスタイルに影響を受け、その細密に描き込む画力と、巧みな構図、物語のシンプルな構成力に定評がある作家だ。フランスを中心に海外で人気が高く、いまなおバンドデシネおよびアニメーションのクリエイターたちに多大な影響を与えている。 漫画版の『神々の山嶺』は、夢枕が膨大な言葉を尽くして細かく描写した情景を、谷口が1コマ1コマに描き込んでいく気迫がすさまじい。ストーリーはシンプルになっているようでいて、小説に書かれた内容を間引くのではなく、むしろ要素が際立つように描かれている。その結果が、1500ページを超える渾身の一作となった。 プロデューサーのジャン=シャルル・オストレロは、全5巻の漫画をフランス語で読み、すぐにでも映画化したい思いに駆られたという。だが、これをアニメ化するのが、至難の業(わざ)であるのは明らかだ。東京のフランス著作権事務所を通じて、谷口に映画化の許諾を得たのが2012年。シナリオの執筆だけで、そこから4年を要した。 2016年、ようやく谷口に脚本と下絵を見せることができた。「全身全霊を込めて書き上げた作品だからうれしい」と映画化を喜んでいた谷口は、ストーリーの翻案にも理解を示してくれたという。しかし年が明け、映画の完成を見ることもなく、この世を去ってしまった。
孤高の人の背中を追って
その後アニメーションの制作には、膨大な作業が積み重ねられ、コロナ禍に入ってからも続いた。完成は企画の立ち上げから9年を経た2021年。その年のカンヌ国際映画祭で初上映された。 映画の90分という長さに合わせ、ストーリーはよりシンプルに、発見されたマロリーのカメラ、それに関わっているらしい羽生、その行方を調査する深町、このあたりに絞って、そこに至るサイドストーリーは最小限にとどめてある。映画的というべきスピーディーな展開で、表舞台から消えた羽生の過去と、彼を探す深町の現在が交差するように描かれていく。 人物のシンプルな描線、ビビッドな原色を排した色合い、影の生かし方などがバンドデシネ調で、フランスのアニメーションならではの味わいがある。音楽の入れ方にもフランス人らしいセンスを感じる。それでいて、80年代の東京の街が細かいところまで再現されている。登山についても、山岳会の協力を得て、道具や音に至るまで徹底的なリサーチがなされたようだ。そして圧巻はやはり山の描写。空と峰々の山肌が織りなす雄大な景色には、実写のリアリズムを越えた絵画の美が追求されている。 もちろん、その美しさの奥にある峻厳さこそが、この作品が描こうとする山の姿だ。標高8000メートルを越えれば、そこは酸素濃度が地上の3分の1という「死の世界」。羽生という孤高の登山家が、あえてそこに冬季、無酸素、南西壁という困難な条件下で挑み、深町はその背中を追った。2人の鬼気迫る姿に、私たちは言葉を失う。そして最後には、何かを見つけたような爽快感に包まれるだろう。 観客の心をここまでアニメーションで動かしてしまう表現力に感服する。それは登山隊のようにチームが1つとなって、最初は手探りで、時にはルートの変更を迫られながら、さまざまな難所を乗り越え、地道に一歩一歩ゴールを目指して進んでいく作業だったに違いない。制作チームが追いかけたのは偉大な先達である谷口ジローの背中だった。時代と国を越えたクリエイティブな共鳴が、こうして結実したことにも感動を覚える。
作品情報
・監督:パトリック・インバート ・原作:「神々の山嶺」作・夢枕獏 画・谷口ジロー(集英社刊) ・日本語吹き替えキャスト:堀内賢雄、大塚明夫、逢坂良太、今井麻美 ・製作年:2021年 ・製作国:フランス、ルクセンブルク ・上映時間:94分 ・配給:ロングライド、東京テアトル ・7月8日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開
【Profile】
松本 卓也(ニッポンドットコム) MATSUMOTO Takuya ニッポンドットコム編集部スタッフライター/エディター。映画とフランス語を担当。1995年から2010年までフランスで過ごす。翻訳会社勤務を経て、在仏日本人向けフリーペーパー「フランス雑波(ざっぱ)」の副編集長、次いで「ボンズ~ル」の編集長を務める。2011年7月より現職。
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