Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/adc68484f4e4f63360fa6233c0325f2eb5d70bba
* * * 「エベレストに登って、無事に帰ってくるだけでも大変なのに、そこで写真を撮ってくるなんて、すごいですね」 【上田優紀さんの作品はこちら】
インタビュー中、筆者がこう口にしたときだった。写真家・上田優紀さんの声のトーンが高まった。 「写真を撮るって、そういうものですから。大変だからやらないとか、つらいからやめるとか、そういう話じゃない。写真で飯を食べている人ならたぶん、みんなこの気持ちは分かると思います。そんなに気にしてないですよ、つらいというのは」 ■撮影した記憶がない エベレストへ出発する前、上田さんはどんな状況でもシャッターを切る自信をつけるため、厳冬期の富士山に通った。 富士山に登るのはいつも夜だった。真夜中に静岡県の御殿場口登山道を歩き始め、朝8時ごろ山頂に到着する。その行程はエベレストに登頂する日のスケジュールを想定したものだった。上田さんは固く凍った雪の上でトレーニングを開始した。 <富士山の山頂で息を止めて激しく腿上げ運動をしてみると、鈍器で殴られたように頭が痛くなり、吐きそうになってくる(実際に吐いてしまうことも多かった)。フラフラになりながらもその状態で三脚を組み立て、カメラをセットし、マニュアルでピントを合わせて、息を止めながらシャッターを切るという作業を何度も繰り返し練習した>(『エベレストの空』光文社新書) トレーニング直後に血中酸素飽和度を測定すると、65パーセントの値を示した。厚生労働省の新型コロナ対応マニュアルによると、この値が93パーセント以下になれば酸素投与が必要な状態とされる。 しかし、ヒマラヤでの撮影はさらに過酷だった。上田さんはこんなエピソードを話してくれた。 「酸素を吸っていても意識が薄くなっていく。下山してから撮影した画像を見て、『ああ、ここで撮ったんだ』と、気がつくことがよくあります」 標高8000メートルの世界は「1秒立ち止まると、1秒死が近づいてくる」デスゾーン。実際、山頂付近では眠るように力尽きた登山者のすぐわきを登っていく。 体力をできる限り温存するため、登山者は装備品を1グラムでも軽くしたいと考えるのがふつうだ。 ところが、「エベレストに登るのは100%写真を撮るためです」と言い切る上田さんは、登山装備以外にもカメラボディー2台、交換レンズ3本、三脚(標高6400メートルのキャンプ2まで)、予備バッテリーを背負って山頂を目指した。
■広告撮影で写真を学ぶ 上田さんは1988年、和歌山県生まれ。山との出合いは意外と遅く、22歳ごろという。 「それまでぼくは海派だったんですよ。サーフィンをやったりしていた。スキューバダイビングのライセンスも16歳のときに取得しました」 そんな上田さんはある日、本屋で山の雑誌を手に取った。 「雪山の特集だったと思います。奇麗だなあ、行きたいなあ、と思って、赤岳(長野県、山梨県)に登ったんです。めっちゃ寒かったのを覚えています」 「まったく登山経験がないのに、いきなり厳冬期の赤岳に登ったんですか?」と尋ねると、「はい」と言うので驚いた。 冬の赤岳山頂付近は傾斜が急な氷のすべり台のようになる。転倒して滑れば、まず止まらない。死亡事故もたびたび起きている。 「頭、おかしかったんです(笑)。ほかの人には絶対にまねしちゃだめだよ、と言いたいです。でもぼく、いまだに登山技術は基本的に独学なんですよ」 初めて山に登った感想は? 「それが、よかったんですよ。美しかったこともあるんですが、なんか厳しいのが性に合っていた」 写真を撮り始めたのは、その2年後だった。 「24歳のときに初めてカメラを買って、世界一周をしたんです。その途中で、写真家になりたいと思うようになりました」 帰国後、上田さんは広告ビジュアル制作会社「アマナ」に入社。写真家アシスタントを務めながら写真を学んだ。 「広告写真はなんでも撮りました。化粧品、ビール、映画の広告とか。めちゃくちゃ緻密な計算をして写真をつくり込んでいく。本当に写真はゼロからのスタートでしたから、アマナで学んだことは大きいです。もちろんそれはいまにも生きています」 ■エベレストに目を奪われた 2016年に写真家として独立。近年はヒマラヤの8000メートル峰を中心に撮影している。 初めてヒマラヤ登山は18年、アマダブラム(6856メートル)に登った。理由はとても単純で、「ものすごくかっこいい山だったから」。険しくも優美なアマダブラムの姿は上田さんを引きつけた。 ところが、登頂すると、すぐに別の山に心を奪われた。それがエベレストだった。 「アマダブラムのノーマルルートを登って頂上に達すると、それまで見えなかったエベレストがいきなり目の前に現れるんです。もう本当に目立つというか、その山しかないぐらいの感じで見えた。ああ、世界で一番高い場所だ、あそこの風景を見てみたいな、っていうのがエベレストを撮るスタートでしたね」 下山中はもうエベレストのことしか頭になかった。写真家としてどうしてもそこに行きたくなった。
「エベレストはおそらく世界で一番有名な山だし、8000メートル峰のなかではもっとも登られている。たぶん、1万人くらいは登頂しているでしょう。写真も世の中にあふれている。でも、本当のエベレストの世界を伝えられるような写真はどれだけあるんだろうと思ったんです。ぼくはそんな写真を見つけることができなかった」 翌年、マナスル(8163メートル)に登り、8000メートル峰がいかなるものか、身をもって知った。 エベレストに向けて成田空港をたったのは21年4月3日だった。コロナ禍で登山道が封鎖された前年の反動で、入山申請数は過去最高を記録。標高5350メートルのエベレストベースキャンプは人口約1000人の村のようだった。 ■疲労で崩れ落ちる登山者 エベレスト登頂の成否は天候によって大きく左右される。ところが「この年の天候は最悪でした。登頂のチャンスは2~3日しかなかった」。 ベースキャンプから山頂までは4泊5日の道のりである。予報では5月19日前後の天候が良好だった。上田さんはシェルパと2人で20日の登頂を目指してベースキャンプをたった。 同じ日程で登頂を目指すチームが続々と出発した。写真には氷河の上を歩く登山者の姿が点々と写り、列をなしている。その背後にはあまりにも巨大なエベレストが立ちはだかるように見える。 出発からわずか2日目、予想外に天候が悪化した。吹雪が続き、4日間テントに閉じ込められた。すでに気圧はかなり低く、意識して腹式呼吸をして肺に空気を送り込まなければならない。寝袋にくるまっているだけで体力が奪われた。 「食料もギリギリでした。そこで何人も登頂を諦めて下山した」 停滞5日目の朝、ようやく晴れ間が見えた。上田さんは力を振り絞って出発した。登山続行を決断したいくつかのチームも歩き始めた。 <その顔に表情はなく、まるでゾンビの行列のように見える。さらに進んでいくと、膝から崩れ落ちてその場で動かなくなる人がいた。停滞でよほど体力を奪われたのだろうか。その人を追い抜く時、話しかけても反応がない>(同) 上田さんはその後、2日かけて標高7900メートル地点まで登り、最終キャンプを設営。頂上に向けて出発したのは5月22日午後11時だった。 「この日はすごく天気がよかった。気温はマイナス30度。風は強く、体感温度はマイナス40度くらいでした」
■撮影中「クレイジー」の声 ヘッドランプの明かりを頼りに足を前に進め、標高8600メートル付近で日の出を迎えた。バッグからカメラを取り出し、中国・チベットの地平線から上る太陽に向けてシャッターを切る。しばらく歩くと、ネパール側の山が色づいてきた。 「別に構図を探すこともないし、光を待つこともありません。そんなことをしていられる環境ではないですし。自分が気持ちいいと感じる構図がもう身に染みついていますから、ああいいなと思った瞬間を特に何も考えずに撮っています」 大きなカメラに大きなレンズをつけて写真を撮っていると、ほかの登山者の声が耳に入った。「クレイジー」。バックの中に予備のボディーと交換レンズ2本が入っていることを知ったらもっと驚くだろう。上田さんは声の主にこう言った。「イッツ、マイジョブ!」。 エベレストの山頂に到着したのは23日午前8時59分だった。 「ぼくは別に山岳写真家というわけではありません。自分の一つのテーマとして4年ほどヒマラヤを撮影してきました。そのなかでエベレストは撮っておきたい、みんなに伝えたい山だったんです。来月はタヒチの海に潜って、クジラを撮影する予定です」 (アサヒカメラ・米倉昭仁)
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