2019年11月13日水曜日

外国籍2万人超が「就学不明」の衝撃…日本で議論されない解決策とは

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191105-00067918-gendaibiz-soci&p=2
11/5(火)、ヤフーニュースより
不就学児問題の悲惨な状況
 先月のことになるが、日本で暮らす外国籍の子どもの不就学問題が大きな話題となった。小中学校相当の年齢の子どもの2万1千人超が不就学状態の可能性があるうえ、市町村によって対応がまちまちであるという悲惨な状況が浮き彫りとなった。

日本の学校から「いじめ」が絶対なくならないシンプルな理由

 報道や論調を見ていると、その多くがこの問題の解決の重要性を認識していて大変心強いし、今年の国連総会での演説で安倍首相が女子教育の重要性を訴えたばかりなのに、その足元で不就学問題が重大であってはお話にならない。

 国際教育協力には主に人権と経済的なアプローチの二つが存在するが、まず前者から見ても、確かに外国人は日本の憲法が定める教育の義務の対象外ではあっても、日本も批准している子どもの権利条約から考えれば、国籍が理由で子どもが教育を受ける権利が自国内で侵害されている状況を放置しているのは許されるものではないだろう。

 また、経済的アプローチから考えれば、教育が人的資本投資の一部であることから分かるように、不十分な教育しか受けていない構成員が社会に存在すれば、生産性・医療システム・治安といった様々な側面から社会全体でそのコストを将来背負うことになるのは容易に予想がつき、それよりはしっかりと教育を施したほうが得策である。

 多くの論調は、この点までは正しい議論を繰り広げているが、提案する解決策はおよそ十分なものとは言えない。主に提案されているのは、多言語への対応や日本語教育の充実など、言語政策の観点からのみである。

 もちろん、この点は必須であることは間違いない。教育系の国際機関であるユネスコが推奨するように、少なくとも小学校教育は母語で受けられるような環境整備は重要である。英語以外の言語で日本の高等教育を受けられる機会が極めて限られており、日本という社会の一員となることを考えれば、日本語教育の充実も欠かせない。

 だが、本当にそれだけで十分だろうか? 確かに社会の豊かさという大きな違いはあるものの、その点をのぞけば、この問題の構図は途上国における不就学の問題と構図はそこまで変わらないように見受けられる。

 しかし、途上国の中の主流言語を解さないマイノリティが、母語教育・主流言語教育の充実によって全員が就学するようになったわけでもないし、ましてやマジョリティと同じ教育水準になったわけでもない。

 なぜなら、マイノリティが直面する課題は言語だけではなく、それらを乗り越えないことには、社会のマジョリティと同じだけの教育水準を受けるに至らないからだ。

 もちろん、マイノリティの不就学を引き起こすすべての課題に取り組むためのすべての教育政策オプションを提示すると、一冊の教科書が書けてしまうため、今回は現在の日本の議論で見落とされている言語教育以外の主流な3つの教育政策オプション(低学力・健康・インセンティブ)に絞りつつ、それらを簡潔に紹介する。

 政策オプションの紹介に入る前に、この議論のメリットを一点提示しておきたい。それは、今回提示する教育政策オプションは、外国籍の子どもの不就学問題以外の教育問題にも有効だという点である。

 以前の記事(東京医大「女子差別」の衝撃~国際比較でわかる日本のジェンダー問題)でも言及したが、日本の女性の男性比の相対的な教育水準は先進国でも最低であり、先進国にしては大学院への進学率が全体的に低いため国民の教育水準が低い、という二つの大きな教育課題を日本は抱えている。今回行う議論は、これらの教育問題に対しても有力な解決策の一つとなり得るはずだ。
そもそも途上国の話が参考になるのか?
 私がユニセフや世界銀行の職員としてアフリカや南アジアの教育問題に従事してきたと言うと、貧しい子どもたちのために学校を建てて教科書を配って……といった仕事をしてきたと想像する読者が大半ではないだろうか。

 しかし、私は国連職員としても、自分がネパールに持つNGOでも、一度もそんな仕事はしたことがない。

 2000年には1億人を超える小学校に通えない子どもたちがいたが、小学校年齢の人口が爆発的に増加しているにもかかわらず、現在ではこの人数は6000万人以下へと減少させることに成功している。そして、この内の3分の1以上は紛争の影響を受けている子どもたちである(参照:UNICEF - Education Uprooted)。また、別の3分の1は障害児だと言われている(参照:UNESCO Institute for Statistics - Education and Disability)。

 グローバルに重要なトピックではあるが、日本の外国籍の不就学児童を問題を考える上で、日本という平和で豊かな社会のおかげで、これらが大きな影響を与えているとは考えづらいので本稿ではこれに関する議論は割愛する。

 残りの2000万人を考えるために、筆者が深くかかわってきた、ネパール・ジンバブエ・マラウイという、現在進行形の紛争を抱えていない国々の状況を紹介する。これらの国々は低所得国で、まだ一定数の不就学児童を抱えている。

 しかし、家計調査や行政データを分析してみると、90%以上の子どもが小学校に入学しているのである。

 ここが重要なポイントで、不就学と言ったときに、そもそも学校に最初から来ていない集団と、学校には来たものの十分とは言えない段階でドロップアウトしてしまう集団の二つは異なる特徴を持つ。そのため、まず日本の外国籍の不就学児童の問題の解決策を考えるときにもどちらであるかを明らかにしなければならない。

 ただし、これらの国々から読み取れるのは、紛争・障害をのぞけば、冒頭で言及した学校やそれに付随するものがなくて、貧しい子どもたちが学校に行けない、というのはもはや代表的な姿ではないことは理解できるであろう。

 絶対的な貧しさ以外の要因により不就学が発生していて、筆者はそれに取り組んできたと言えば、筆者の経験が全く日本と関係がないわけではなさそうだ、ということが理解してもらえるだろうか。
低学力問題
 前述のように、母語教育と日本語教育の拡充は、外国籍の子どもの不就学問題に取り組むために必要条件ではあるものの、十分とまではいかない。

 筆者が従事してきた国々の子どもの一定割合(少なくとも10%以上)は、低学年で留年を繰り返し、小学校を辞めていく。授業が全然理解できないのに通学を続けるのがいかに苦行であるかは、程度の差こそあれつまらない授業が苦痛であった経験はきっと誰にでもあり、想像に難くないはずだ。

 保護者や行政からの就学への強制力が働かない途上国の環境では、低学力は容易に退学へ結びつく。しかし、このような強制力が働いていないのは日本の不就学ないしは不就学リスクの高い外国籍の子どもにも当てはまるはずだ。

 つまり、母語教育+日本語教育だけでなんとか授業に付いて行けるという段階へ持っていくだけでは不十分で、母語教育+日本語教育+学力支援により授業をしっかり理解できるところまで引き上げないと、これらの子どもたちは容易に不就学へと転落してしまうであろう。

 日本は学力支援という点については、学校教育段階に入ってからは学校・民間の双方から様々なアプローチが為されているので、外国籍の子どもへの学力支援が必要だという認識が共有されればその後については恐らく大丈夫であろう。

 しかし、一点補足しておきたいのは学校教育へ入る以前の段階、すなわち外国籍の子どもへの幼児教育である。

 日本でも、ノーベル経済学賞受賞者のヘックマン教授の研究から、幼児教育が重要であるという認識が広まっている。

 しかし、日本で広まる認識には致命的な間違いがある。この研究が対象としていたのは、何も介入が行われなければ、対象者の3分の2は刑務所行きという絶望的な社会経済状況にある私の大学のすぐ近くの米国ミシガン州内の黒人の子どもたちであったという認識が欠けている点だ。

 つまり、正しくは、困難な状況に置かれた子どもたちに対する良質な幼児教育は物凄く大きな効果を持つという認識がなされるべきであるし、ヘックマン教授の論文やHPを見ればそのように議論が展開されていることは容易に読み取れる(日本語での解説はこちらを参照)。

 もし、外国籍の家庭が、日本の一般的な家庭環境よりも厳しく、言語的な問題から子どものケアに関する情報へのアクセスが限られているのであれば(恐らくそうであろう)、これらの子どもへの良質な幼児教育の提供という政策介入は、ヘックマン教授が述べるように最優先オプションとなるはずだ。
健康問題
 人的資本は知識やスキルといった教育的な側面だけでなく、健康からも構成されるという難しい話をせずとも、日本では「元気があれば何でもできる」という有名なフレーズがあるように、健康であることの重要性は広く認識されている。

 しかし、こと教育政策となると、健康であることの重要性が無視されてしまうように見受けられる。

 追試が実施されやや議論が紛糾しつつあるものの、途上国の不就学問題を最も高い費用対効果で解決したと考えられているのが、意外なことに虫下し薬の配布である(余談になるが、これを明らかにした研究は今年ノーベル賞を受賞した教授陣によってケニアで為されたものである)。

 不健康な状態では仕事でベストパフォーマンスが出せないように、不健康な状態ではとても勉学に打ち込むことなどできない。子どもが不健康な状態にあるのであれば、健康にしてあげること、実はこれが最も有効な教育政策の一つなのだ。

 もう少し健康の定義を広げてみよう。

 中国の農村部の貧しい地域で、とある教育的な取り組みが、少人数学級の導入や、保護者への支援よりも、はるかに高い費用対効果で子どもの学力問題を解決したことを、ケニアの先の事例と同様にランダム化を用いて明らかにした研究がある。

 その取り組みとは何か? 答えは、無償でのメガネの配布である。

 言われてみれば、黒板もよく見えていない、教科書もよく読めない状況で勉学に打ち込むことができるはずがない。

 そして、厳しい環境にある子どもが、保護者に黒板がよく見えていないことを打ち明けること、そして対処策としてメガネを購入してもらうこと、どちらもハードルが高いであろうことは想像に難くないはずだ。

 健康的な環境にまで話を広げると、近年、さらに様々な研究成果が発表されている。

 睡眠の質については、広大なインドが一つのタイムゾーンしか持たないために、夜が短い地域の貧困層の子どもは教育に負の影響を受けているという研究が為されつつあるが、米国でも学校の始業時間を遅くして子どもの睡眠時間や睡眠の質を向上させると学力への良いインパクトがあることが研究により明らかにされている。また、大気汚染や猛暑といった不健康な環境が子どもの学力を引き下げることも分かってきている。

 大人の労働問題であれば、不健康であったり不健康な環境下だったりではベストなパフォーマンスなど出せるはずがないことは常識中の常識であるが、なぜかこれが子どもになると根性論がはびこりがちである。大人が根性で乗り越えられないことを子どもが乗り越えられるであろうか? 
 現在世界的に貧困層の子どもの肥満が問題となっているように(参照:The Economist)、厳しい環境にある子どもの多くは、食事を満足に取れていないか、取れていてもジャンクフードで栄養が不十分なために不健康であるという傾向がある。

 恐らく富裕層の子どもと比べれば生活習慣がムチャクチャで睡眠がおかしなことになっていることも予想されるし、富裕層であれば対処可能な環境的な問題(エアコンや空気清浄機やメガネなど)に晒されている。

 現在、日本で不就学の外国籍の子どもたちが、日本の一般的な家庭の子どもと同程度には健康的で規則正しい、健康的な環境で生活しているとは考えづらい。そうであれば、まず子どもたちを健康的にしてあげること、これが意外と教育問題を解決したりするのである。
インセンティブ問題
 学ぶことが楽しいから勉強する、このような内発的動機によって学習が進むことは理想である。

 理想ではあるが、資格試験のためにしか勉強することがない大人で溢れかえっている日本で、このような理想が子どもに押し付けられていたとすると滑稽である。

 現実に戻ろう。教育問題を解決する上で、子どもたちに学ぶインセンティブを用意することは重要である。

 しかし、インセンティブと言われてまず思い浮かぶかもしれない「ご褒美や褒める」云々という話はベストセラーになった本で議論されているし、私の趣味ではないので踏み込まない。

 途上国の教育問題に取り組むうえで、虫下し薬の配布より少し劣る程度の高い効率・効果を持つ教育政策が存在する。

 それは、教育の効果、具体的には教育の投資効果を親や子どもに教えることである(これも同様に、今年ノーベル経済学賞を受賞した教授陣が設立した機関によってドミニカなどで明らかにされたものである。この記事を読み終わった頃には、今年の経済学賞がいかに妥当なものであるか、きっと納得するはずだ)。

 嘘のように思われるかもしれないが、教育を受ける効果を知るだけで、教育問題は解消へ向かうのである。昔から途上国の教育では、同じ学校を卒業して成功した人によるモチベーショントークが効果的であると言われてきたが、それそのものである。そして、これと同様の研究結果はカナダなどの先進国でも確認されている。

 しかし、厳しい環境にある子どもの周りの状況を理解すれば、これは当然の結果だと感じるはずだ。まず、そのような子どもたちは、ある程度の教育水準を持つ大人が身近にいないはずだ。

 そのような状況で、一体どうすれば教育を受けることがもたらしてくれる恩恵を知ることなどできるであろうか? 
 周りの子どもたちも同様の環境で、勉強なんかしても意味がないというピアプレッシャーが作り上げられる中で、どうやって一人だけ勉強に集中できるであろうか? 
 ましてや、貧困の真っただ中にあるために、労働を諦めて将来の利益を取る選択を取りづらいし、教育を受けることに伴う不確実性に耐えがたいのに、どうして教育を受ける恩恵も正確に知らずに勉強を継続させることができるというのであろうか。

 外国籍の不就学の子どもたちが置かれている環境を考えれば、途上国や他の先進国同様に、保護者や子ども本人に学ぶことの恩恵をデータを持って教えてあげることは、学びの強いインセンティブとなってくれるはずだ。

 この点、日本にも米国にも、教育の収益率に全く触れず教育など意味がないと大声で叫んでしまう大人がいるのは大変残念である。

 また、貧困層と将来の利益・不確実性の話に関連すると、通学などを条件に現金を渡して教育へのインセンティブを与えるのも手である。

 国際協力の分野では、この条件付き現金給付の効果は最も厳密な評価を繰り返されてきたプログラムと言っても過言ではないが、おおむね教育に対して良い結果を与えている。

 また、日本的な感覚すると受け入れがたいのかもしれないが、本当に厳しい環境にある家庭に対しては、通学などの条件など付けずに無条件に現金を渡してしまった方が、むしろ子供の教育に対して良い結果が現れることすらあるという研究結果もある。

 「現金は王様」は意外にも教育分野にもある程度あてはまるのである。
定石通りの政策をとればいいだけ
 やれ不就学だ、やれ外国籍の子どもだと、普段の生活ではあまり直面することがない問題に遭遇すると、何か特殊な対策をとらなければならないかのような錯覚に陥りやすい。

 しかし、不就学や外国人ないしはマイノリティが日常生活の中に存在している筆者にすれば、定石通りの教育政策をとれば良い事例にしか見えない。

 外国籍の子どもも、そうでない子どもも、子どもは子どもである。大きく違う方がむしろおかしい。

 以前に米国の大学生に関する記事を執筆したときも、データを提示したにもかかわらず、いや米国の大学生は違うと受け入れられない反応を見かけたが、むしろ20歳前後の若者の一定割合が、青春したい・どんちゃん騒ぎをしたい・パートナーを見つけたいといった感情を抱かずに、わき目もふらず勉学に打ち込んでいる社会があれば、その方が筆者としては驚きである。

 もし留学・駐在に赴いて何か彼我に大きな差を感じたのであれば、国籍の前に、日本で付き合いを持っていたコミュニティと留学・駐在先で付き合いを持っているコミュニティの社会経済的なステイタスの違いを疑ったほうがよほど建設的である。

 残念ながらこのようなバイアスは筆者の元同僚に当たる人たちによっても強化されてしまい、問題がややこしくなっている。

 元・現国連職員の中には多国籍な環境の中での意思決定云々などと仰々しく語る者もいるが、似たような社会階層出身で似たような大学院教育まで受けてきた者同士であり、基本的には似ている。

 確かに私も元同僚や今の学友と中日ドラゴンズや名古屋グランパスの話題で盛り上がることはできないし、忌避すべきことも違ったりする。

 しかし、前者については巨人ファンやFC東京ファンとも分かり合えないし、後者についても大半の日本人だって炊きたての白米を床に叩きつけて土足で踏みつけられたらキレる(この喩えは、Twitterで見かけたものだ)のと同じようなものである。

 そういった些細な違いに目をつむれば、そんなに大きな違いはない。国連職員のような国籍が違う同質的な集団よりも、むしろ同じ国籍でも教育水準や出身階層、保有する富が全然異なる集団と円滑に何かを進めていくことが難しいのは、現在の分断化された米国を見るとよく理解できることである。

 裏を返せば、たとえ外国籍であっても、平均的な日本の子どもと同程度の教育や、そこから同程度の富を得られる社会システムさえ整備できれば、全く異なる集団が社会の中に存在していて不快だ、というほどの事態には至らないのではないだろうかと思っている。もちろん、この点についてエビデンスを持って発言しているわけではないので、私の単なる妄想であるが――。

 ただし、もちろん国籍が違うと、言語を中心に大きな違いも存在するため、そのような点には言語教育などの特別な対策をとっていく必要があることは揺るぎない事実だ。

 しかし、それだけである。それ以外は世界中の厳しい環境にある子どもたちと、現在日本で不就学にある2万1千人の外国籍の子どもたちが、そう大きく異なってくるとは考えづらい。

 そうであれば、やはり言語教育政策だけでは不十分になってしまう一方で、そこから先の対処策については、今回紹介したような対策を取れば良い話である。

 それがダメなら、より複雑ないしはコストがかかる学校環境政策・教員政策・コミュニティ対策政策・教育行政政策へと手を伸ばしていけば良いはずだ。

 もしこのような定石を顧みず、素人が集まって議論を繰り返し何か特別なことをしようとするのであれば、奇跡的にうまく行って車輪の再発明、高い確率で明々後日の方向への場外ホームラン的な教育政策がとられることであろう。
畠山 勝太

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