Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/5b57d66cbabf5834b7f4777f30685371df55fbb3
56年前の1965年10月15日に、2人のフランス人の若者がコルシカ島からシトロエン2CVフルゴネットで世界一周の旅に出た。予定では、ヨーロッパから中東を巡り、ネパールを目指し、さらに日本を経由してオーストラリアに渡り、そこからアメリカ大陸に向かうつもりだった。しかし、若者のうちのひとりが東京で日本人女性と結婚し、男の子も生まれ、家庭を持ったので彼の世界一周の旅は半分で終わった。もうひとりは旅を続けたらしいが、詳細はわからない。2CVフルゴネットのその後も不明だ。しかし、若者たちは多くの写真を残し、『La GLANDOUILLE』という本まで自費出版していた。 【写真を見る】2CVがグシャグシャになった。
ミュージシャンのマーク・パンサーの父親であるポール・アドリアン・パンソナさんは、1965年10月15日に友人のモーリスとともに「zuzu」と名付けたシトロエン2CVフルゴネットを運転して故郷のフランス・コルシカ島から旅に出た。 途中で仕事をしたり、絵を描いたりして旅費を工面しながら、ヨーロッパから中東を巡り、アジアに向けて進んできた。楽しいことも、大変なこともあったが、1966年10月にはインドに入り、あちこちの史跡や寺院などを見学した。 11月1日には、次の目的地であるネパール入国のためのビザも取得できた。直前で体調を崩し、先行きが危ぶまれたが、11月23日にネパールに入った。だが、首都カトマンズに向かう幹線道路を運転中に、旅の命運を左右する大きな悲劇に襲われた。旅のノートから引用する。 <国境を越え、カトマンズに向けて走っていると、ネパールに入って数kmのところで対向車線を走ってきた大型トラックが積載していたロードローラーの車輪が外れ、zuzuに激突した> 事故直後の写真が残っているが、ふたりに怪我がなかったのは奇跡としか言いようがないほどの激しいものだ。 ロードローラーの、地面を平らにする幅広い前輪ではなく、駆動用の鉄製の右側後輪が外れて落ち、対向車線を走ってきたzuzuに衝突した。 <モーリスが咄嗟にハンドルを切って避けようとしたが、避けきれずに車輪はzuzuの右側に当たってしまった。ものスゴい衝撃だったが、幸いに僕らに怪我はなかった。ビルガンジの町の警察に行き、事故の取り調べが始まったので、zuzuを置いていかなければならなかった> 怪我がなかったのは幸運だったが、コルシカ島から何千kmも走ってきて、それも走行中の対向車から落ちてきた車輪がブツかるというのは一瞬のことだから、大きな不運だ。ホンのちょっとタイミングがズレていたら、かすりもしなかったのだから。 <8時間半歩いて、カトマンズに到着した。翌日、事故の処理をするために現場近くのビルガンジの警察署や役所などを改めて訪ねたが、解決に向けてすぐに動き出す様子がなかった。なにを訊ねても「カトマンズの指示を待たなければならない」と、たらい回しにされたわけだ。中には調子のいい者がいて、「心配するな、3日もあればすべて元通りに直してもらえるさ」と何の根拠もなく言っていた。そんなワケないだろう!> 事故現場に戻ると、zuzuは勝手に移動させられていた。 <ここのヤツらに裁判をされたら、いつ解決するかわからない。書類には、zuzuの修理代として5000ルペットを請求すると記入した> ポールさんたちは、カトマンズのフランス大使館を訪れ、外交官に事態を打開できないものか相談してみたが、打つ手はないだろうと同情されただけだった。 zuzuはボディが大きく凹み、右側のリアサスペンションが曲がってしまった。とても、このままでは走れない。 事故の原因は相手方に100%の非があることは明らかなのだが、警官や役人の対応ぶりから、素早い解決は望めそうもなかった。さらに、zuzuが受けたダメージをどれだけ速やかに修復できるのかもわからない。 念願のネパールに来ることができたのは良かったのだが、ポールさんたちの行く手にまた暗雲が立ち込めてきた。 <でも、うれしいこともあった。カトマンズでジャックに再会できた。彼は自分のオートバイを売ろうとしていたが、まったくダメなようだった> ネパールの山々や街並み、寺院などからは感銘を受け、人々にはとても良い印象を抱いた。 <「ナポリを見てから、死ね」という諺があるけれども、ネパールに来ると「ネパールを訪れてから、ナポリへ行け」と反論したくなる。それほど、素晴らしいところだ> ネパール(Nepal)とナポリ(Naples)の綴りが似ていることを引っ掛けた洒落のつもりらしいが、ポールさんはネパールが大いに気に入った。 <普通の民家が美しい。屋根のカーブや窓のカタチなど独特の造形が施されていて、どこもきれいだ。インドとは全然違う。ネパールの人たちは、“古臭い”と嫌っているようだが、全然そんなことはない> チベットの人々がたくさんカトマンズにいて、独自のカルチャーを持っていることも、ポールさんを刺激した。 <ネパールに住んでいるチベットの人たちは、そこにいるだけで存在感がある。チベット料理はネパールのものと違っていて、美味しかった。両方のレストランがある場合には、僕らはチベットレストランを選んでいた。ボドナの町のチベット仏教のお寺でお茶をご馳走してもらった。しょっぱいバターの味がして美味しくはなかったが、ありがたくいただいた> zuzuを取り戻し、修理することはすぐにはできそうもないことがわかると、ポールさんたちは焦ることを止め、ネパールを楽しむことにした。 <隣のパタンという町に行ってみた。素晴らしい町で、素晴らしい寺がたくさんあった。動物園まであって、入ってみるとライオンが2匹と虎、熊もいた> ポールさんたちや、ジャックのように各地で知り合った他のヨーロッパからの旅行者たちの間では、昨年(1965年)のうちから、ある合言葉が交わされていた。 それは、「来年(1966年)のクリスマスイブは、カトマンズに集まってみんなで祝おう!」というものだった。その集まりは“ランデブー”と呼ばれ、旅人から旅人に伝わっていった。ポールさんに、ランデブーについて訊ねてみた。 「1965年の終わり頃に訪れていたイスラエルとパレスチナのどちらかで初めて、ランデブーのことを知った。パレスチナのキブツにはいろいろな国から入植してきた人がいて、その人たちの誰かから聞いたのかもしれない」 現在のようにインターネットがあるわけでもなく、雑誌や新聞などからの情報も限られていたわけだから、人づてに旅人から旅人へとランデブーのことが知れ渡っていった。誰が主宰して、どんな集まりなのか、詳しいことはわからなかった。最初に言い出した者が誰かいるはずなのだが、そんなことよりも“集まろう”という意志が一人歩きし、それを疑う者もいなかった。 「ウッドストックのような音楽イベントのようなものが行われるのかと思っていたけど、そうではなかった」 バイク乗りのジャックだけではなく、アメリカ人のジョージやミシェル、クレルモンフェランから来たクロードたち、オーストラリアから戻ってきたジャンシャールなども、続々とカトマンズに集まって来た。 <みんな元気で再会できたのがうれしい。こいつらとしばらく一緒に過ごすことにしよう。どうやら、ランデブーの中心会場となるのは“globe”というレストランらしい> 29年後に、息子のマーク・パンサーが小室哲哉たちと一世を風靡することになる音楽ユニットの名前が「globe」というのも、まったくの偶然だ。 再会祝いということで、ポールさんはミシェルと市場に出掛け、2、3kgはある大きな魚を買った。ジョージが泊まっているホテルの部屋に集まって、みんなでその魚を焼いて食べた。 <メチャメチャうまい。食べて、飲んで、吸って、最高だ。こんな素晴らしいことはない。途中からホテルのオーナーも参加して、焼くのを手伝ってくれたりした。でも、下の階で誰かが叫び出した。「火事になるぞ!」という叫びだった。床に穴が開いて、そこから火が燃え移ったらしい。幸いに、火は消し止めたけれども、オーナーは「お前たちは、Very bad peopleだ!」と怒り始めた。でも、自分も楽しんでいたじゃないか!> PROFILE 金子浩久 モータリングライター 本文中のユーラシア横断は『ユーラシア横断1万5000km』として、もうひとつのライフワークであるクルマのオーナールポルタージュ『10年10万kmストーリー』シリーズとして出版されている。
文・金子浩久 取材協力・大野貴幸
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