Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/29cb4a90bafb74727470ae0e8c02cc549eaf3515
■ジープでヒマラヤの悪路を走る
朝6時。バグルンバザールのジープ乗り場に行ってみれば案の定、お客はさっぱり集まっていなかった。 “乗客がたくさん来たら出発する”という、途上国ではよくあるスタイルなのだが、僕以外にバグルンバザールからさらに奥、ガルコットに向かう人はいまのところ誰もいないようだった。 「このぶんだと7時は回るなあ」 と運転手が言うからには、たぶん8時を過ぎるだろう。なので僕はバザールをうろうろと散歩して肉屋や八百屋やサカナ屋が早朝から賑わっている様子を眺め、茶屋でのんびりチヤ(ミルクティー)とロティ(全粒粉のパン)の朝食をとり、街をぐるりとひと回りしてジープ乗り場に戻ってみれば、 「どこ行ってたんだ、さっさと出るぞ!」 と運転手が飛んできた。いつの間にやら人数が揃ったらしい。荷物を屋根の上に積んでいざ出発となったのだが、なぜ移動手段がバスでも乗り合いタクシーでもオートリキシャでもなくジープなのか、すぐに思い知った。 道路はガッタガタのダートなのだった。恐ろしく揺れる。舌を噛みそうだ。あまりに荒れているため、ほとんどスピードを出せない。それに狭く細い山道だ。ほこりで汚れ果てた窓から外を見てみれば、眼下はもう切り立ったガケ。ところどころで土砂崩れの跡を越え、浅い川となっている箇所をざばざばと横断し、少しずつ標高を上げていく。 そしてようやくビューコットの村に着いたときは、乗客一同へとへとになっていた。しかし中部ヒマラヤが間近に見えて、なかなかに気持ちがいい。
■ヒマラヤからインド経由、日本行き
ここで昼食休憩だというのでロティとタルカリ(おかず。ここではジャガイモと人参の炒め煮だった)の簡単な食事を摂って、少しまわりを散歩してみると、雑貨屋の店番らしきふたりの子どもたちが興味深げに僕のことを見つめ、はにかんだ笑顔を向けてくる。そしてなかなかきれいな英語で、 「僕たちのお父さんはいま、日本にいます」 と話しかけてきたのだ。 「トーキョーのカレー屋さんで働いています。叔父さんも、叔父さんの弟も日本です」 聞いていた通りだった。バグルン一帯の山間部から、日本に出稼ぎに行く人がきわめて多いのだ。もともと“グルカ”を輩出する土地柄だったという。精強で鳴らしたネパールの傭兵軍団だ。イギリス軍やイギリス連邦の国々、インドやシンガポールなどでも国防に携わっている。「海外で働く」という素地があった土地なのだ。 そのため隣接するインドで出稼ぎをする人もたくさんいた。ネパール語とインドのヒンドゥー語は近い言語だし、文化も似ている。それに両国の国民はパスポートなしで行き来でき、就労にも特別な許可が要らない。だからインドでおおぜいのネパール人が肉体労働をはじめさまざまな分野で働いているが、とりわけ飲食が多い。インドで日本人バックパッカーが世話になるような食堂でも、ナベを振るってカレーを作っているのはネパール人だったりする。 で、インドで働いているバグルン出身のネパール人コックの中から、日本に行く人が出てきたのは80年代ではないかといわれる。すでに日本でレストランを展開していたインド人に呼ばれたケースが多いようだ。そして彼らが故郷の同胞や親戚を呼び寄せるようになり、その人たちがさらに次の出稼ぎを呼び……と、どんどんバグルン出身のコックと、その家族が日本に増えていった、という流れのようだ。ヒマラヤ山麓のこの辺境に、国境を越えた日本とのつながりがあるのだ。 「君たちも、大人になったら日本に行きたい?」 そう聞くと、ふたりは恥ずかしそうに頷くのだった。
■自家製ヨーグルトをいただきながら考える
ガルコットは町というか、ガタガタの道路に沿って商店や宿や食堂が連なる、街道筋の宿場といった風情だった。山間部だからか、冷たい風が吹き、埃が舞う。 ここからさらに、僻地へと入っていく。ジープを乗り換え、今度はほとんど河原のような、道ともいえない道を登りつめ、山の斜面にささやかに広がる小さな村々へと入っていく。 なんとも美しい風景なのだ。山腹を活用した段々畑では、小麦が穂を揺らしている。ジープを降りて村を歩くと、土壁の小さな家がいくつも立っている。それぞれ石壁を巡らせ、庭で菜の花や唐辛子やバジルやカリフラワーなどを育て、鶏や水牛を飼い、ほとんど自給自足の暮らしを送っているようだった。 そんな村を歩いていると、日本語で声がかかる。 「あらあ、日本人? 懐かしいねえ」 刈り取った稲わらを背負ったおばちゃんだった。どこから見ても地元の農民にしか見えないおばちゃんの口から、日本語が出てくる面白い違和感。吉祥寺で、夫婦でカレー屋をやっていたそうだ。 「うち、そばだから寄ってってよ」 誘われるままについていくと、がっちりした石造り3階建ての、なかなか立派なお宅だった。日本で稼いだお金で建てたそうだ。村を見晴らせる屋上に案内されると、つくりたてだという新鮮な水牛のヨーグルトが出てきた。濃厚で、実においしい。 「日本は楽しかったよ。日本人の友達もたくさんできた。でもね、やっぱりここの暮らしのほうがいいから。いまは弟が出稼ぎに行ってる」 周囲には同じような「カレー御殿」がいくつも建っていた。一方で近くの村では、一家全員が日本に行ってしまったため放棄されている家、廃村となってしまったような場所もある。子どもたちもどんどん親について日本に行ってしまうから、学校も減っているそうだ。 「いろいろ問題があることはわかっています」 やはり子どもたちが日本に行っているという老人が話す。 「ガルコットを離れて、稼いだお金でポカラやカトマンズに移住して、帰らない人もいる。それでも、この国にはなにもない。いい仕事がない。若い人たちが、稼ぎたいから海外に行く、知り合いを頼って日本に行くというのを止めることはできません」
■国境を越えて、人は歩いていく
その日の夜、このあたりに多いというマガル族の集落に呼ばれた。わざわざ日本からお客が来たと村人たちが集まってくれたのだ。長老らしき家の中庭に押しかけてきた人々は50人ほどいただろうか。 「私、いま山梨県のホテルで働いてるんです。休暇で戻ってきたところ」 「この前まで東京の夜間中学で勉強していたんですが、帰国しました」 「神奈川のカレー屋に10年くらいいました」 誰もが口々に日本語を話す。これから親戚を頼って日本に行くという人もいれば、「私も将来、日本に行きたいから日本語を教えて」と、小学生の女の子たちからせがまれもする。 複雑な思いだった。 僕から見れば、この美しい村で田畑を育て、鶏や水牛とともに暮らす生活のほうが、ずっと豊かに見えた。しかしそれでは、現金収入がないのだ。 「みんなiPhone14が欲しいんだよ」 と苦笑していた人もいたが、それがグローバル社会の現実というものだ。資本主義と情報化が極度に進んだいま、東京とネパールの山村とで価値観が共有されつつある。そして、より多くのお金を得るため、国境を越えて働きに行く手段が現在では確立されている。 それが豊かさを生みもするし、一方で多くの歪みも生む。日本に来てカレー屋として働く人々の中には、同じネパール人の経営者からの搾取に苦しむ人、子どもの教育に悩む人、日本語の壁や文化に苦しみ心を病む人もいる。思ったほど稼げず、渡航時の借金を抱えたまま失意の帰国をする人もいる。 それでも、バグルンの人々は国境を越えるのだ。 やがてマガル族の人々は、太鼓を手に手に、伝統のダンスを踊り始めた。ヒエからつくったロキシーという地酒で誰もが酔い、日本から帰ってきた人、これから行く人、行こうかどうか悩んでいる人、ここに残ると決めている人が入り混じり、さまざまな思いはありつつも楽しい宴会となった。 その光景に僕は「越えて国境、迷ってアジア」という、当連載の本質のようなものを見たのだった。 アジア専門ジャーナリスト。週刊誌記者を経てタイに移住。現地発日本語情報誌『Gダイアリー』『アジアの雑誌』デスクを務め、10年に渡りタイ及び周辺国を取材する。
室橋 裕和
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