Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/2d5be4e9242c38160c25f8b5a302c6666e5643ed
ひとつの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。今回は、天皇陛下のライフワーク、“水問題”への取り組みの原点ともなった、ネパール・ブータン・インドへの旅について日本テレビ客員解説員の井上茂男さんと共にスポットを当てます。
民族衣装「ゴ」を着て踊りの輪に 留学後最初の外国公式訪問
――こちらはどういう場面でしょうか 1987(昭和62)年3月、ブータンを訪問された浩宮時代の天皇陛下が、ブータンの民族衣装「ゴ」を着て踊りの輪に加わられている場面です。この夜は、訪問中最後の夜で、王宮の中庭でブータン王室のケサン皇太后主催の「お別れの宴」が開かれました。陛下が着ている「ゴ」は皇太后から贈られた品でした。踊りの輪には皇太后や王女も加わり、みな「タシマラム」「タシマラム」と口ずさみながら踊っていました。「また会いましょう」という意味だそうで、別れを惜しんでいるんですね。
陛下は1987年3月、ネパール、ブータン、インドの3か国を15日間にわたって親善訪問されました。陛下は当時27歳。このアジア3か国訪問は、英国留学から戻って最初の外国公式訪問で、陛下の親善訪問はここから本格化していきます。
王政時代のネパールに触れる 町のバザールではネパール帽を購入
最初の訪問地、ネパールの首都カトマンズの空港では歓迎式典が行われ、盛大な歓迎を受けられました。まず陛下はカトマンズ市内を散策し、寺院や昔の宮殿などをご覧になりました。ネパールは、いまは共和制の国ですが、当時は王国で、1975(昭和50)年に行われた国王の戴冠式には皇太子ご夫妻時代の上皇ご夫妻も出席されています。
その夜は当時の国王の弟夫妻が主催した晩餐会に臨まれました。ネパールは、2001年の王族殺害事件などを経て、2008年に正式に王政を廃止します。後に廃止となる王国に触れるという意味で貴重な機会だったとも言えると思います。
翌日、ヘリで中部の町ポカラを訪問されます。風光明媚な場所として知られていますが、陛下は町のバザールを訪ねられました。一般の人がごった返す下町といった感じです。そしてふらっと店にも立ち寄られました。そこでは、伝統的なネパール帽をご覧になり、実際にかぶられる場面もありました。陛下は帽子を30ルピー、日本円にして210円ほどで買われました。なかなかお似合いですね。
憧れのヒマラヤを望み、ゾウでジャングル散策…後の活動に影響を与える出来事も
翌朝、ポカラからサランコットの丘まで3時間半のトレッキングを楽しまれました。ヒマラヤ山脈の標高6993メートルの名峰マチャプチャレの絶景を望める人気の場所です。陛下は山好きでヒマラヤ行きを夢見ていたそうですから、絶景を前に「あこがれのヒマラヤをこんなに素晴らしく見ることができて」と声を弾ませ、盛んにカメラを向 けられました。実は、この丘の近くで見た光景が、陛下の後の活動に大きな影響を与えることになるのですが、それは後ほど。
また陛下は、国王の弟の案内でカトマンズ南西の亜熱帯地区に広がるチトワン国立公園を訪問されました。 ここではインドゾウに乗ってジャングルを回られました。この時は同行取材の報道陣も、みなゾウに乗って回ったそうで、カメラマンもゾウの上から撮影しているんです。道中にはサイの姿もあり、陛下は「ゾウの乗り心地は思ったよりよく、面白かった」と話されています。
日本からの初の賓客…ブータンは“夢の世界のようだった”
次の訪問国がブータンです。ブータンが長い鎖国から開国に踏み切り、日本と外交関係を結んだのは訪問の前年の1986年。陛下が日本からの初めての賓客でした。世界で最も貧しい国のひとつとも当時言われましたが、ブータンは「国民総幸福量(GNH)」という指標を掲げ、お金はなくても心豊かに生活しているという幸せを大事にしている国です。
ここで陛下は日本人と会われます。当時の国際協力事業団から派遣された農業の専門家・西岡京治(にしおか・けいじ)さんです。西岡さんは1964年から28年間、ブータンで農業近代化の指導を行い、国王から「ダショー」という民間人最高の称号を授けられました。亡くなった時は国葬が行われたほど「農業の父」として尊敬を集めた人です。
翌17日、陛下は首都ティンプーの王宮を訪ねられました。王宮では盛大にパレードで出迎えをうけられました。当時31歳の先代ワンチュク国王との会見と昼食会の後は、王宮の中庭で華やかな楽器や踊りによる歓迎 セレモニーが行われました。先代ワンチュク国王は、日本を訪れて有名になった今の国王の父です。大歓待をうけ、陛下はブータンの印象を「ひとこま、ひとこまが私にとって感動の連続で、時間を超越した夢の世界にいる思いでした」と話されています。実際、国王や皇太后、王女のもてなしは本当に心のこもったものだったそうです。
この後、3時間ほど時間が空き、ブータン側は陛下に「テニスを」と勧めるのですが、陛下は「せっかくですが、もし可能なら、市内を歩いてみたい」と、町を散策されます。案内したのは西岡さんです。限られた日程の中でブータンのことを知ろうとされたんですね。目抜き通りには一目見ようと人だかりもできていました。
インド人カメラマンのリクエストに応じてポーズをとられる場面も
そして、最後の訪問国インドでは、まずデリーにあるインド建国のマハトマ・ガンジーの記念碑「ラージガート」に花を供えられました。上皇ご夫妻も2度のインド訪問で同じように花を手向けられています。
また世界遺産タージマハルも訪問されました。上皇ご夫妻もその28年前に訪問された場所です。ご自身のカメラでさかんに撮影された後は、今度は、大勢のインド人カメラマン達のリクエストに応じてポーズをとられました。この南西アジア3か国の旅は、英国留学中にヨーロッパ各国の事情に触れた陛下にとって、アジアの国々や人々に触れる貴重な機会になったと思います。
天皇陛下 「水問題」への取り組みの原点
そして、訪問中に陛下のその後の活動に大きな影響を与える場面がありました。この写真は先ほど紹介したネパールの「サランコットの丘」の近くの集落で陛下が撮影されたものです。ここには、水くみ場があり、ちょろちょろとしか出ない水を大きな甕にためて、それを女性たちが背負って家まで戻っていきます。陛下はトレッキングの途中、この光景に目にとめ、シャッターを切られました。陛下は後に水問題の国際会議でこの写真を紹介しながら、「水くみをするのにいったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。女性や子どもが多いな。本当に大変だなと、素朴な感想を抱いたことを記憶しています。」と講演されています。この時の問題意識がその後の「水問題」への取組につながっていったわけで、このネパール訪問は、陛下のライフワークでもある「水問題」の研究の原点と言っていいと思います。
多くの人たちと触れ合い、見聞を広げられた旅でした。インドでは路上生活者の多さを目にして「正直言って驚きました」と話されています。陛下は1999年の記者会見で「環境問題」などを「非常に大切な問題」として掲げ、2004年の会見では、約11億人が安全な水を飲むことができないことや、約24億人が下水道施設を持っていないことなど、具体的な数字を挙げて「水問題」への関心を示されました。そして、2007年に国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任し、水問題をライフワークとされていったのです。いま盛んに「SDGs」(持続可能な開発目標)が言われますが、陛下は早い時期から地球規模の問題の重要性に気づかれていたんだと思います。そのきっかけに34年前の南西アジア訪問があったわけで、この訪問の意義を感じます。 【井上茂男(いのうえ・しげお)】 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
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