Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/a0875fdece2ba939b39a451c8354d0d4405758c6
エベレストをはじめ世界各地の山に登り、北極圏から南米まで。カメラを携え、旅を続ける写真家・石川直樹さん。旅の途中で、様々な風景と出会ってきました。 死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い なかでもエベレストに隣接するローツェへの挑戦には特別な想いがありました。7年間の旅の軌跡をまとめた石川さんの著書『地上に星座をつくる』のなかから紹介します。
「最高の登山」
これまで3年間、ヒマラヤを知るために、この山脈の周辺を縦横に歩き続けてきたが、今回のローツェ登山はぼくにとってその集大成となる遠征だった。 2013年3月29日に日本を出発してネパールの首都カトマンズに入り、エベレスト街道を歩いて標高5300メートルのベースキャンプに入った。その後は6000メートル峰に二度登るなどして高所順応に努めた。 ベースキャンプで英気を養い、天候を慎重に見計らった結果、5月12日深夜2時にベースキャンプを発って頂きを目指すことになった。 第二キャンプ、第三キャンプを経て、5月17日朝7時、ぼくとシェルパのプラ・ツェテンは、ローツェの第四キャンプ(標高7900メートル)を出発して、最後の登攀を開始した。 ぼくはこの日に至るまで、あらゆる力を温存し、自分の体を丁寧に整えてきたつもりだ。人間は動くために食べる。食べないと動けない。だから、食欲が極度に減退する7900メートルのテントの中でもぼくはきちんと食べた。 干しマンゴーや干し納豆、くるみやせんべいを食べた。夜食のような食べ物ばかりだが、熱い米をもりもり食べられるほど胃腸は健やかではない。食べられるのは日本から送ってもらった上記のような菓子に毛が生えたようなモノばかりだったが、それでも体を動かす源になる。
根性で山は登れない
水分も十分に補給しなければならない。しかし、水道などあるはずもなく、水は雪から作る。 高所ではさぞ雪もきれいだろうと思っている人が多いかもしれないが、8000メートル近い高所にフカフカの新雪など皆無で、テントの周りにあるのは砂利混じりの雪氷だけである。当然そんな雪氷を溶かしていけば砂利混じりの水ができあがる。 テントをシェアしたオランダ人のレネが作る水は最悪で、砂利どころか、ダウンの羽毛や埃やゴミが混じって飲めたものではない(彼はその水をがぶがぶ飲んでいたが……)。 ぼくはレネと水作りを交代し、クリーンな水を得ようと努力したが、それでもやっぱり砂利混じりの水を飲むしかなかった。 というわけで、鼻をつまんで飲んだりはしなかったが、なるべく味に意識を集中しないようにして、目をつぶって最低でも一日1リットルの水を飲もうと努力した。 出発を急がなくてはならない朝も同様に、雪からお湯を作って飲んだし、スライスした餅を入れたおしるこもきちんと胃に流し込んだ。 7000メートル以上のキャンプでは、上記のような、当たり前の食事や水分補給さえも放棄してしまう人はたくさんいる。でもそれではダメだ。根性で山は登れないのである。自らの体と体調をきちんと管理し、慎重に整えなくてはならない。 ぼくは下痢にならないよう、腹を壊してもいないのに、頂上へ向かう数日前から下痢止めも飲んでいた。そのように念には念を入れて登頂に臨んだ。だからこそ、頂上に向かう17日朝、ぼくは最高の体調だった。
果てしなく続く煙突のような壁を登攀する
テントを出てすぐに直登がはじまる。この斜面はローツェ・フェイスと呼ばれる巨大な壁の上端部分にあたる。 風が常に四方八方から駆け抜ける雪面を登っていくと、その壁のてっぺんを構成する岩場に出る。そこを真横にトラバースしていくと、ローツェ・クーロワールの入口が見えてくる。 「クーロワール」というのは、岩壁に刻まれた溝のような場所のことを指す。ローツェ・クーロワールは、両側を岩に囲まれたせまい通路で、ローツェの頂きに向かって延びている溝だ。このクーロワールを真上に直登しなければいけない。 ローツェ・クーロワールはすぐに終わるものだと思い込んでいた。しかし、それは違った。長い。それも果てしなく長い。 クーロワールは、頂上に向かって一直線に延びた煙突のようになっていて、人一人が通れるような隙間から学校の廊下ほどの広さまで、狭くなったり広くなったりしながら延々と続いた。 ぼくはこの登りで、ほとんど止まらなかった。クーロワールの中で、1分も止まっていなかったと思う。力が溢れてきた。誰かに背中を押されているような気持ちだった。数歩登っては数秒止まるのを繰り返して、とにかく煙突の先の光を目指した。
頂上目前に残されたもの
煙突は長かった。ここを越えると出口か、と思うとそうではなく、まだ通路が続く。空に光があって、そこから風が吹きつけてくる。そんな繰り返しの後、ようやく頂上らしき岩の塊が見えてきた。 「あれか」と思うと同時に、岩の中ほど、右横にオレンジ色の何かが見えた。昔の登山隊がデポした酸素ボンベだろうか。まったく仕方ないなあ。ちゃんと持って帰れよ、などとそのときは思った。 頂上の岩に少しずつ近づいていくと、そのオレンジ色の何かがモノではないことがわかった。人、だった。岩に座るようにして、腕をだらりと伸ばし、頭を横に傾けている。それが遺体だとわかったとき、愕然とした。 「……」 ぼくは、無言でプラ君を振り返った。プラ君も無言でうなずく。後で聞いたところによると、それは去年亡くなったポーランド人だかチェコ人の遺体だった。頂上からわずか20メートルほど下である。 ロープは無情にも、その遺体のすぐ左横を通って、頂上へとのびている。ぼくは遺体と対面せざるをえなかった。その人の肌からは水気が失われ、顔の表面はプラスチックのようになっていた。 口が少し開いている。なぜここまで来て、彼は動けなくなったのか。頂きに立った後なのか前なのか……。 遺体を横目に頂上直下の壁を、とにかく力を振り絞って無理矢理登った。頂上は二本の足で立てるような場所ではなく、座るように頂上に到着した。5月17日、午前10時12分。標高8516メートルの頂上に座ると、右手に今まで見たことのないエベレストの姿があった。 思った以上に鋭角な三角形をしている。2年前に立ったあの頂きを、ぼくは今、その隣から眺めている。ヒマラヤを、エベレストを知るための長い旅が、この瞬間ついに完結することになった。
記憶に残るローツェの色
頂上に数分間だけ滞在した後、下山を開始した。懸垂下降で降りながら置き去りになった遺体に別れを告げ、ロープを頼りに慎重に下っていく。 クーロワールの壁の切れ間から、エベレストが何度も見える。長い時間をかけて登ってきたローツェ・フェイスがまな板を立てたように真っ直ぐに切れ落ちている。 ぼくは足を前に出しながら、この瞬間はもう二度と経験できないんだ、と何度も思った。泣きたいくらい苦しいのに、それでもまたこの空間に身を置きたいと思ってしまう自分がそこにいた。 山頂を目指しているとき、プラ君はずっと後ろにいて、ぼくは前を見てひたすら登っていればよかった。誰の背中も追わなかったせいか、ぼくの中のローツェは無色透明だった。雪の白と岩の黒だけの透明な世界。山に登るというよりも、空に向かって透きとおった斜面を登っているような感覚。 命を削って、風の入口を探す旅。これでヒマラヤは一区切りだと思っていたが、どうやら簡単に足を洗えそうにない。 いまぼくは心の底から言える。ローツェは、本当にいい山だった。 NEXT:15歳で生け贄に…南米アンデスの山頂で見た「凍結ミイラ」の衝撃
石川 直樹
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