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「向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女」新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由とは から続く 【写真】この記事の写真を見る(4枚) さまざまな国から集まった人が暮らしている新大久保。文化・生活習慣が異なる人たちが一つの街で暮らしているだけに、何らかの近隣トラブルが起こることは想像に難くない。しかし、新宿区では居住外国人が増加しているにもかかわらず、トラブルを経験した日本人の割合は逆に減っているのだという。 戦後から日本人と外国人の衝突が繰り返された新大久保で、なぜ現在はトラブルが減少しているのだろうか。ここでは、ライターの室橋裕和氏が実際に新大久保で暮らしながら、外国人たちの生活に迫ったノンフィクション『 ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く 』(辰巳出版)を引用。新大久保が抱える外国人との軋轢の歴史を振り返りながら、現在の街の様子、そして生活者の声を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む) ◇◇◇
20年間、外国人との軋轢を積み重ねてきた
外国人の住居トラブルは、ごみ、騒音、多人数同居の3つが多いようだが、それは「あえていえば」という話で、ふだん暮らしているぶんにはそこまで困るものではない。粗大ごみは問題だけど、別にそこらじゅうで目につくわけでもないし、住宅地全体がアジアの街角のようにわいわい賑やかなわけでもない。日本人の住民との間で局所的な小さいトラブルはあっても、深刻な対立があるとも聞かない。 新宿区では2015年に多文化共生実態調査を行っている。これによると、新宿区では外国人が増加しているにもかかわらず、なんらかのトラブルを経験した日本人の割合は逆に減っているのだという。「しんじゅく多文化共生プラザ」所長の鍋島さんは、 「新宿に住む外国人は留学生が中心です。そのため2018年を見ると、4万2000人の在住外国人のうち1万9000人が入れ替わっているんですね。新しく来た人の中には、日本のルールやマナーを知らない人もたくさんいるでしょう。ですが、トラブルがあったと感じる日本人は増えてはいないんです」 鍋島さんは、ごみ出しや騒音でなにかあっても、ひと声かけて話し合ってみるなど、地域で対応するノウハウが積みあがってきたのではないか、と考えている。不動産屋やGTNのような会社が、生活マナーをしっかり教えるようになったことも大きい。 異文化同士が出会ってまず体験する衝突や摩擦、いわば「ファーストコンタクト」を、もう通り過ぎたのがいまの新大久保なのだ。この街は戦後に歌舞伎町で働く外国人が住みはじめたときから、数十年間ずっと対立と交流を繰り返してきた。21世紀に入ってからは爆発的なペースで外国人が増える時代を迎えたが、それからもう20年が経っている。そもそも江戸以来「よそもの」が流入することで歴史を紡いできた土地でもある。その中では数えきれない揉めごとがあったと思うのだ。
トラブルが多発するようになった2000年代
古い住民に話を聞くと、 「80年代くらいかな。韓国とかタイとか、エスニック系の食堂ができはじめたと思うんだけど、夜遅くまでやっててうるさいとか、煙が出るとか、そういう苦情は多かったみたいですね」 と話す。それに当時、街の小路を埋めるようになっていた連れ込み宿は在日韓国・朝鮮人の経営が多かったが、治安や風紀を乱すと問題視されていた。しかし外国人たちには「日本人経営の店やホテルもあるのに、我々ばかりが言われる」という思いを抱えた人もいたようだ。
トラブルが多発してくるのは、2000年代に入ってからだ。ヨンさまとワールドカップ以降、コリアンタウンとして一気に変化がはじまるが、その急激さゆえに問題が続出する。食べ歩きで出るごみをお客が方々に捨てる、民家の前で飲み食いする、客引きの声や大音量の音楽……大久保通りから一歩内側に入ると、普通の住宅街なのだ。そこにも韓国の店がどんどん増殖し、日本人の観光客が増え、昔から住んできた地域住民が困り果て、摩擦は絶えなかった。
新大久保を出ていく日本人たち
そこで韓国の店主たちが商人連合会を結成し、マナーを守るように呼びかけ、清掃活動を行い、どうにか地域に溶け込もうと努力してきた。それでもすぐ改善されるものではない。そんな街を嫌い、外国人の増加を疎ましく思い、新大久保を出ていく日本人は絶えなかった。 共住懇の人々は、 「お前らみたいな連中がいるから、ガイジンが増えるんだ」 と言われたこともあるそうだ。商店街のほうでは韓国の店が増え続けているからと韓国語の街頭放送を流したこともある。しかし日本人住民からの猛反対があって、すぐに止めたなんてこともあったという。
大久保で増え続ける韓国の店
軋轢がありながらも数を増していく韓国の店。その勢いに押され、また高齢化もあって、日本人はどんどん少なくなっていく。 「ビルの大家には、韓国レストランにはできれば貸したくないって人も多かったんです。ダクトが汚れるとか、ネズミが増えるとか、酔っぱらいの騒音とか。でも日本人の借主はだんだん減っていく。韓国人にも貸さないとやっていけなくなったんです」 と、あるビルオーナーは言う。 それにここは、新宿からひと駅の好立地だ。バブルの頃はもちろん、その後も土地は高く売れた。だから年配になって土地や家を売り、地方に越していく人も増えた。家を解体してアパートにし、自分は離れた場所に住んで大家業だけをやっているという人も多いのは、これまで見てきた通りだ。
「街が韓国人に乗っ取られる」
大久保通りを飾ってきた商店街の店主たちも、やはり高齢化と後継者不足から、店を畳む人が出てくる。その土地にビルを建て、テナントを貸す立場に転身する。そこに韓国人の店が入っていく……。 そんな動きが急速に広がったのだ。日本人の住民や商店主の間では、いろいろな意見が飛び交った。 「観光客がたくさん来て、地価も上がるし賑わうし、いいじゃないか」という声。「街が韓国人に乗っ取られる」という不安。マスコミが元気なコリアンタウンと取り上げる陰で、地域の日本人は彼らとどう向き合えばいいのか、ずっと悩み続けていたのだ。2009年には、共住懇が「おおくぼ学校」と題して、街の変化を語り合うイベントを開いたが、そこではある日本人商店主が、 「年配のお客さんの顔つきが険しくなってきている。(中略)韓流を求めてやってきた人たちは楽しそうですが、街に住んでいる人の顔は明るくないのです」 と語っている。そんな葛藤を抱えながらも、やはり同じ街に住んでいるのだからと、日本人も韓国人も少しずつ近づき、顔を合わせ、話し合いを重ねてきた。 そして街の無秩序さにある程度の交通整理ができてきた2013年、竹島問題をきっかけにヘイトスピーチが巻き起こる。新大久保にも反韓デモが押し寄せ、観光客は減少。東日本大震災で韓国系の店が減っていたこともあり、韓流は一時的に勢いを失う。こうしたいざこざはもう勘弁と、街を出ていく日本人はまた増えた。
最小限に抑えられるようになったトラブル
こんなどたばたが20年も続いてきたのだ。その過程で、商店街では韓国人との融和を少しずつ進めて、日本の商習慣になじんでもらうよう取り組んだ。住宅地ではごみ出しや生活音のマナーをどうわかってもらうか、不動産屋や大家が説明をし、また先輩の韓国人がアドバイスをし、苦情やトラブルもだんだん減ってきた。 そうやって衝突を重ねながら、共存の基盤がつくられてきたのだ。この土台の上に、ベトナム人やネパール人やバングラデシュ人や、そのほかいろいろな国から来た外国人が乗っかり、いま新大久保は日本でも例を見ないインターナショナルタウンとなっている。この街でさまざまな異文化交流の輪が広がってきたのは、先人たちの苦労があるからだ。いまだって細かなトラブルはどうしてもあるけれど、それでも最小限に抑えられているようにも感じる。これも街の人々が20年かけて外国人とのつきあい方を身につけてきたからなのかもしれない。
その月日の中で、街に育ってきた感情がある。 それは暮らしていて、歩いていて、どうしても感じてしまうものだ。 僕の自宅の近所にも、古びて色あせた注意書きや看板がある。「ここはごみ捨て場ではない」「捨てるな!」いつも歩いて見ている限りでは、ごみの投棄が目立つ場所ではないから、たぶん昔のものだと思う。まだ外国人へのマナーの周知ができておらず、ごみが大きな問題だった時代の名残りなのだろう。
街から漂う諦観のようなもの
でもそれが、撤去もされず放置されていて、路地に殺伐さを与えている。そこにはなにか、諦観のようなものが漂っている。外国人の増加に直面し、ごみが増え、きっと困り果てて看板をつくったのだろう。それでその場所のごみマナーが良くなったのか変わらなかったのかはわからないが、看板を立てた本人はもう外国人に関心を失ってしまったのではないか。なにをしたって外国人は増えるばかりだ。わかりあえるものではない。ルールを守るよう注意をすることにも疲れた。なら、もう関わるのはよそう。多文化共生なんて勝手にやってくれ……そんな「あきらめ」もまた感じる街なのだ。年月がしみ込んだような看板は、その象徴のようにも映る。 異国の住民が増えることを、よく思わない人もいる。トラブルがあればなおさらだ。いろいろな考えがあって当然だろう。あきらめて引っ越していった人もいれば、あきらめながら住み続けている人もいる。彼らも含めて「街」なのだ。彼らにも「悪くはないね」と思ってもらえる街になってほしいと思うのだ。
室橋 裕和
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