Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190831-00000008-webtoo-l02
8/31(土)、ヤフーニュースより
明治時代に鎖国状態のチベットへ日本人として初めて潜入した僧侶河口慧海(えかい)。ネパールからヒマラヤ山脈を越えたという潜入ルートは謎に包まれてきた。長年、謎の解明に取り組んできた青森県弘前市の登山家・作家根深誠さん(72)は7~8月、自ら隊長を務めた越境経路踏査隊の現地調査で越境ルートを突き止めた。さらに現地隊員が、慧海が西チベット最高位の僧侶と面会した「白巌窟(はくがんくつ)」に到達した。
根深さんは今回、中心地ラサから西チベットのパヤンに入り白巌窟とみられるリッサン山に向かう計画だった。慧海が白巌窟と名付けた灰色の洞窟は位置に異論もあり、リッサン山だという確証を得る狙いがあった。
根深さんはチベット自治区や軍の許可を得ていたものの、地元担当者が国境周辺へ外国人の立ち入りを許さず、結局、チベット人隊員2人だけで出発した。かつて根深さんのガイドを務めた僧侶が同行し、リッサン山の洞窟から慧海が会った高僧ゲロン・リンポチェのものとみられる仏像や仏画、経典などが見つかっていたことが判明、白巌窟と確定された。
今回、最大の成果が慧海の越境ルートの解明。
慧海は仏教の原典を学びたいと単身、チベット潜入を企てた。著作「チベット旅行記」(講談社学術文庫)や2004年公開の日記(同)によると慧海は神戸港からインドに向け旅立ち、1900(明治33)年7月4日、ヒマラヤ山脈のネパール側国境に立った。出発から3年の歳月が流れていたが、密入国のためか慧海は越境の詳しいルートを明らかにしていない。
「ヒマラヤを目指す登山者なら慧海を知らない人はいない。73(昭和48)年に初めてヒマラヤに足を踏み入れて以来、慧海と同じルートをたどりたいという夢を持ち続けてきた」と根深さん。
国境沿いには5千メートルを超える峠が連なる。慧海はどの峠を越えたのか。鍵は峠越えの後、「長方形」と「円(まる)い」湖が並び、さらにひょうたん形の池があると書き残していることだ。
湖や池がある峠はクン・ラ、マンゲン・ラ、マリユン・ラの3カ所。根深さんは当初、越境はマリユン・ラと見ていたが、日記公開後、マンゲン・ラと見直した。越境はクン・ラとするグループもあった。
根深さんは日記を手にチベット側やネパール側から現地調査を重ねた。入手した衛星写真に長方形と円い湖が写っていたことも決め手になり、「越境はマンゲン・ラ」と結論付けた。
ただ主張には弱点もあった。慧海は越境後、北上して聖地カイラス山に向かったが、クン・ラに比べ明らかに遠回りになるからだ。
ところが今回の調査でクン・ラ越えルートは当時、家畜が通れない道と分かった。慧海はヒマラヤの移動に牛の一種ヤクを使っていたことが知られている。
湖や池が並び、ヤクが通れる道はマンゲン・ラだけで、慧海の越境ルートとして確実になった。
根深さんはエベレストやヒマルチュリなど8千メートル級の高峰やヒマラヤの未踏峰の山を目指す一方、越境ルートの解明に取り組んできた。この問題を正面から取り上げた著書「遙かなるチベット 河口慧海の足跡を追って」(1994年、山と溪谷社)はJTB紀行文学大賞を受けている。
根深さんは「潜入ルートの謎が119年ぶりに解明された。越境ルートの確定はライフワークだが、長年、背負い続けてきた荷物をようやく下ろすことができた」と晴れやかな表情で語った。
<河口慧海>
1866~1945年。大阪府出身。チベットに潜入し、古都ラサに到達した。身分が発覚し脱出したものの、13~15年、再入国。海外で出回っていた日本製マッチが縁で帰国後、製造会社に勤めていたむつ市川内町出身の菊池與太郎(よたろう)と知り合った。慧海は、実業家となり郷里に戻った菊池の元を訪れ、湯野川温泉(むつ市川内町)に滞在するなど交流が続いた。
根深さんは今回、中心地ラサから西チベットのパヤンに入り白巌窟とみられるリッサン山に向かう計画だった。慧海が白巌窟と名付けた灰色の洞窟は位置に異論もあり、リッサン山だという確証を得る狙いがあった。
根深さんはチベット自治区や軍の許可を得ていたものの、地元担当者が国境周辺へ外国人の立ち入りを許さず、結局、チベット人隊員2人だけで出発した。かつて根深さんのガイドを務めた僧侶が同行し、リッサン山の洞窟から慧海が会った高僧ゲロン・リンポチェのものとみられる仏像や仏画、経典などが見つかっていたことが判明、白巌窟と確定された。
今回、最大の成果が慧海の越境ルートの解明。
慧海は仏教の原典を学びたいと単身、チベット潜入を企てた。著作「チベット旅行記」(講談社学術文庫)や2004年公開の日記(同)によると慧海は神戸港からインドに向け旅立ち、1900(明治33)年7月4日、ヒマラヤ山脈のネパール側国境に立った。出発から3年の歳月が流れていたが、密入国のためか慧海は越境の詳しいルートを明らかにしていない。
「ヒマラヤを目指す登山者なら慧海を知らない人はいない。73(昭和48)年に初めてヒマラヤに足を踏み入れて以来、慧海と同じルートをたどりたいという夢を持ち続けてきた」と根深さん。
国境沿いには5千メートルを超える峠が連なる。慧海はどの峠を越えたのか。鍵は峠越えの後、「長方形」と「円(まる)い」湖が並び、さらにひょうたん形の池があると書き残していることだ。
湖や池がある峠はクン・ラ、マンゲン・ラ、マリユン・ラの3カ所。根深さんは当初、越境はマリユン・ラと見ていたが、日記公開後、マンゲン・ラと見直した。越境はクン・ラとするグループもあった。
根深さんは日記を手にチベット側やネパール側から現地調査を重ねた。入手した衛星写真に長方形と円い湖が写っていたことも決め手になり、「越境はマンゲン・ラ」と結論付けた。
ただ主張には弱点もあった。慧海は越境後、北上して聖地カイラス山に向かったが、クン・ラに比べ明らかに遠回りになるからだ。
ところが今回の調査でクン・ラ越えルートは当時、家畜が通れない道と分かった。慧海はヒマラヤの移動に牛の一種ヤクを使っていたことが知られている。
湖や池が並び、ヤクが通れる道はマンゲン・ラだけで、慧海の越境ルートとして確実になった。
根深さんはエベレストやヒマルチュリなど8千メートル級の高峰やヒマラヤの未踏峰の山を目指す一方、越境ルートの解明に取り組んできた。この問題を正面から取り上げた著書「遙かなるチベット 河口慧海の足跡を追って」(1994年、山と溪谷社)はJTB紀行文学大賞を受けている。
根深さんは「潜入ルートの謎が119年ぶりに解明された。越境ルートの確定はライフワークだが、長年、背負い続けてきた荷物をようやく下ろすことができた」と晴れやかな表情で語った。
<河口慧海>
1866~1945年。大阪府出身。チベットに潜入し、古都ラサに到達した。身分が発覚し脱出したものの、13~15年、再入国。海外で出回っていた日本製マッチが縁で帰国後、製造会社に勤めていたむつ市川内町出身の菊池與太郎(よたろう)と知り合った。慧海は、実業家となり郷里に戻った菊池の元を訪れ、湯野川温泉(むつ市川内町)に滞在するなど交流が続いた。
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