Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/0bf2ca81742a3903a7c1f2a3e90770dceb54e160
見つけた者と見つけられた者
フィリピンのルバング島で日本人の若い男性がテントを設営し、日章旗を掲げた。するとそこにもう1人の日本人、50代の男性が現れる。戦争はとうに終わっていたが、ボロボロの軍服を着たその男性は若い男性に拳銃をつきつけた。
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1974(昭和49)年2月20日、「最後の日本兵」こと小野田寛郎さんと、当時はバックパッカーだった鈴木紀夫さんはこうして出会った。やがて小野田さんが帰国し、ブラジルに移住しても続いた2人の交流は、1987年10月7日に終わる。この日、ネパールのヒマラヤ山中で紀夫さんの遺体が発見されたのだ。
紀夫さんの実母、知人、小野田さんの兄らが明かした紀夫さんの生涯と素顔を、「週刊新潮」の長寿連載「墓碑銘」で振り返る。
(「週刊新潮」1987年10月22日号掲載「墓碑銘」を再編集および加筆しました。文中の年齢・肩書き等は掲載当時のものです)
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小野田さん“捜索資金”は50万円
「僕が小野田さんを見つけたんじゃない。僕が彼に見つけられたんだ。島民のようにクツ下をはいてなければ撃ち殺されるところだった」
1974(昭和49)年、フィリピン・ルバング島にいた元日本兵、小野田寛郎少尉を発見、救出の立役者となったのは当時24歳の青年、鈴木紀夫さんだった。
鈴木さんは、日本政府の派遣隊が1億円を使って、半年かけても、小野田さんを捜し出せなかったのを、わずか50万円の資金と5日間のテント生活で、やり遂げたのだった。
千葉県市原市の会社員の長男として生まれた紀夫さんは子供の頃から地図を見るのが好きだった。大学は法政の夜間に通い、昼は新橋の花屋でアルバイトという生活を続け、19歳の時、初めて海外放浪の旅に出た。東南アジア、中近東など好んで開発途上国を回り、約4年間に50カ国を踏破した。
日本の恥にだけはなるな
母親のつね子さんがいう。
「私はどこへいっても、日本の恥になったり、日本政府を困らすようなことだけはするなとしつこく手紙を出してました。幸い、麻薬の運び屋などにならずに済んでよかった」
“小野田さん捜し”に彼がチャレンジしたのはフィリピンがたまたまアルバイトでためた50万円で行ける範囲だったからだ。
かくして、1974(昭和49)年2月、ジャングル生活30年の小野田さんを発見するわけだが、紀夫さんの冒険心は以後も、消えるどころか、盛んになるばかり。子供の頃からの夢だった雪男捜しにヒマラヤ行きを始めたのである。
1978(昭和53)年には作家・林房雄氏の養女、京子さんと結婚。1男1女をもうけた。
「“冒険するなら結婚をよせ。結婚するなら冒険をよせ”と紀夫にいつも言っておりましたが、息子によると、ヒマラヤで雪崩にあって胸まで雪につかった時、“京子さんの顔がポッカリ浮かんで、ホレてるな”と気がついたんだそうです。本当に彼女は息子が無収入でもビクともしないシッカリした嫁さんです」(母親のつね子さん)
何度か行かせるのを止めたことも
鈴木夫妻をひき合わせたヨットマンの国重光熙さんの話。
「紀夫君に会う人はだれでも彼のファンになりますよ。そのぐらい相手のフトコロにすぐ飛び込める邪気のない人柄です。だから小野田さんも出てこれたのではないでしょうか。
独身時代の彼は北海道で穴掘りやトラックの運転手をしていましたが、結婚してからは千葉中心の生活で、友人の喫茶店を手伝ったり、道路のカッター屋をやってました。就職を斡旋しても“雪男捜しのため、いずれ辞めていくのだから迷惑がかかる”といってすべて、短期の仕事でした」
紀夫さんの目的は金をためて、雪男捜しのヒマラヤ行きの費用を作ることにあった。雪男は新種のサルというのが持論で、そのために動植物の書物もかなり読んでいたという。
国重さんが、話を続ける。
「“ヒマラヤ行きは、砂漠やジャングルに行くのとわけが違う。山男でもないのに山を甘く見るな”と反対して、何度か行かせるのを止めたこともあります。しかし、下の女の子が幼稚園に行くようになったからいいだろうと、6年ぶりに1986(昭和61)年9月29日、出かけてしまった」
どんな忠告でも破れなかった冒険心
6度目の雪男捜索の旅だった。京子夫人との新婚旅行もヒマラヤだったが、紀夫さんは1986(昭和61)年11月、家族に手紙を出したきり、消息を絶った。彼はその年の12月中旬、ダウラギリ4峰の中腹4000メートル付近で雪崩にあい、遭難死していたのである。
その遺体が、ヒマラヤ行きからちょうど1年後の日に見つかったのだった。
「彼からの最後の手紙は“中型の雪男の足跡を発見した。12年前、5匹の雪男を見つけた場所と同じだ。人間ならこんなにユッタリ歩いていないだろう。さすがだ”と発見の喜びで埋めつくされていました。遺体はその場で埋葬し、遺髪だけを持ち帰りました」(国重さん)
この訃報を知った小野田さんは、たまたまブラジルから帰国中だった。各地を講演中の小野田さんに代わって兄の敏郎さんが語る。
「弟がこちらに帰ってまいりますと、2人は必ず落ち合いまして、私の練馬の家で昔話やヒマラヤの話に花を咲かせていました。紀夫さんは気持ちのいい好青年でしたが、どんな忠告も、彼の冒険心を破ることができなかったんですね」
ブラジルで牧場経営に励む小野田さんは65歳。ヒマラヤに散って本望だったかもしれない鈴木紀夫さんは38歳の若さだった。
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霊を弔わねば気がすまない
小野田さんは鈴木さんに発見された後、1974年3月に帰国。だが、過熱報道や日本社会との迎合に苦労したこともあり、1975(昭和50)年4月、兄が牧場を経営していたブラジルに移住した。現地では小野田さんも牧場を開拓し、約10年をかけて苦労の末に経営を軌道に乗せた。
移住先で日本人会を設立し、初代会長、顧問を歴任した。一方、日本では青少年に野外生活体験を提供・指導する「自然塾」を開き、後に財団化。社会教育功労賞の受賞、大学講師に就任、藍綬褒章を受章など、日本社会への貢献にも心血を注いだ。
鈴木紀夫さんの訃報が届いたのは、牧場経営が一段落して数年後のこと。小野田さんはかねて紀夫さんに牧場を見てほしいと願っていたが、紀夫さんがヒマラヤに熱中したため先延ばしになっていた。そこで小野田さんは「鈴木君の霊を弔わねば気がすまない」とネパール渡航を決意。この慰霊の旅の様子はテレビで放送され、大きな話題となった。
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デイリー新潮編集部
新潮社

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