Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/3a895f6ec41afc527ef4e03649d40aafe9f5096f
不便だからこそ残されてきた文化、何を守り、何を変えるか
ネパール中北部に、かつての「ムスタン王国」(現在はダウラギリ県ムスタン郡)がある。切り裂かれたような岩の大地に、雪を頂く山々。色鮮やかな祈祷旗がはためき、レンガ色の修道院がそびえる。チベットと境を接するこの秘境へのトレッキングは、旅人たちの人気を集めている。 ギャラリー:車道建設で変わる、秘境ムスタン徒歩の旅 写真7点 しかし、ネパール全域でそうであるように、ムスタンにも変化の波が訪れている。国が急速にすすめる道路建設計画によって、風景のみならず住民の暮らしや旅のあり方まで変化しつつあるのだ。 旅行者は、自分たちが求めていた「手つかずの美しい土地」に道路が造られることを嘆く。一方で、山奥の集落に暮らす人々にとっては、都会へのアクセスや自分たちの経済状況が改善される、歓迎すべき機会だ。 ムスタン・アドベンチャー・トレック社の創立者、ツェワン・ビスタ氏によれば、ムスタンで観光業が始まったのは1992年のこと。「ムスタンは今とは全く違っていました。完全に外部と遮断され、孤立していました。ネパールの首都カトマンズの人々ですら、この土地を知らなかったのです」 観光業の発展は、トレッキング業者から料理人、商店の経営者まで、様々な住民に収入をもたらした。また外国人が訪れるようになり、地元の人々が伝統を復活させるようにもなった。「ムスタンにやって来た人々は、私たちの宗教に関心を持ちました。だから、これは守っていくべきと感じたのです」とビスタ氏は言う。 そのような中、何を守り、何を変えるべきかという議論が起きつつある。どのようにすれば地元住民と観光客の双方に有益な発展が遂げられるかという議論だ。
トレッキングで感じた「音」
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が世界的に流行する前、私(旅ライターのマイケル・シャピロ氏)は妻と共にテンジン・ノルゲイ・アドベンチャーズの秋のトレッキングに参加した。トレッキングを率いるジャムリン・テンジン・ノルゲイ氏は、1953年に登山家エドモンド・ヒラリー氏と共にエベレスト初登頂を成し遂げたシェルパ、テンジン・ノルゲイ氏の息子だ。 ムスタンをトレッキング中、私が最も印象を受けたのは音だ。馬に付けられた鈴、岩の上を吹きすさぶ風、小川を走り抜ける水。だが、歩き始めて6日目、他の全てを上回る音が耳に入ってきた。ブルドーザーの音だ。ムスタンと中国を結ぶ道路が建設中だった。「早く行こう」と、ノルゲイ氏は言った。 「地元の人々にはより良い生活をする権利があります」と、ノルゲイ氏は後に語った。「車を持つな、なんて誰が言えるでしょう。私たちは車を持っています。彼らも車が欲しいのです」 同時に失われるものも、彼はよくわかっている。「車が通った瞬間、トレッキングの魅力はそがれてしまいます」とノルゲイ氏。これは、観光業に携わる現地の人々に対しても大きな影響を及ぼす。 ムスタンでのトレッキングは期待した通りのものだった。4000メートル級の山々を登り、シェルパたちと友情を築き、古い修道院を訪れ、地元の人々と交流した。同時に、ネパールの田舎がどれだけの速さで変化しているかを知ることにもなった。人々が長く足で旅してきた地域に、ブルドーザーが道路を刻み込んでいた。 かつて外国人の立ち入りが禁止され「禁断の王国」と呼ばれたムスタンだが、今は本来のチベット以上にチベットらしさを感じられる場所かもしれない。人々は自由にチベット仏教を信仰し、カラフルな祈祷旗を掲げられる。登山中、村人たちは「タシデレク」と声をかけてきた。チベット語で「今ここであなたが幸せでありますように」という意味のフレーズだ。 私たち8人のトレッキング・グループは、何百年と人々がここにたどり着いてきたのと同じ方法、つまり大きな荷物を背負い、徒歩で、中世から変わらぬムスタンの中心地ローマンタンの街に到着した。石壁に囲まれ、狭い路地を家畜のヤクが行き交うこの街は、かつて塩交易の中継地点だった。古の王国の城壁の外、2キロと離れていない場所には、Wi-Fiと衛星放送を備えた新しいホテルが建っている。 街の修道院で私は、ローマンタンを外の世界とつなぐ道路についてどう思うか、あずき色の袈裟をまとった僧に尋ねた。「悪いこともあるが、いいこともある」と彼は英語で答え、出産の際に赤ちゃんを亡くした女性がいたことを語ってくれた。道路が完成していれば、ひょっとすると、病院に早く着いて赤ちゃんを救うことができたかもしれない、と。
加速する道路建設
一部の西洋人はネパールの山間地に理想郷を見出すが、地元の人々にとっては、基本的なインフラから遠く離れて暮らすことは昔から大変だった。ハート・オブ・ヒマラヤ・トレックスの創設者、K.P.カフレ氏は、ムスタンの小さな村に育った。塩を手に入れるため、片道15日も歩かねばならない場所だったという。「当時は、運んで、運んで、運んで、という感じでした」と氏は話す。「自然を愛する冒険者としては、道路は好きじゃありません。けれど道路の建設は、ムスタンの親戚たちにとってはこの上ない好機なのです。車に乗ってたった12時間でカトマンズまで行けるのですから」 過去5年、道路建設事業はネパール政府や国際支援団体、近隣諸国の資金を得て加速している。当局によると、1990年当時、国が造ったハイウエーは3000キロ程度だったが、2015年には1万キロを超え、2017年から2018年にかけてさらに1万キロの道路が造られた。 元国会議長のヤンキラ・シェルパ氏は、ネパール東部のオランチュンゴラ村で育った。「道路ができたお陰で、人々は農業でなんとか生活を維持するような必要がなくなりました。車で都心へ行き仕事をすることが可能になったのです」と語る。 「道路ができる前、ネパール北西部にあるジュムラで作られたリンゴは到着前に腐ってしまうことが多かったものです。けれど現在では、ジュムラのリンゴはカトマンズで高値で取引されているのです」 国内市場、外国市場共にアクセスが容易になったことで、地方女性が地元の産品でビジネスをしやすくなったという。しかし、「外部の人々がやってきてローカルビジネスを乗っ取り、民族の文化が消耗してしまう」ことをシェルパ氏は危惧する。
道路か、観光業か
ネパール経済は観光業に大きく依存している。アンナプルナ・トレッキングのような人気ルートに道路ができると、旅行者が訪れたいと思わなくなる可能性がある。 「道路ができる前、地元の村ベニと、チベット仏教とヒンドゥー教の聖地ムクチナートを往復するには12日間、歩く必要がありました」と、シェルパ氏は言う。「道路が開通した今では、多くの人が車でまっすぐ州都ポカラからムクチナートまで行き、翌日には出発してしまいます。トレッキング・ルート上にあるホテルや飲食店、観光関連の仕事に就く人にとって、これでは利益になりません」 ヒマラヤの保全団体と長年協力してきたチェリング・ラマ氏は、村人たちは道路も観光業もどちらも手に入れればよいと話すが、道路が棚田を破壊し、観光で収入を得る人々の生活を苦しめている現状を心配している。1つの案として、道路と昔ながらのトレッキング・ルートの間を何キロも離しておくというものがある。ノルゲイ氏らは来年以降、ムスタンにおいても他の地域においても、今までとは異なるトレッキング・ルートを採用するつもりだ。 場所によっては道路を建設しない方がいいと考える人もいる。その例として、カルマ・ブティア氏は、上アルンバレーのルンバサンバやトレッキング人気の高いエベレスト周辺地域を挙げる。ブティア氏は、世界の山地を保護する非営利組織マウンテン・インスティチュートで20年以上、地方住民の生活に携わってきた。ネパールとチベットにまたがるマカルーバルン国立公園の創設にも関わった人物である。 「ここに暮らす私たちは、手つかずの森、ヤクのキャラバン、薬草、ユキヒョウ、ヒマラヤグマといったものを守ろうとしているのです。それに、こうした場所は社会的に弱い立場にある先住民が生活する土地でもあります」。ブティア氏はそう言い、道路建設は森林伐採や水力発電計画を招きがちであると付け加えた。 「開発が文化や環境と相容れるような、中くらいの方法が存在するはずです。そのためには」とラマ氏は悲しげに笑いながら言う。「意識を高く持つ必要があります」
文=Michael Shapiro/訳=桜木敬子
0 件のコメント:
コメントを投稿