Source:リアルサウンド 11月10日(火)、ヤフーニュースより
天を刺す険峻な峰が連なるヒマラヤ山脈に、ひときわ高くそびえ立つ、約8,850mの世界最高峰・エベレスト。本作『エベレスト 3D』(原題:“Everest“)は、上映形式が強調された邦題の響きから、この山の美しいネイチャー映像を楽しむ作品だという印象を持ってしまうが、実際は、1996年に起こった遭難事故を基にした、陰惨な実話の映画化作品だった。地球上で最も標高が高い場所であるエベレスト山頂への、登山チームの過酷な登頂と遭難を、ここでは、意外なほど現実的なタッチで克明に、そして深刻に描いていて驚かされる。見ているこちらも、登山者たちと同じように息苦しくなってくるほどだ。
もちろん本作では、エベレストならではの絶景の美しさが際立っているのは確かだし、特撮やCG技術などの駆使によって、通常ではあり得ない角度からの、今までになかった映像表現がスペクタルとして描写されてはいるものの、作品全体では、実際の登山者が直面するだろう体験や意外な事実などを、けして派手な演出を使わず、ドキュメンタリー風に地道に描いていくのだ。登頂の苦難や遭難の恐怖を描いた映画は少なくないが、本作のストイックさは、ハリウッドの商業作品としてはさすがに地味だとも感じさせる。だが、この演出だからこそ表現できる世界がある。今回は、このリアリズムの裏に隠された本作の意図や背景について探っていきたい。
・エベレストから失われゆくロマン
本作を見ていて驚かされるのは、エベレスト登山は、その準備の段階から過酷だということだ。まず、登山資金の用意である。自分の渡航費、滞在費、移動や装備以外にも、入山料、医療サポート、ロープ設置など登山ルートの使用料、ヒマラヤの現地人シェルパによる登山のガイド料や保険料、必要があれば英語圏のガイドに対する費用など、様々に高額な諸経費がかかるという事実が明らかにされていく。チームの人員にもよるが、山への入山料だけでも、ネパール側から入る場合、日本円にして、だいたい120万円から300万円以上をネパール政府に支払うことになる。
本作の基となったケースのように、「公募隊」に参加し、参加者同士で費用を出し合いながら出費を抑えることも可能だが、それでも一人に対する全体の費用は700万円近くもかかっている。本作に登場する、郵便配達員で建設作業員としても働くアメリカ人、ダグは、自分の娘の通う学校の友達がみんなで集めてくれた寄付を利用し参加している。氷河の割れ目「クレバス」に落下しそうになった、テキサス州からの参加者ベックは、「おいっ、こんなに大金を払わせて、死ぬところだったぞ!!」と、登山ガイドを怒鳴りつける。ちなみに、エベレストに面したネパールやチベット政府が、「聖なる山」だと崇めながらも、高額な入山料を徴収するのは、主に外貨獲得や営利活動のためであろう。
富士山とほぼ同じ標高の村を通り、さらに1,600mも高いところにある、標高約5,365mのベース・キャンプに到着した、いくつかの公募隊、世界的な登山家ロブ・ホールがガイドとして率いる「アドベンチャー・コンサルタンツ隊」や、アメリカ人として初めてK2登頂に成功したスコット・フィッシャーがガイドとして率いる「マウンテン・マッドネス隊」のメンバーらは、人間の生存できる限界の環境に体を慣らすため、そこで一ヶ月間の訓練を行うことを義務付けられる。空気の薄い世界で運動し生活をすることで、低酸素状態に順応するのである。
ベース・キャンプへの途中、通り過ぎた村で、彼ら参加メンバーたちの一部は、階段を上るだけで四苦八苦し、現地の子供たちが後ろから追い抜いていくシーンがあって笑わされる。もちろん、現地の環境に慣れるまでに時間がかかるだろうことは理解できるが、登山に詳しくない者にとって、ここで違和感を与えられるのは、エベレストに挑む、彼ら登山隊の参加者たちは、超人的な体力を有しているのではないのか?という点である。映画が進んでいくにつれて分かってくるのは、参加メンバーのなかには、そこまで登山経験が豊かではない者も複数混じっていたのである。
じつは、1953年に、エドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイが登頂に初成功して以来、現在までにエベレスト登頂者の数は、4000人以上にまで膨れ上がっているという事実があり、事故があった1996年においても、その年100人ほどが登頂に成功しているのである。つまり、登頂の方法が確立され効率化が進んだエベレスト制覇は、以前ほどには特別な偉業ではなくなっており、観光としての意味が加わってきているのだ。さらに、登頂までにいくつか越えなければならない難所では、複数のチームがかち合うと渋滞が発生する。登山シーズン、そして活動時間が限られたエベレストにおいては、しばしばこのような登山隊の渋滞が起きるという。
・登山者の世界へ観客を引きずり込むリアリズム
このような、登山のロマンを薄れさせるような現実を、本作ではそのまましっかりと描写している。登山の悲劇をいたずらにドラマティックに盛り上げるような選択をしていないのだ。それは、彼らの内面の描写においても同様である。同じ遭難事故について扱った、過去のアメリカ映画『エベレスト 死の彷徨』では、遭難者の危機や心理描写、葛藤などを、エンターテインメントとして成立させるために、できるだけ大げさに演出していた。むしろ、映画としてはその方が自然だ。本作『エベレスト 3D』では、ハイライトである登頂成功シーンにおいても、ファンファーレや、それほど大げさな音楽が鳴るわけでもなく、きわめてニュートラルな態度が貫かれている。登頂者も、「ぬあぁ…!」とか「ふぅーい…!」などと弱った声を出して喜びを表し、「実際そんな感じなんだろうなあ…」と思わされてしまう。
このような意識的なドラマ性の欠如、ロマンや高揚を追求しない態度は、観客にとって、作品の描写が誠実でフェアであると感じさせ、より一層の、映像世界への没入を促す。そしてこれは、登頂後に訪れる「地獄の世界」を、観客に「体感」させる下地づくりにもなっているだろう。本作を手がけたのは、アイスランドを代表する映像作家のひとり、バルタザール・コルマウクル監督である。ハリウッド進出作において、『ハード・ラッシュ』、『2ガンズ』など、エンターテインメント作品での手腕を見せることに成功する一方、本作のような実際の事故を再現する『ザ・ディープ』では、アイスランドの極寒の海に投げ出された男の極限状況を描いている。この作品も、ほぼ同じ手法でリアリズムを追求し成功させている。さすがアイスランドの作家だけあって、こちらもとにかく体の芯まで冷え切ってしまう映画だ。
・丹念に描かれる遭難事故の背景
本作の登山者たちは 、奇妙な氷柱が散見されるベース・キャンプから、複数のクレバスが口を開ける氷河「アイスフォール」、「ウェスタン・クウム」と呼ばれる、氷河の谷間を抜けていく斜面を登り、山頂へと向かっていく。その途中には、いくつものキャンプがあり、彼らはそこで一時の休息をとり、さらなる高度に体を慣らしながら、何日もかけて進んでいく。そして「サウスコル」と呼ばれる最終キャンプから、登頂への最後のアタックに臨むことになる。そこからは、「デス・ゾーン」と呼ばれる、人が生存することができない地帯に足を踏み入れなければならない。「バルコニー」と呼ばれる見晴台に到着することができれば、あとはエベレスト初の登頂成功者から名づけられた最後の難所「ヒラリー・ステップ」を越えるだけだ。
足場が極端に狭い岩場であるヒラリー・ステップでは、登山者同士が追い越したり、すれ違ったりすることができず、渋滞が発生することになる。ロープ設営の不備も重なり、その日は予定が大幅に遅れてしまったため、頂上を目の前にして引き返す登山者らも現れる。デス・ゾーンに長く留まること、そしてそこで夜を迎えることは、あまりにリスキーなのだ。とりわけ、娘の学校の友達の協力で登山の資金を集めたダグは、今回で二回目の挑戦であり、是が非でも登頂する理由があった。ガイドのロブは、大幅に遅れている彼の登頂を許せば、大きなリスクを抱えることを承知で、つい登らせてしまう。その後すぐに発生した嵐によって、登山隊らは未曾有の窮地に直面することになる。圧倒的なリアリティと映像、豪華な役者陣の演技で見せきる地獄の世界は、ぜひ映画館で、息苦しさを味わいながら「体感」してほしい。
・「なぜ山に登るのか?」
本作の重要なテーマは、「なぜ山に登るのか?」という問いかけである。ジョシュ・ブローリンが演じるベックは、彼にとっての一つの答えを語る。「家にいると黒い雲が来る。だが、山に行けば俺は生まれ変われる」…人間は、社会性の中で日々生活している。しかし山には、社会から切り離された孤独な世界がある。そこには社会的なルールも、正義も悪も無い。ただ命を与え命を奪う、自然の物理的な現象と、自分の肉体があるだけだ。だからこそ、そこでだけ自分の命を本当に実感することができる。
登山のための資金など社会的な理由によって、本作の登山隊は、それぞれに登らざるを得ない事情があり、そのことが彼らを窮地に追いやったといえるだろう。この事故は、自分自身の肉体と山との関係とは無縁の、人間社会の理屈を優先した結果かもしれないと、本作は語っているように思える。しかし、陰惨で息苦しい、凍りつくような山の描写の中にも、あたたかなシーンが救いとして描かれていることも確かだ。人間が山に登るのは生を実感するためだが、山を降りる理由は社会性にこそあるという、もうひとつの真理を、ひとつの救いとして提示しているのである。
もちろん本作では、エベレストならではの絶景の美しさが際立っているのは確かだし、特撮やCG技術などの駆使によって、通常ではあり得ない角度からの、今までになかった映像表現がスペクタルとして描写されてはいるものの、作品全体では、実際の登山者が直面するだろう体験や意外な事実などを、けして派手な演出を使わず、ドキュメンタリー風に地道に描いていくのだ。登頂の苦難や遭難の恐怖を描いた映画は少なくないが、本作のストイックさは、ハリウッドの商業作品としてはさすがに地味だとも感じさせる。だが、この演出だからこそ表現できる世界がある。今回は、このリアリズムの裏に隠された本作の意図や背景について探っていきたい。
・エベレストから失われゆくロマン
本作を見ていて驚かされるのは、エベレスト登山は、その準備の段階から過酷だということだ。まず、登山資金の用意である。自分の渡航費、滞在費、移動や装備以外にも、入山料、医療サポート、ロープ設置など登山ルートの使用料、ヒマラヤの現地人シェルパによる登山のガイド料や保険料、必要があれば英語圏のガイドに対する費用など、様々に高額な諸経費がかかるという事実が明らかにされていく。チームの人員にもよるが、山への入山料だけでも、ネパール側から入る場合、日本円にして、だいたい120万円から300万円以上をネパール政府に支払うことになる。
本作の基となったケースのように、「公募隊」に参加し、参加者同士で費用を出し合いながら出費を抑えることも可能だが、それでも一人に対する全体の費用は700万円近くもかかっている。本作に登場する、郵便配達員で建設作業員としても働くアメリカ人、ダグは、自分の娘の通う学校の友達がみんなで集めてくれた寄付を利用し参加している。氷河の割れ目「クレバス」に落下しそうになった、テキサス州からの参加者ベックは、「おいっ、こんなに大金を払わせて、死ぬところだったぞ!!」と、登山ガイドを怒鳴りつける。ちなみに、エベレストに面したネパールやチベット政府が、「聖なる山」だと崇めながらも、高額な入山料を徴収するのは、主に外貨獲得や営利活動のためであろう。
富士山とほぼ同じ標高の村を通り、さらに1,600mも高いところにある、標高約5,365mのベース・キャンプに到着した、いくつかの公募隊、世界的な登山家ロブ・ホールがガイドとして率いる「アドベンチャー・コンサルタンツ隊」や、アメリカ人として初めてK2登頂に成功したスコット・フィッシャーがガイドとして率いる「マウンテン・マッドネス隊」のメンバーらは、人間の生存できる限界の環境に体を慣らすため、そこで一ヶ月間の訓練を行うことを義務付けられる。空気の薄い世界で運動し生活をすることで、低酸素状態に順応するのである。
ベース・キャンプへの途中、通り過ぎた村で、彼ら参加メンバーたちの一部は、階段を上るだけで四苦八苦し、現地の子供たちが後ろから追い抜いていくシーンがあって笑わされる。もちろん、現地の環境に慣れるまでに時間がかかるだろうことは理解できるが、登山に詳しくない者にとって、ここで違和感を与えられるのは、エベレストに挑む、彼ら登山隊の参加者たちは、超人的な体力を有しているのではないのか?という点である。映画が進んでいくにつれて分かってくるのは、参加メンバーのなかには、そこまで登山経験が豊かではない者も複数混じっていたのである。
じつは、1953年に、エドモンド・ヒラリーと、シェルパのテンジン・ノルゲイが登頂に初成功して以来、現在までにエベレスト登頂者の数は、4000人以上にまで膨れ上がっているという事実があり、事故があった1996年においても、その年100人ほどが登頂に成功しているのである。つまり、登頂の方法が確立され効率化が進んだエベレスト制覇は、以前ほどには特別な偉業ではなくなっており、観光としての意味が加わってきているのだ。さらに、登頂までにいくつか越えなければならない難所では、複数のチームがかち合うと渋滞が発生する。登山シーズン、そして活動時間が限られたエベレストにおいては、しばしばこのような登山隊の渋滞が起きるという。
・登山者の世界へ観客を引きずり込むリアリズム
このような、登山のロマンを薄れさせるような現実を、本作ではそのまましっかりと描写している。登山の悲劇をいたずらにドラマティックに盛り上げるような選択をしていないのだ。それは、彼らの内面の描写においても同様である。同じ遭難事故について扱った、過去のアメリカ映画『エベレスト 死の彷徨』では、遭難者の危機や心理描写、葛藤などを、エンターテインメントとして成立させるために、できるだけ大げさに演出していた。むしろ、映画としてはその方が自然だ。本作『エベレスト 3D』では、ハイライトである登頂成功シーンにおいても、ファンファーレや、それほど大げさな音楽が鳴るわけでもなく、きわめてニュートラルな態度が貫かれている。登頂者も、「ぬあぁ…!」とか「ふぅーい…!」などと弱った声を出して喜びを表し、「実際そんな感じなんだろうなあ…」と思わされてしまう。
このような意識的なドラマ性の欠如、ロマンや高揚を追求しない態度は、観客にとって、作品の描写が誠実でフェアであると感じさせ、より一層の、映像世界への没入を促す。そしてこれは、登頂後に訪れる「地獄の世界」を、観客に「体感」させる下地づくりにもなっているだろう。本作を手がけたのは、アイスランドを代表する映像作家のひとり、バルタザール・コルマウクル監督である。ハリウッド進出作において、『ハード・ラッシュ』、『2ガンズ』など、エンターテインメント作品での手腕を見せることに成功する一方、本作のような実際の事故を再現する『ザ・ディープ』では、アイスランドの極寒の海に投げ出された男の極限状況を描いている。この作品も、ほぼ同じ手法でリアリズムを追求し成功させている。さすがアイスランドの作家だけあって、こちらもとにかく体の芯まで冷え切ってしまう映画だ。
・丹念に描かれる遭難事故の背景
本作の登山者たちは 、奇妙な氷柱が散見されるベース・キャンプから、複数のクレバスが口を開ける氷河「アイスフォール」、「ウェスタン・クウム」と呼ばれる、氷河の谷間を抜けていく斜面を登り、山頂へと向かっていく。その途中には、いくつものキャンプがあり、彼らはそこで一時の休息をとり、さらなる高度に体を慣らしながら、何日もかけて進んでいく。そして「サウスコル」と呼ばれる最終キャンプから、登頂への最後のアタックに臨むことになる。そこからは、「デス・ゾーン」と呼ばれる、人が生存することができない地帯に足を踏み入れなければならない。「バルコニー」と呼ばれる見晴台に到着することができれば、あとはエベレスト初の登頂成功者から名づけられた最後の難所「ヒラリー・ステップ」を越えるだけだ。
足場が極端に狭い岩場であるヒラリー・ステップでは、登山者同士が追い越したり、すれ違ったりすることができず、渋滞が発生することになる。ロープ設営の不備も重なり、その日は予定が大幅に遅れてしまったため、頂上を目の前にして引き返す登山者らも現れる。デス・ゾーンに長く留まること、そしてそこで夜を迎えることは、あまりにリスキーなのだ。とりわけ、娘の学校の友達の協力で登山の資金を集めたダグは、今回で二回目の挑戦であり、是が非でも登頂する理由があった。ガイドのロブは、大幅に遅れている彼の登頂を許せば、大きなリスクを抱えることを承知で、つい登らせてしまう。その後すぐに発生した嵐によって、登山隊らは未曾有の窮地に直面することになる。圧倒的なリアリティと映像、豪華な役者陣の演技で見せきる地獄の世界は、ぜひ映画館で、息苦しさを味わいながら「体感」してほしい。
・「なぜ山に登るのか?」
本作の重要なテーマは、「なぜ山に登るのか?」という問いかけである。ジョシュ・ブローリンが演じるベックは、彼にとっての一つの答えを語る。「家にいると黒い雲が来る。だが、山に行けば俺は生まれ変われる」…人間は、社会性の中で日々生活している。しかし山には、社会から切り離された孤独な世界がある。そこには社会的なルールも、正義も悪も無い。ただ命を与え命を奪う、自然の物理的な現象と、自分の肉体があるだけだ。だからこそ、そこでだけ自分の命を本当に実感することができる。
登山のための資金など社会的な理由によって、本作の登山隊は、それぞれに登らざるを得ない事情があり、そのことが彼らを窮地に追いやったといえるだろう。この事故は、自分自身の肉体と山との関係とは無縁の、人間社会の理屈を優先した結果かもしれないと、本作は語っているように思える。しかし、陰惨で息苦しい、凍りつくような山の描写の中にも、あたたかなシーンが救いとして描かれていることも確かだ。人間が山に登るのは生を実感するためだが、山を降りる理由は社会性にこそあるという、もうひとつの真理を、ひとつの救いとして提示しているのである。
小野寺系(k.onodera)
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