Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/3a039a5882b319e980e233335486eb010935b3fe
富山県に外国人として初めて農家を継いだネパール人男性がいる。仏画師のダルマ・ラマさんは、ネパールで富山出身の日本人女性と出会い、子育てのために来日した。しかし、巡り巡って、「小松菜の匠」と呼ばれる人の弟子になり、農家を継ぐことになった。その激動の半生を、フリーライターの川内イオさんが取材した――。 【画像】ダルマさんが描いた仏画。 ※本稿は、川口イオ『農業フロンティア 越境するネクストファーマーズ』(文春新書)の一部を再編集したものです。 ■故郷と日本を「えごま」でつなぐ 富山県射水市の「葉っぴーFarm」。小松菜の加工場がある大きな家屋の2階はギャラリースペースになっていて、壁には色鮮やかな仏画がいくつも飾られている。それはとても繊細かつ優美な絵で、思わず見入ってしまう。 この仏画を描いたのは、ネパール人のダルマ・ラマ。株式会社「葉っぴーFarm」の2代目だ。 現在、日本では3万人を超える外国人が農業に従事している(2018年時点/厚生労働省「『外国人雇用状況』の届出状況まとめ」参照)。そのなかでも、ダルマは極めて異色の存在だろう。 もともとはネパールで仏画師をしていたが、日本人女性と結婚して来日。たまたま知り合った「葉っぴーFarm」の前代表のもとで手伝いを始めたところ、働きぶりが評価されて2017年に事業を継承。小松菜の加工場を作るなどして販路を大きく広げるだけでなく、故郷のネパールにも法人を作り、無農薬栽培したえごまを日本に輸出している。 やり手の経営者であるダルマは、パートで働きに来ている近隣の女性たちや母国から研修に来ている若者たちと一緒に朝8時からビニールハウスで農作業もする。「すごく忙しそうですね?」と尋ねると、彼はにっこりほほ笑んだ。 「すっごく忙しい! 朝でも夜でもいつでも仕事のことしかない。それでも体が疲れてないってことは、やりたいことをやっているからでしょう。私はお父さんから、みんなのために生きなさい、みんなのためになることをやるのが本当の人間だよと言われて育ちました。日本で学んだことをネパールで活かす、ネパールで学んだことを日本で活かす。それが自分らしく生きるということだと思うんです」
■「みんなのために生きなさい」 ダルマは1985年、首都カトマンズの北東に位置するヒマラヤ山脈の玄関口、シンドゥパルチョーク郡で生まれた。ふたりの兄、ふたりの姉、4人の弟を持つ9人兄弟のちょうどまんなかだ。 ダルマの家は地域で名を知られた大きなお寺で、祖父も、父親も僧侶で仏画師。ネパールのお寺では仏教にまつわる彫刻や絵を描く技術が代々継承されているそうで、ダルマも筆を握っている父の背中を見て育った。 歴史あるお寺の息子として育ったダルマは、物心ついた時から父親に「みんなのために生きなさい」と言い聞かされてきた。その影響もあって、高校生の頃から社会に貢献することを強く意識し、寄付を募って仲間たちと学校の黒板やトイレを作ったりしていた。 息子の様子を見て、ダルマの両親はなにか可能性を感じていたのもかもしれない。故郷の村では高校を卒業している人すら珍しい時代に、「大学に行って勉強しなさい」とダルマに言い聞かせた。 ダルマは親の言いつけを守って、当時ネパールに一校しかなかった国立大学、トリブバン大学を受験し、見事、経済学部に合格。高校卒業後、生まれて初めて故郷を離れ、首都カトマンズ近郊にある大学に通い始めた。 大学に入ってからも「社会に貢献したい」という想いは変わらず、NPOを作って、代表に就任。資金を集めて荒れていた山道を整備したり、使い古されたつり橋を架け直したりと忙しく駆け回った。 ■大学卒業後、仏画師の道へ 当時のトリブバン大学は2年制で、学外の活動に励んでいるうちに、あっという間に卒業を迎えた。ダルマは故郷に戻り、仏画師として働き始めた。そこには、ネパールならではの理由がある。 「当時のネパールでは、人の下で働いているとバカにされるんです。私のお兄さんは学校の先生をしていたけど、『え、あの人、ひとの子どものお世話してる! 』と笑われていました。もし私が企業に就職したら、『あの人、就職してる! 』って下に見られるんです」 ただし、あらゆる仕事が嘲笑の対象になるわけではない。例えば仏画師は伝統的な仕事であり、しかもダルマ家で代々受け継がれてきたものなので、むしろ尊敬される。だから、兄ふたりも仏画師になり(ひとりは教師から転職)、ダルマも同じ道を選んだわけだ。 仏画は非常に細かな線で、仏教的なストーリーが一枚の絵に色鮮やかに描かれている。その絵を一目見れば、誰にでもできる仕事ではないとわかる。ダルマは中学生の時に色を塗るところから手伝うようになり、大学生の頃には立派な仏画をひとりで描けるようになっていた。
ネパールには仏画師がたくさんいて、実力も価格もピンキリ。ダルマのようにお寺で生まれ、一枚、一枚の仏画が持つ意味を語ることができる者もいれば、仏教的な背景をよく知らず、外国人のお土産用に描いている者もいる。 ダルマは絵を描く技術も高かったので、大型の仏画は日本円にしておよそ3万円で販売していた。それは当時のネパールの物価に置き換えると、30万円を超える価値だった。同じ頃、教師の月給は日本円で約6000円だったそうで、仏画のなかでもかなりの高級品だとわかるだろう。 「1日に3、4時間描いて、あとは自由にしてた」という生活で、仏画もよく売れていたから、ダルマは仏画師の仕事に満足していた。 ■ほとんど日本語を話せないまま来日して就職 仏画を求める人のためにいつもオープンにしているアトリエに、日本人の女性が訪ねてきたのは1999年のことだった。観光客として仏画を買い求めに来たその女性は翌年も、その翌年も訪ねてきて、次第に親しくなった。 2004年、出会ってから5年目にふたりは結婚。すぐに子どもを授かった。 初めての出産をするには、ネパールの医療に不安がある。ふたりは話し合い、子どもが5歳頃までは日本で育て、その後はネパールで暮らそうと決め、2005年7月、ダルマは妻が暮らす富山にやってきた。 ふたりが最初に暮らした富山市のアパートで、ダルマはすぐに手持ち無沙汰になった。ネパールでは毎日アトリエに大勢の人が訪ねてきたし、いろいろな用事で1日に50回は携帯電話が鳴った。それが訪問者ゼロ、電話をかけてくる人もゼロになって、「すっごく寂しかった」。 来日する3カ月前から現地で日本語を習ったものの、日本に来たらほとんど理解できなかった。そこでまずは、富山市の国際交流センターで開かれている日本語教室に通い始めた。その教室は週に一度、2時間しかなく、それだけではまったく時間が埋まらないので、日本に来てから1カ月後には、「なんでもいいから仕事がしたい!」とハローワークに向かった。 カタコトの日本語しか話せなかったダルマだが、面接してくれる職場を紹介してもらうことができた。そこは木材を扱う会社で大きな丸太を加工していた。まったく気乗りしなかったが、妻から「これも勉強」と言われて渋々と面接に臨むと、後日、その会社から採用通知が届いた。 それからは「やるからには失敗したくない。真剣にやろう」という気持ちで、慣れない現場仕事に臨んだ。 誰かの下で働くとバカにされる文化のネパールから来たダルマさんだが、会社員生活は思いのほか楽しかったと振り返る。 「忘年会とか新年会で、みんなからお酒を飲まされてね。最初は苦い、苦いと言ってたけど、2年くらい経ったらそれがおいしく感じられて(笑)。刺身も、健康のために食べるって感じだったのが、おいしくなりました。職場では、私より長く勤めている人もいたけど、途中でリーダーになって。どうやって会社をやっているかというノウハウも学ぶことができたと思います」
1週間後に再訪すると、ダルマのタイムカードが用意されていた。あれ? と思いながら、打刻した。「お手伝い」に来たと思ったら、働いた分のお金を払ってくれると聞いて、ダルマは喜んだ。その日は男性の研修生もいたのだが、もうすぐ研修が終わると言う。それを聞いて、疑問がわいてきた。 「あれ? 男がほかに誰もいないぞ。おばあちゃんたちはいるけど、おばあちゃんだけじゃ仕事にならないよな。私がいない時はどうする?」 その日、荒木さんから基本的な作業を教わったダルマさんは、「男手がなくて大丈夫なのか」と心配になり、帰宅する頃には「できるだけ手伝おう」と心に決めた。 ■富山を代表する小松菜生産者、荒木さんの歩み それから、時間を見つけては荒木さんから小松菜栽培の手ほどきを受けるようになった。偶然にも、そこはゼロから農業を学ぶ上で最適な環境だった。 大学の農学部で学んだ荒木さんは、温室ブドウの栽培を経て、回転が早く売れる見込みがある葉物野菜として小松菜に目を付けた。 全国の小松菜の出荷量は約10万トン(2019年)。荒木さんが調べた当時、産地としては茨木、埼玉、福岡、東京、群馬の上位5県が出荷量の5割超を占めており、富山県では小松菜の生産者が少なかった。そこで「富山県で一番になりたい」と小松菜のビニール栽培に乗り出す。 それからは、試行錯誤の日々。「野菜は土からできる」と毎年のように土壌の改良を進め、有機肥料を取り入れた。防虫対策を徹底して国の基準の3分の1にまで農薬を低減し、出荷する際には残留農薬ゼロにすることにこだわった。出荷量は月々異なるものの、年間を通した出荷も実現した。 甘みが強く、葉が肉厚で食感がしっかりとしていて、ナマでも食べられる荒木さんの小松菜は次第に注目を集めるようになり、某有名ホテルなど独自の取引先も拡がっていった。 質の高い小松菜を育て、直販まで手掛ける荒木さんは、農業についてほぼなにも知らなかったダルマにとってこれ以上ない教師役になった。 ■小松菜の匠が見初めた才能 それまでも若者の研修を積極的に受け入れてきた荒木さんは、ダルマに指導を始めてすぐに気がついた。この男には、才能がある。 「菜葉の収穫はすごくきめ細かい作業なんです。丁寧に扱わないと、菜葉が傷む。その場ではわからないんだけど、出荷して2、3日後に店頭に並んだら、ギュッと握ったところが傷んで黒ずむんです。それを避けるためには、菜葉をかわいがるというか、優しく、丁寧に扱いながら、なおかつ速く採る必要があります。男はこの作業が苦手で、女性のほうが向いていると思っていたんだけど、ダルマさんは日本の男性とは比べ物にならないくらいきれいな仕事をするんです」
葉っぴーFarmの小松菜栽培はルーティン作業ではなく、常に改善を意識して考えることが求められるが、思考力や柔軟性も期待以上。荒木さんは「さすが、ネパールで唯一の国立大学(当時)を出ただけあるな」と舌を巻いた。 荒木さんは、農業を始めた時から「サラリーマンと同じくらいの収入を得て、サラリーマン並みの生活をすること」を目標にしていた。だから、毎日の労働時間もできる限り8時間程度に抑え、しっかり貯金もして、60歳で引退をしたら自由な余生を過ごそうと考えていた。 しかし、後継者がいなければそれも叶わない。それで、これまで何人か、見込みがありそうな研修生に「継いでみないか?」と声をかけてきたのだが、「地元に帰りたい」「長男だから家を継ぐ」といった理由で断られていた。これからどうしたらいいのかと頭を悩ませていた時に現れたのが、ダルマだった。 ダルマの仕事ぶりを見て「この男は!」というこれまでにない手ごたえを得た荒木さんは、ある日、葉っぴーFarmを継ぐ気があるか、ダルマに尋ねた。その時、ダルマは「自分には難しい」と逡巡した。それは、やりたくないという意味ではなかった。 「農業についてなにも知らない自分が、荒木さんから継いで農業経営しますって、それはちょっと違うんじゃないって思ったんですよね」 ■2回目の誘いに「やるしかないと思いましたね」 戸惑うダルマを見て、今この話を続けるのはプレッシャーになるだろうと判断した荒木さんは、しばらくの間、アルバイトとして畑に来てもらい、ひと通りの作業を教えながら、ダルマの気持ちの変化を見守ることを決めた。それから数カ月後、ダルマの人柄や姿勢、そして才能に惹かれた荒木さんは改めて意志を確認した。 一方、荒木さんを通じて農業のイロハを学んだダルマは、独特の視点で農業に可能性を感じていた。ネパールでは家族だけでなく、常に大勢の友人、知人と密な関係を築いていたダルマは、日本に来た時、知り合いがひとりもいなくて孤独を感じた。 ネパールにいた時と同じように社会貢献がしたいのに、ひとりではなにもできない。家で子どもとふたりきりで過ごすうちに、日本でたくさんの人たちと関係を築けば、友だちになれば、この子の将来のためにもなると考えた。 「どうやったら町の人たちと交流ができるんだろう? 友だちになれるんだろう?」
ここで農業が浮上する。葉っぴーFarmの小松菜は地元にもファンが多く、「おいしい」と声をかけてもらうことも少なくない。ダルマの子どもが通う小学校の給食にも使われていて、こだわりの安心安全、おいしい野菜を子どもたちに食べてもらうことも、嬉しいことだった。さらに、近隣の住民と協力してやる用水路の草むしりや掃除など一般的には面倒な作業も、ダルマにとっては交流が深まる楽しい時間だった。 「農業を通して、いろいろな人と交流できる機会を与えてくれるのが、私にとって一番楽しいことですね。荒木さんからいろいろなことを教えてもらって、これならできるなという自信が出てきたので、2回目に誘われた時は、やりますよ、と言いました。やるしかないと思いましたね」 ■1500万円を投じて加工場を新設 当時、富山県では親族以外の第三者として外国人が農地を受け継ぐのは初めてのことだった。そのため、手続きに手間取ったところもあったが、ダルマは2015年から2年間、荒木さんのもとで研修生として本格的に農業を学び、2017年に会社と8人の従業員を引き継いだ。 ダルマは荒木さんのサポートを得ながら、事業を進化させてきた。2020年には、射水市に本社を置き、北陸を地盤とするスーパー、アルビスと直接取引をスタート。小松菜の収穫量が少なくなる冬にもスタッフの仕事を作るために、ネギの栽培も始めた。こちらも好評で、5反(約5000平方メートル)で始めたところ、2021年には1町(約1万平方メートル)に拡大する。 こういった取り組みのなかでも大きな変化のひとつは、小松菜の加工場で加工品の製造を始めたことだろう。葉っぴーFarmでは、一般的な小松菜の生産者よりもロスが多く出る。それは荒木さんの時代から変わらず農薬を農水省基準の3分の1まで減らしているからだ。 「自分が食べておいしい、安全だよと言えるものだけを売るのが生産者の役割だと思うんです。もちろん数字も見なきゃいけないけど、安心安全が一番だということ」 ロスを少しでも減らすため、2020年6月、各種補助金と自己資金を合わせて1500万円弱を投じて加工場を作った。 「安くて良いものを消費者に届けようと思ったら、自分で生産、加工、販売した方がコストが安いんですよね。作品を一枚描き始めたらスタートからエンドまで自分の手で完成させたいという私の性格ですから、食べ物の栽培から消費までのルートを完成させたいと思っています」
できあがったのは、冷凍小松菜と小松菜ペースト、パウダー。冷凍小松菜は都内を中心としたネパール料理店に卸すようになり、ペーストとパウダーは、前述のスーパー、アルビスや旅館、カフェなどで販売されているほか、業務用としてパン屋や菓子店にも卸している。ダルマが営業に駆け回ることなく、商品を取り扱いたいと先方から連絡が来ることのほうが多いという。荒木さんの時代から直販の実績と経験があったこと、小松菜自体の評価が高かったことが追い風になったのだ。 ■ネパールに「日本の仕事の文化」を伝える新事業 ダルマが代表に就いてから、もうひとつ新たな事業が始まった。それがネパールでのえごまの生産と日本への輸出だ。きっかけは、2015年4月に起きたネパール大地震の際、ダルマが中心となって募金活動を行ったこと。ダルマは責任者として、ネパールにさまざまな支援物資を届けた。その時、多くの人に感謝されながら違和感を抱いた。 「支援物資を届けて『はい、どうぞ』というのは、違うと思いました。私が日本で学んだことは、そうじゃないんですね。日本ではみんな一生懸命仕事をしてるから、成長した。でもネパールでは、いまだに仕事をしないで昼間からブラブラしているのが普通なんです。だから、まじめに仕事をする日本の文化をネパールに伝えたいなって。そうしないとネパールは地震を乗り越えるのが難しいし、発展できないから」 働くことが当たり前ではないネパールで、どうやって労働の意味を伝えるか。ダルマは考えて、考えて、閃いた。 江戸時代より「薬の町」と呼ばれてきた富山市では、健康的なまちづくりを進めるなかで、栄養価が豊富で「畑の魚」と呼ばれるえごまに注目。2014年から地元企業などとえごまの栽培を始め、えごまの植物工場を新設したり、県の主導で露地栽培を拡げながら、商品開発や販路拡大に動いてきた。しかし、これをビジネスとして軌道に乗せるためには一定の量を確保する必要があり、富山産のえごまだけでは足りなかった。 そこで富山市は原産地であるネパールでえごまを作り、それを輸入しようとしたことがあるのだが、うまくいかなかった。知人からそれを聞いたダルマは、立ち上がった。 「私がやりましょう。責任持ちますよ」 こうして2018年、ネパールに葉っぴーFarmの現地法人を設立し、ダルマの故郷、シンドゥパルチョーク郡とその隣に位置するカブレパランチョーク郡でえごまの事業を始めることになった。現地ではネパール人の社員6名のもと、100ヘクタールの土地でおよそ200人の生産者がえごまを作って、日本に輸出している。ちなみに、日本の生産者の耕地面積の平均は約3ヘクタールだから、ネパールの規模の大きさがわかるだろう。
■日本で社会起業家になったネパール人 この事業は2年目にして日本向けの輸出量が25トンに達したが、ダルマは満足していない。 「例えばネパールではオーガニック栽培の蕎麦が年に2回収穫できますし、コーヒーや紅茶も名産地です。ヒマラヤ山脈に生えている薬草も、今はほとんどが中国や韓国、インドに輸出されて、そこから日本に入ってきてるんですよ。直接取引すれば新鮮なものを安く買えますよね。こういう仕事を通して、ネパールの人たちにいいもの作れば売れる、売れたらお金がもらえる、もらったお金で良いものを買ったり、子どもが学校に行けたり、いい循環が生まれるという日本の仕事の文化を伝えたいですね」 2017年に事業を継承してから4年で、ダルマは売り上げを荒木さんの時代から2倍超の約4000万円に伸ばした。日本に来てから17年。右も左もわからなかった日本で農業に出会うことで、子どもの頃からずっと意識している「社会貢献」も実現するようになった。ダルマは日本で生産者、経営者、そして社会起業家になったのだ。 「私は、日本に来て勉強できて本当に良かったなと思います。仕事の重みというか、仕事の意味が、日本に来てやっとわかりました。荒木さんの後を継いでからは、みんなとワイワイ楽しくできればいいなと思ってやってきて、おかげさまで売り上げは伸びています。今はやりたいことを目一杯やれて、忙しいけど楽しいです」 ダルマは今、ネパールに帰国すると数百人の前で講演し、大臣や国会議員などの要人たちとも会合を重ね、日本の農業の生産技術や流通網などのシステムを取り入れて、ネパールの農業を発展させようと働きかけている。 その胸の内にはあるのは、父親の言葉「みんなのために生きなさい」。 ---------- 川内 イオ(かわうち・いお) フリーライター 1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。 ----------
フリーライター 川内 イオ
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