Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/8bbb2f229d1f6055ab9ce9161cb850ef2d715b94
鼻にできた腫瘍の内視鏡手術で、「日本一」といわれる技術力を持つ医師がいる。耳鼻咽喉科医の大村和弘さん、42歳。東京慈恵会医科大学の耳鼻咽喉科に所属し、鼻や頭蓋底の手術を専門とする外科医として国内トップに上り詰めた名医だ。 大村さんを“特別”な存在にしているのはそれだけではない。彼は、ライフワークとして10年以上にわたって東南アジアへの技術支援活動を続けてきた。その姿を追ったドキュメンタリー映画「Dr.Bala」は、世界中の映画祭で注目を集めている。 しかし、医師になって4年目で活動を始めた当初は、日本とは全く違う医療環境に苦労が絶えなかったという。そんなアウェーな環境に身を置きながらも現地に溶け込み、コンプレックスだった「人付き合いが苦手」な自分の“殻”を破った大村さん。どうやって自身と向き合い、成長につなげたのか。話を聞いた。(構成/安藤 梢)*ミャンマー語で「Bala」は力持ちの意味。 【この記事の画像を見る】 ● 劣悪だったミャンマーの医療環境 大村さんが、ミャンマーを中心に東南アジアで支援活動を行うNPO法人ジャパンハートのメンバーとして、初めて海外協力活動に参加したのが2007年。ミャンマーの都市部から離れたへき地にある病院で、医療活動がスタートした。 いざ病院に行ってみると、その環境は最悪なものだった。手術中に停電するのは日常茶飯事。ネズミがコードをかじって機械が壊れたり、蛇口をひねると泥水が出てきたり、ガーゼは水を弾くような粗悪品だったりと、設備が整った日本では考えられないような光景が目の前に広がっていた。 「日本ではもちろん新品の糸を使って手術をしますが、向こうでは、羊の腸で作った糸を使っていたり、使わなかった糸は次の手術に残しておいて使っていたんです。そうすると、糸から感染してしまって、縫った傷口が思いっきり開いてしまう。その日に手術した患者さん全員の傷口が開いてしまったこともあります」 麻酔の品質も安定していなかったので、手術前には自分の舌の上に少しだけ垂らして、痺れるかどうかで効き目を確かめていたという。点滴をした瞬間に、患者が寒気と震えを引き起こしたこともある。そのときは、点滴のボトル内で細菌が繁殖していたのが原因だった。 「点滴のボトルから感染を起こすなんて、日本では絶対に考えられません。でも、その考えられないようなことが当たり前にある。だから、常に『なぜそうなるのか』を想像しながら、治療しないといけないんです。これは大変なところに来てしまったな‥‥と思いました」 しかし、その過酷な状況で海外協力活動が嫌になったかというと、「めちゃくちゃ楽しかったですね」と大村さんは明るく笑う。 「だって、自分が行きたくて行っているから。つらいこともありましたが、それも含めて体験できたのが嬉しかったですね。ここを乗り越えたら、また次のステップが見えてくると思ってやっていました」
● 「閉鎖的なコミュニティ」に どうやって溶け込むか? 日本からミャンマーに支援活動に行った医師たちが、必ずしも現地のスタッフから歓迎されるわけではない。そもそも派遣された病院は、観光客が入れないような地域にある。それだけに、外国人に対して閉鎖的なのだ。実際、ミャンマー人の医療スタッフは、病院長から「あまり日本人と仲良くするな」と言われているような状況だった。 「ミャンマー人のコミュニティには立ち入ってほしくない、と思われていたのだと思います。でも、僕はその地域にどんな人たちが住んでいるのかを知って、現地に溶け込んで医療を実践したかったんです」 そこで大村さんがとった行動は、とにかく地域の人々の生活に入り込むこと。村に2軒しかない飲食店に毎日のように通い、朝昼晩と食事をする。その店で、現地の人たちがよく飲むラペイエという紅茶を大きな容器で頼み、病院のスタッフたちに振舞ったりもした。食事はミャンマー人と同じように手で食べ、雨が降れば外に出て髪を洗った。 そんな「現地に溶け込みたい」という努力が行き過ぎてしまこともあった。今では笑い話になっているこんなエピソードがある。 「ミャンマーに入ってすぐ、都市部のヤンゴンに滞在していたときに、毎日のように通っていたカフェで歌を歌ったら、警察に通報されてしまったんです」 当時のミャンマーでは、市民に対する政府の厳しい取り締まりがあり、5人以上集まればスパイだと疑われてしまうような状況だった。そこで、突然、日本人が歌を歌い始めたのだから、「何か企んでいるのではないか」と疑われたのである。 「さすがに捕まることはなかったのですが、ミャンマー人のスタッフが片道8時間かけて政府機関まで謝りに行ってくれて。申し訳ない思いで、肩身が狭かったです」 明るい大村さんの周りには、いつも人が集まる。このときからギターを弾いて歌うのが、東南アジアでの大村さんの定番スタイルになっている。
● 「教える」より「教えてもらう」からこそ、 相手に伝えることができる 海外での活動で、現地の人たちに快く迎え入れてもらうにはどうすればよいのか。大村さんが大事にしたのは「教えてもらう」姿勢だった。 「まずはミャンマーの文化を教えてもらうところから始めました。踊りやミャンマー語を習って、そのお返しに日本語や日本の文化を伝える。はじめは僕を警戒していた人たちも、こちらが『教えてください』と言うと心を開いてくれます。なにより相手の文化に興味を持っていることが伝わると、喜んでもらえますよね」 医療環境が劣悪な病院に行き、支援をする。普通であれば「教えてあげよう」という上から目線になってしまってもおかしくない。そこを、あえて「教えてもらう」姿勢に徹するようにしたのだ。現地の医療についても「教えてもらう」姿勢で、それまで「全く信じていなかった」という東洋医学も学びに行った。 「看護師さんが歯の痛みを訴えたので、鍼治療をしている先生のところに行って打ち方を教えてもらいました。言われた通りにやってみると、ピタッと治ったんですよね。私が学んだ西洋医学の考えとは違いますが、現地の人たちが大事にしている伝統医学は、やはりそれなりの効果があるからこそ受け入れられている。それを教わることが、現地の人たちを理解することにもつながると思ったのです」 「教えてもらう」姿勢で、現地の人たちから信頼してもらえるようになった大村さん。すっかり打ち解けたスタッフたちからは、ミャンマー語で「力持ちの先生」という意味の「サヤー・バラー」の愛称で呼ばれるようになっていた。
映画「Dr.Bala」の中で印象的なシーンがある。2017年にミャンマーで開かれた国際学会の壇上で、大村さんが現地の医師たちと共に、ミャンマーでも大ヒットした長渕剛の「乾杯」を歌っている場面だ。大村さんが歌い出すと、ミャンマー人の医師たちが次々と壇上に駆け上り、最後には肩を組んで合唱する。その映像には、長い年月をかけて培われてきた信頼関係が映し出されていた。 「日本から教えに行くと、『偉い先生』のようなイメージを持たれてしまうことがありますが、それでは近寄りがたいですよね。だから僕は現地の先生たちと一緒にお弁当を食べたり、歌を歌ったり、できるだけ同じ時間を過ごすようにしています」 ● 人付き合いが苦手な コンプレックスと向き合う だが、常に自分をさらけ出して人に接しているように見える大村さんが、自然にそうできているわけではないという。「本当はみんなの前で楽しく歌えるような人間じゃないんです」と苦笑いする。 「一人旅に行っても、自分から誰かに話しかけるようなタイプではなくて‥‥。正直、人付き合いは苦手です。でも、海外協力活動はそれでは駄目だと思っています。だから、こうありたいという自分を努力して演じているんです」 今の姿からは想像がつかないが、子どもの頃から団体行動が苦手だったという大村さん。中学校の部活では「個人競技だから」と陸上部を選び、チーム競技にはずっとコンプレックスがあったという。 「チームを作って、一つのことに一丸となって取り組む。そんな人たちにずっと憧れがあるんですよね。でも、僕は全然できない。できないからこそ、海外での活動を通してずっとチャレンジし続けています」 海外協力活動は、「自分のコンプレックスと向き合うチャンスでもある」と大村さんは話す。現地の人たちに受け入れてもらうための努力が、結果的に、自身の“殻”を破ることにもつながった。そして、ミャンマーで身に付けた「教えてもらう」姿勢が、日本の医療現場でも生かされ、医師としてひとまわり成長することができたという。自分の“殻”を破らなければ何もできない、そんなアウェーな環境にあえて身を置くことでこそ、人は成長できるのかもしれない。(つづく)
大村和弘
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