Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/39cbbd1b4e3f0c2d5c7f97343fc71206f5583409
参議院選挙への出馬が何回も噂された「アルピニスト」野口健。元総理の橋本龍太郎とは、エベレスト登山を契機に育まれた、年齢を超えた不思議な関係だった。橋本から自民党から参議院選挙出馬のチケットを手に入れた野口健。しかし、家族や周囲の反対もあり、最後まで選挙に臨む態勢をつくれなかった。野口健のマネージャーを計10年務めた小林元喜氏の著書『さよなら、野口健』(集英社インターナショナル)から一部抜粋して紹介する。<前編から続く> * * * 結局、選挙については態勢がつくれず時間だけがただ過ぎていった。小笠原から戻り、すぐに橋本龍太郎事務所に謝罪に赴いた。野口が出馬辞退を告げると、橋本は「もう貴様とは絶交だ」と怒鳴った。 ■無言の煙草 野口は、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。何かを言いたいのだが、何を言っていいのかわからない。「今までお世話になりました」とだけ告げ、頭を下げた。 橋本は窓の外を見ながら「何もしてない」と言う。 「いや、私のほうで勝手に感謝させていただきます。ありがとうございました」 そう言い残し、野口は事務所を出た。その足で近くの大きめの書店に駆け込んだ。本を読むふりをしながら、野口は最後のシーンを何度も頭の中で再現する。 「終わっちゃったなあ。なんだか最後、悲しかったなあ」と口に出すと涙が出てきた。 それから何日かが過ぎた。橋本から野口宛に葉書が届いた。そこには「最近はどうしてる? 元気かい? たまには顔でも出して」と書いてある。野口はすぐに事務所に向かった。すると橋本が「久しぶりだね。最近は楽しいことあったか?」と、自分のネクタイをくねくねと触りながら聞いてくる。 「久しぶりですね」と答えながら、いや、ついこの前会ったばかりだぞ、と野口は思う。 二人は無言のままだ。橋本の煙草の本数だけが増えていく。野口は「一体これは何の儀式だ」と思いながらも喜びを隠せなかった。 二〇〇四年七月のことだった。日歯連闇献金事件のニュースが流れた。二〇〇一年七月に橋本と青木幹雄、野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事と料亭で会食。その際に一億円の小切手を受け取ったが、この献金を収支報告書に記載していなかった、というものであった。報道が連日続き、橋本はマスコミの攻勢にあっていた。 野口の公式サイトには「橋本龍太郎との思い出」というコーナーがあり、二人の写真がたくさん掲載されていた。サイトにあった掲示板には、報道の過熱に比例するように野口と橋本の関係を非難するコメントが相次いだ。
この時、珍しく明け方に野口から携帯に電話があった。時計を見るとまだ四時だ。 「どうしたんですか?」と私が言うと、「起きてましたか。小林先生は朝が早いね~」と、なかなか用件を切り出さない。 「いや、マジで眠いですよ。何があったんですか?」と私。 すると声色が変わり、「あのさ、龍ちゃんとの写真、あれ全部消せる?」と小声で言ってきた。「まあ、できますけど。でも、ほんとにいいんですね?」と言い、私はすぐにパソコンを起ち上げ、関連ファイルをサーバーから削除した。 「はい。もう一回見てみてください。消えてますよ」 そう言うと電話を切り、私はすぐにベッドに戻った。すると五分ほどして再び携帯が鳴る。「どうしたんですか?」と不機嫌な私。 「いや、ほんと申し訳ない。龍ちゃんとの写真、あれやっぱり全部もとに戻して。やっぱよくない。こういうのはよくない。すぐに戻して。すまん」 私は再びパソコンを起ち上げながら、健さんらしいな、と呟いていた。 ■病院でついた嘘 事件の報道は日増しに過熱していた。そんな中、野口は自身が理事長を務めるNPO法人への特別顧問への就任を橋本に打診した。 二〇〇六年の正月、「自分はもう登山は無理だから、これを持っていけ」と橋本は愛用していたピッケルを野口に渡した。橋本が倒れたのはこの約半年後だった。会食中に、旧知の新聞記者から私の携帯に連絡があった。 「ハシリュウが倒れて新宿区の国立国際医療研究センターに入院したみたい。すぐに健ちゃんに教えてあげて」 私たちは会食を終えると、その足で病院を訪れた。夜の病院は非常灯の明かりだけで真っ暗だった。入り口を少し進んだあたりで警備員に制止された。 「橋本龍太郎さんのご親族の方から連絡があり、『来てくれ』と呼ばれまして」 嘘が口をついて出た。そのまま総合受付の前で待った。野口も私も何も話さなかった。しばらくして、警備員に指示され、エレベーターに乗った。橋本の病室は固く閉ざされていた。その前に橋本の長男が一人立っている。野口が駆け寄っていき、私は遠慮してその場に立っていた。緑の非常灯だけの薄暗いリノリウムの廊下に、二人の影が長く伸びている。野口の黒いシルエットが徐々にうなだれていく。うんうん、と野口が何度も頷いている。二人の会話は聞こえない。すぐその先に橋本がいるのに、そこには野口でも入れなかった。 数日後、富士山の清掃活動中に橋本の訃報に接した。清掃中の野口に私がその旨を伝えると不法投棄されたゴミを片付けながら、「そうか」とだけ言った。
橋本が亡くなってしばらくしてのこと。港区にある寿司屋で居合わせた客と口論になった。野口が橋本の話をしていたのを聞いていたその客が「いや、橋本政権の功罪はちゃんと分けて考えなきゃ」と言ってきた。その客と野口のやりとりを聞いていると、議論としては客観的に見ればその客に軍配があがるものだった。野口の主張は、感情的で冷静さを欠いていた。議論としては完全に負けていた。でも、その完全に破綻した野口の、「論」とはとても言えない感情の発露を見ていて、なぜか私は悪い気はしなかった。 橋本は港区の青山霊園に眠っているが、山をこよなく愛したことからエベレストを望むネパールのタンボチェ村にも慰霊碑がある。野口はヒマラヤ登山の際には、出発前に青山霊園を訪れ、ヒマラヤ入り後はタンボチェ村の慰霊碑を必ず訪れている。 <前編から続く> ○小林元喜 こばやし もとき ライター。1978年、山梨県生まれ。法政大学経済学部卒業。早稲田大学大学院公共経営研究科修了。法政大学在学中より作家の村上龍のアシスタントとしてリサーチ、ライティングを開始。『共生虫ドットコム』(講談社)、『13歳のハローワーク』(幻冬舎)等の制作に携わる。卒業後は東京都知事(当時)の石原慎太郎公式サイトの制作・運営、登山家の野口健のマネージャー等を務める。現在に至るまで野口健のマネージャーを計10年務めるが、その間、野口健事務所への入社と退職を3度繰り返す中で、様々な職を転々とする。現在は都内にあるベンチャー企業に勤務。
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