Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/b5f8f5553c0fd844a5086a034de5ac6ced6a1913
「スパイスからカレーを作る男性はどうして面倒くさいんですかね?」 という質問を受けたことがあります。 【写真】この記事の写真を見る(6枚) 「スパイスからカレーを作る男性は面倒くさいんでしょうか?」という質問じゃないってとこがポイントです。「面倒くささ」は既定の事実として前提なんです。 この「面倒くささ」とはいったい何なんでしょうか。カレーに限らず、音楽でも映画でもアニメでもなんでも、趣味として没頭しているマニアは常にある種の面倒くささを纏う、というのは確かにあるような気がしますが、スパイスカレーを作る男性に特有の面倒くささというものはいったいどういうものなのでしょうか。
「スパイスカレー」、2つの定義
さて今更ですが先ず、スパイスカレーとは何か、という事に少し触れておきたいと思います。 そもそもカレーとは全て何らかのスパイスを使う前提の料理なので「スパイスカレー」という呼び方自体が無意味なものである、という批判も根強く、確かにそれはそれで正論だとは思います。しかしこれについては、「スパイスカレー=(単体の)スパイス(を中心にして作られる)カレー」という解釈は既に一般的なものになっていると考えて良いのではないでしょうか。 むしろややこしいのは「スパイスカレー」には、広義と狭義、2つの定義があるという点ではないかと思います。広義の定義の方は、上記の通り「単体のスパイスを中心として作られるカレー」という事になり、そうなると当然そこにはインドカレーやネパールカレー、パキスタンカレーなども入ってきます。そして狭義の定義はそういった特定地域の伝統的な料理をそこから除いたもの、という事です。 この2つの定義はどう使い分けるべきか、いやそもそも恣意的に使い分けていいのか、という問題はたいへんややこしいとは思うのですが、ここではあえてその「広義の定義」の方で話を進めています。この事に抵抗のある方も少なからずいるとは思いますが、いったんここは大目に見て下さい。 ……と、ここまで書いてふと思ったのですが、このエクスキューズは明らかにカレーマニアに向けたものであり、こういう説明を挟まないと話が先に進められないというのは、やはりカレー男は面倒くさい……のか?!
「これは偽物だ」という『美味しんぼ』の呪いは過ぎ去った
食の世界で面倒くさい人物像として、真っ先に漫画「美味しんぼ」の山岡士郎や海原雄山を思い浮かべる人も多いのではないかと思います。 人が普段おいしく食べてるものに指を突きつけて「これは偽物だ。食べられたもんじゃない」と言い放ち、「来週またここに来て下さい。俺が本物を食べさせてあげましょう」とぐいぐい話を進めます。これはめんどくさい! 確かにものすごくめんどくさい! こういう美味しんぼ的世界観、言い換えれば呪い、すなわち「世の中の食べ物には本物と偽物が存在し、全人類は常にその本物の『究極』を目指すべきである」という価値観は少しずつ過去の物になりつつあります。山岡士郎や海原雄山的言動はもはやネタとして扱われるのが今の時代。 そしてその今、盛り上がってきた「スパイスカレーブーム」においては「美味しんぼの呪い」はあらかた払拭されていると感じます。少なくともスパイスカレー屋さんのレビューで「これだったら私の作るカレーの方がよっぽどうまい」と言ってる人はほとんど見たことがありません。なんだ、スパイスカレー自作男ぜんぜん面倒くさくないじゃん! 少なくともこの点においては。 スパイスカレー自作男が安易に他者を否定することのない大きな理由は、今のスパイスカレーブームが常に「多様化」の中で育ってきたからなのではないかと僕は思います。
2000年代後半「本場の味をそのまま」第1次スパイスカレーブーム始まる
ブーム以前、日本のカレーは濃度のあるルーを使用した欧風カレーや「お家のカレー」が中心でした。インドカレーを中心にする各国のスパイス料理は、ごく一部の好事家が楽しんでいるあくまで特殊なジャンル。それを提供するお店もその多くは、本場そのままというより、いかに日本人に抵抗なく受け入れられるようアレンジするかに腐心する、そんな時代でした。 潮目が少し変わってきたのは2000年代後半でしょうか。この時代、あくまで都市部が中心ではありますが、本場そのままのカレーを提供するお店が徐々に増えていきました。 同時にそのファンもそれに比例して増え、また雑誌などのメディアにもそんな店が取り上げられるようになっていきます。その流れを牽引したのがいわゆる南インドカレーで、その後、スリランカカレーやパキスタンカレーなどがそれに続いていきました。 この時代にスパイスカレーの魅力に目覚めたのが言うなれば第一世代。世界にはそれまで自分が知っていたカレーとは全く別の様々なカレーが存在する、という事を知る驚きと喜びが彼らを熱狂させたのです。つまり、カレーというものは驚くほど多様性のある料理だったのだ、という認識がそもそものスタートになっているという事です。
2010年代「日本ならではのスパイスカレー」の誕生
さらに2010年代以降、そこから派生するまた少し別の流れが生まれます。南インドカレーやスリランカカレーをベースにした日本ならではの「スパイスカレー」の誕生です。 つまり先程少し触れた「狭義のスパイスカレー」がまさにこれ。言うなれば第二世代です。第一世代のムーブメントがあくまで東京中心の文化だったのに対し、この第二世代は最初に大阪が中心となり、その後全国に波及していくことになります。 第一世代のスパイスカレーがインドを中心とする様々な地域のカレーを「現地そのままに」再現する事に重点を置いた、言うなれば「原理主義」的なムーブメントだったのに対し、第二世代は「作り手の自由な発想」に重きが置かれました。 そしてそれは良くも悪くも、現地そのままでなくてはならない、というこだわりから解き放たれたものであったが故にマニア以外の一般的日本人にとっても極めてとっつきやすい物となり、スパイスカレーブームは更に加速し、そして今に至ります。 第二世代の登場で「カレーの多様性」は更に増したという事が言えますが、一方で、原理主義的な第一世代にとってそれは、せっかく日本で成熟しつつあった本格的な各国スパイス料理文化が「勝手なアレンジ」によってローカライズされ矮小化しつつある、という危惧にもなっており、そこにはある種の対立軸も生まれているようにも感じます。 ただそれはマニアの世界によくありがちな些細な内輪揉めであり、そこで起こる批判や論争は、結局このスパイスカレーのムーブメントを更に盛り上げる燃料として機能しているのではないかと個人的には解釈しています。
スパイスカレー作りになぜハマってしまうのか
僕自身が(広義の)スパイスカレーを作り始めた時の事を思い出します。 スパイスからカレーを作るなんて魔法みたいだ、と当時の僕は考えていました。変な匂いのする様々な粉や実や種や皮や葉っぱを組み合わせると、うまくやればおいしいカレーができる。それはまさに、魔女が大鍋をグラグラ煮立てて作る秘薬の世界。そんな神秘的な世界にすっかり魅了された訳です。 しかし、いろんな地域のカレーのレシピを掘り起こし、それを片っ端から再現している内に、それらは一定の法則性や理論に基づいているという事が徐々にわかってきました。すなわち、魔法が科学に転換されていったわけです。そうなると今度はその科学的推論に基づき、ある程度自分が作りたいイメージのカレーを作ることもできるようになってきました。もう夢中になるしかありません。
ある程度法則化できた、と思ってもさらにその先があります。それまで自分が見落としていた地域のカレーに触れると、それまでの理論では解釈不能な「魔法」に再びぶち当たるのです。そしてその魔法をまた理論体系に取り込み……ひたすらその繰り返し。 さらに恐ろしい事には、そうやって理論立ててカレーを作っていても、時にそのカレーは予想もしていないおいしさに着地する事があります。何故そうなったかがわからない、それは一周回って魔法のようです。こうなったら「沼」です。一度ハマったら抜け出せない底なしのカレー沼。
カレー作りは「人類数百年の営みを追体験しているようなもの」
スパイスからカレーを作る、という事を始めると、誰もが多かれ少なかれこういう体験をする事になります。それは言うなれば、ルネッサンス期から地理的発見を経て近代科学に至り、そしてその科学の限界をも目にするにまで至った人類数百年の営みを追体験しているようなものです。 そしてその追体験のために必要なスパイスやカレーに関する情報は、本やネットを通じて、一昔前よりはるかに容易にアクセスできるようになっています。これがブームというものの凄さ、そして豊かさと言えるでしょう。 科学と民俗学と魔法を行ったり来たりしながらスパイスカレーを作りはじめた民から見たカレーは、そうなる前とは同じカレーでも全く見え方が変わってきます。正直、(スパイスカレーなんて作らない)普通の人にとって、彼らのカレー語りは何言ってるかさっぱりわからないことでしょう。 もしこの事が「面倒くさい」と評されるのであれば、スパイスカレーの民はそのまま堂々と面倒くさくあれ、と僕は思います。
稲田 俊輔
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