2016年6月6日月曜日

マナスル 初登頂60年イベント 偉業を振り返る

Source:http://mainichi.jp/articles/20160529/ddm/010/040/017000c
毎日新聞
初登頂60周年を記念して、バラの花やピッケルをあしらった純銀製ピンバッジが日下田さんらに贈られた
 
マナスル(8163メートル)初登頂から60年。「日本山岳史の金字塔」とたたえられる偉業を振り返る記念イベント「ザ・マナスルデー」(毎日新聞社主催)が8日、皇太子さまを迎え東京都内で開かれた。登頂メンバーやその家族が当時の思い出やエピソードを披露。登頂までの全容を記録した「マナスルに立つ」ダイジェスト版も上映され、今西寿雄隊員が頂上に立った場面では約500人の来場者から大きな拍手がわき起こった。(写真はいずれも宮間俊樹撮影)

    「難しいところなかった」 頂上に立った日下田さん

    父「登山は謙虚であれ」 槙隊長の長男恒治さん

    南極への思い断った父 今西隊員の長男邦夫さん

    日下田さん
     60年前の遠征メンバーの一人で第2次アタック隊員としてマナスル頂上に立った元毎日新聞運動部記者の日下田(ひげた)実さん(85)、槙有恒隊長の長男恒治(つねはる)さん(83)、今西隊員の長男邦夫さん(63)の3人が「マナスルの偉業を語る」と題して当時を振り返った。コーディネーターは作家の藍野裕之さん。
    今西隊員の長男邦夫さん
     藍野 マナスルを知らない世代も前人未踏の地にたどり着くまでの情熱を受け継いでいきたいと思っています。改めて映画をご覧になって。
    槙隊長の長男恒治さん
     日下田 ずいぶん昔の話ですが、思い出すことはいろいろあります。私は最年少(25歳)で参加しました。登頂途中で松田(雄一)さんが体調を崩してキャンプに戻られましたが、これは隊のために良かったと思います。松田さんは大変緻密な方で、登山全体の計画を頭に入れ、槙隊長をよく補佐してくれた。登頂できた要因の一つだと思います。
     藍野 今西さんはネパールで行われた60周年式典に参加しました。
     今西 (1年前の)地震のダメージは少し残っていましたが、ネパール人の生命力、たくましさを感じました。カトマンズ市内で行われたパレードには大勢のネパール人について来ていただいた。「ダイヤモンド・ジュビリー」を祝う熱意を本当に感じました。
     藍野 槙さんのお父様は隊長就任を固辞されたと聞いています。
     槙 自分の年齢(当時62歳)などを考えてなかなか決心ができなかったようです。(就任決定後は)3〜4キロ、毎日欠かさず砂浜を歩いて体を鍛え、体力に相当自信を持った。スイスアルプスからスタートした登山の集大成として「最後はヒマラヤ」と考えていたのでは。
     今西 私の父は家業が建設業で、父親から「早く、仕事に戻れ」と厳しく言われていたようです。(マナスル計画に携わった)西堀(栄三郎)先生から(後年)南極遠征にも誘われたようですが、「マナスルが最後」ということで思いを断ち切ったそうです。
     藍野 この登山で一番難しかったのは?
     日下田 難しいところはあまりありませんでした(笑い)。第5キャンプから(頂上手前の)プラトー(台地)に登る「エプロンルート」は急斜面で割と大変。特に、下りる時を心配しましたが、実際はそれほど急ではなく、スムーズに第5キャンプまで下りることができました。
     槙 父は常々「登山では謙虚であれ」と言っていました。高地は空気が薄く、気温、気候すべてが平地とは全然違った空間。装備や予定などを完全に把握し、もし駄目だったらすぐに引き返す勇気を持たなければならない。登山は命がけのスポーツであるから、謙虚でないといけないということでしょう。
     藍野 最後に後進へのメッセージを。
     日下田 当時と比べると、今の時代はなかなか目標を決めるのが難しい時代だと思います。ただ、例えばエベレストにしても、後から個人として登れば初めてになるわけです。やはり、そういう気持ちを持ってこれから山登りに挑戦していただきたいと思います。

    習慣、食べ物自分の中に/準備さえ整えば誰でも 山の魅力語る

    登山家の竹内洋岳さん(右)と京大学士山岳会の松沢哲郎会長
     日本人初の8000メートル峰全14座登頂者の竹内洋岳(ひろたか)・立正大客員教授と、チンパンジーの知性を探る研究でも知られる松沢哲郎・京大学士山岳会会長が「山の魅力、マナスル遥(はる)かなり」と題して語り合った。
     竹内さんは、日本隊による60年前の初登頂時と現在の登山の違いとして、通信機器の発達を挙げた。当時は天気に関する情報収集は、インドから放送されるラジオが頼りで、モンスーン(季節風)の位置を隊員が聞いて参考にしていたという。現在は衛星回線を用いてインターネットで予報を知り、ピンポイントで登頂日を選べる。
     また、マナスルが「日本の山」として浸透しているエピソードを披露。竹内さんが登頂を目指した時、天気が悪い日が続き、同行メンバーから「『日本の山』なんだから、日本政府に電話して晴れるようにしてもらえ」と毎日のように言われたという。登山の魅力については「その国や地域の人々と交流し、習慣や食べ物を自分の中に取り入れていって、だんだんと山に適応していく過程が楽しい」と熱く語った。
     松沢さんはカンチェンジュンガ(8586メートル)に2回遠征した時のキャラバンルート(通り道)の違いを説明。1度目(1973年)は2〜3週間かけて歩いて行き、だんだんとヒマラヤに近づいていることを楽しめたが、2度目(84年)の時は飛行機で行くことが可能に。「行程が短縮され、悪く言えばエッセンスの部分だけを楽しむような感じになった」という。
     8000メートル級の未踏峰はわずか15年で登られてしまった。その「ヒマラヤ黄金時代」の後が「鉄の時代」で、岩壁をよじ登り、無酸素やシェルパなしなどさまざまな登り方がされた。そして、年配者が活躍する「銀の時代」。準備さえ整えれば、誰でも8000メートル級の山に登れるようになった。「今は多様性の時代で、私のような研究の対象、竹内さんの場合はスポーツなどそれぞれの登山がある」と締めくくった。

    <主催>毎日新聞社
    <特別後援>日本山岳会、京都大学学士山岳会
    <後援>日本山岳協会、ネパール大使館、東京都千代田区
    <協力>立正大学、本の街神保町を元気にする会、神田古書店連盟、岩波不動産、神田スポーツ店連絡協議会、日本BS放送、山と渓谷社、三省堂書店、東京堂ほか
    <協賛>カシオ計算機、日本ゴア、キャラバン、ザンター、ヴィクトリア、丸紅ファッションリンク

     ■ことば

    マナスル

     ネパール・ヒマラヤのほぼ中央部に位置する世界8位の高峰。1956(昭和31)年5月9日、毎日新聞社の全面支援を受けた日本山岳会による第3次登山隊(槙有恒隊長)が世界に先駆けて登頂。アジアから初めて8000メートル超の未踏峰に足跡をしるした。記録映画「マナスルに立つ」(監督・山本嘉次郎、ナレーション・森繁久弥)は全国の劇場で公開され、小中学生らにも大きな感動を与えた。標高は50年代には8125メートルといわれたが、測量技術の進歩で修正された。

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