Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/be5503c1faa68fa643f23c17319527b2913b0bda
京アニ放火殺人事件、埼玉愛犬家連続殺人事件、北九州連続監禁殺人事件、桶川ストーカー殺人事件……時代が昭和から令和に移り変わる間、凶悪犯たちによって数々の凄惨な事件が起きてきた。 【写真】この記事の写真を見る(5枚) ここでは、『 日本の凶悪犯罪 昭和―令和「鬼畜」たちの所業100 』を引用し、2008年に北海道で起きたカレー店妻娘殺害事件の真相について紹介。母国にも妻娘がいた犯人の悪魔のような実像に迫る。(全2回の1回目/ 後編 を読む) ◇◇◇
「顔がパンパンに腫れた娘が全裸で仰向けに…」
その部屋に入ると、火事場特有の木の焦げた臭いが鼻についた。警察の実況見分が終わったばかりで、殺害現場となったベッドには青いビニールシートが被せてあり、床には乾いた絵の具のような血糊がべっとりとこびり付いていた。 殺害された被害者の名前は赤前智江さん。犯人は、彼女の夫であるネパール人のバハドー・カミ・シュアム。男は妻を殺め、証拠を隠滅するために家に火をつけただけでなく、2人の間に授かった生後6カ月の娘も、近所の川に遺棄した。 殺害現場は、3人が暮らしていたログハウス2階の寝室だった。つい数カ月前まで3人が暮らしていた部屋には、被害者の血糊と乳児が飲んでいた粉ミルクの缶が無造作に転がっており、突然起きた凶行の悲惨さを物語っていた。 事件が起きたのは、2008年5月6日未明のことだった。取材に応じてくれた智江さんの父親は言う。 「家に入ったら、煙がもうもうとして、何も見えませんでした。急いでライトを取って来ると、煙だけでなくシューッという音もする。何かと思ったらガスのゴム管が切ってあったのです。急いでガス栓を止めて2階に上がると火の手が上がっており、部屋の奥に顔がパンパンに腫れた娘が全裸で仰向けで横たわっていたのです。それは見慣れた娘の顔ではありませんでした。すぐに娘を抱きかかえ救急車を呼んだのです。あんな残虐な殺し方ができる人間は何者なのか、娘の旦那だった男だけに、どうしても気になるのです」 父親は、無念やる方ない表情で、事件当時の状況を語ってくれたのだった。事件の動機は、カレー店などの経営がうまくいかず、諍いが絶えなかったことにあると発表されていた。ただ、それだけの理由で妻を殺め、家に火をつけるようなことをするだろうか、この事件には深い闇があるように思えた。私も自分の足で、シュアムという男が何者なのか、調べ上げたいという気持ちが湧いてきた。
ネパールではカーストの最下層だった
シュアムと智江さんがネパールのカトマンズで出会ったきっかけは、彼女が銀細工を学ぶためにネパールの工房を訪れ、そのスタッフにシュアムがいたことだった。05年、06年と二度、智江さんはネパールを訪れているのだが、二度目にネパールを訪れたときからシュアムと付き合い始める。そして、07年4月には、シュアムを日本へと呼び寄せ、北海道で結婚生活をスタートさせた。07年10月には子供も生まれ、ネパールの洋服やアクセサリー、そしてシュアムがつくった銀細工などを売る店と、カレーレストランをオープンさせた。 だが、日本で生活を始めて約1年、2人の結婚生活は最悪の形で幕を閉じたのだ。
私はシュアムの生まれ故郷であるネパールを訪ね、1カ月半にわたって取材を敢行した。 彼はネパールの首都カトマンズからバスで2時間、さらに山道を2時間ほど歩いたマットラという山村で生まれた。ネパールでは今もカースト制度が人々の生活を縛っている。シュアムはカースト制度のなかで最下層に位置する鍛冶屋のカーストに属し、村の一角に彼の一族が固まって生活していた。指輪などをつくる銀細工の職人は、鍛冶屋のカーストが担っている。 10歳の頃に彼は村から首都のカトマンズへ出て、1人の銀細工職人のところに弟子入りし技術を学びながら働いた。彼の一家は“土地を持たない”ために生活が厳しく、シュアムがカトマンズで職人に弟子入りしたのは“口減らし”の意味もあった。私は、カトマンズで今も銀細工職人を続けている、シュアムの師匠を探し当てた。 「村から出て来た当初は真面目に働いていたけど、数年して仕事を覚えると、酒を飲んだりタバコを吸い始めて、どんどん生意気になっていったよ。結局私の家から30ルピー(当時のレートで60円)ほどの金を盗んで出て行ったよ」
シュアムはネパールに妻子がいた
さらに取材を進めていくと、驚くべき事実にぶつかった。シュアムは智江さんと出会ったときにはすでに妻子がいたというのだ。 「シュアムにネパール人の奥さんがいることは、みんな知っていたと思うよ。知らなかったのは、智江さんだけじゃないかな」 工房の同僚によれば、シュアムの妻は毎日工房に来て働いているという。シュアムの逮捕により、自ら生活費を稼いでいるというのだ。 工房を訪ねてみると、広さは畳二畳分、高さは160センチほど、工房というよりは物置き小屋と呼んだほうがしっくりくる。銀細工をするための工具が所狭しと置かれていた。 シュアムの事件のことで日本から取材に来たと告げ、「ここにシュアムの奥さんはいますか」と尋ねた。すると、手前で作業をしていた男が、黒いサリーと呼ばれる民族衣装を着た女性を指差した。 「あなたはシュアムの奥さんですか」とあらためて直接その女性に聞いた。すると彼女はすぐに、「はい」と返事をした。事件を知っているかと尋ねると、「知っている」と頷いた。
日本人女性との結婚を知っていたネパールの妻
彼女は14歳のときにシュアムと結婚し、6歳になる娘もいると言った。工房では話しづらいこともあり、後日、彼女が暮らしているアパートを訪ねて話を聞くことにした。彼女は、木製のベッドと煮炊きをするコンロだけが置かれた、四畳ほどの部屋に娘と2人で暮らしていた。カーテンを買う金もないのだろう。強い日差しを避けるために、窓には新聞紙が貼ってある。 生活ぶりからは貧しさが滲み出ていた。 彼女の名前はビマラ、年齢は23歳。智江さんに会ったことがあるかと尋ねた。 「彼女については1回見かけたことがあったけど、話したこともありません。夫が工房に彼女を連れて来たとき、私も工房にいました。すると夫はすぐに彼女を連れて出て行ってしまったんです」 その後、シュアムは智江さんとネパールで結婚の手続きをして日本に向かったのだが、その経緯を彼女は知っていたのだろうか。 「夫が、日本人の女と結婚して日本に行くことは知っていました。夫はそのことを隠し続けていましたが、工房の人間が教えてくれたんです。すぐに私は反対しました。そんなことは許せなかったからです。カトマンズにあるNGOにも助けを求めに行きました。NGOは動いてくれませんでしたし、夫は3年か4年働いたら帰って来ると言ったので、最後は日本に行くことを認めたんです」
数多くの逮捕歴
シュアムは智江さんを騙し、出稼ぎ目的のため日本に行ったのは明白だった。智江さんを殺めただけでなく、カトマンズにいる妻子までも傷つけていた。 さらにカトマンズで取材をしていくと、シュアムはたびたび暴行事件を起こしていると証言する人物にも出会った。実際に警察署に足を運んで、シュアムの名前と年齢で照会してみると、2回の逮捕歴があることがわかった。7年前と5年前に傷害事件を起こして逮捕され、7年前には1カ月刑務所に入っていた。
「ネパールの妻のことは誰にも言わないでください」
ネパールから日本に戻ると、シュアムと面会するために、札幌の拘置所に足を運んだ。待ち合い室で30分ほど待たされると、私の番号が呼ばれた。パイプ椅子に座り、数十秒ほど待つと、刑務官と一緒に水色のパジャマを着たシュアムが現れた。ナマステと手を合わせると、彼も手を合わせた。 「あなたとは会ったことがないと思いますが、どなたでしょうか?」 シュアムは目をキョロキョロさせ、落ち着かない表情を浮かべながら聞いてきた。ネパールで聞いてきたさまざまな悪い噂とは結びつかない、どこか少年のような幼さが顔には残っていた。私がネパールの妻や子どもにも会ったことを告げると、シュアムは目にうっすらと涙を浮かべた。 「日本へは働きに来ただけだよ。だけどお金はもらえなかった。朝から晩まで働きづめで、ゆっくり話すこともできなかった。薪割り、雪かき、竹の子取り、1着のコートも買えなかった。お金を1回も送ることができなかったんだ。智江も日本の両親も僕に嫁さんや子どもがいることは知っていたよ」 シュアムはあくまでも、日本には働きに来たことを強調し続けた。彼の口からは事件を起こしたことを悔いる言葉は出てこない。自己弁護を弄し、智江さんも両親もネパールに妻子がいることを知っていたと嘘をつく姿に、怒りが込み上げてきた。 シュアムと面会する前日、私は智江さんの両親と会い、ネパールで結婚していた事実や犯罪歴をなどを余すことなく伝えていた。 「そうか。そんな人間だったんだなぁ」 父親はそう言ったきり黙ってしまい、母親は手で顔を隠し声をあげて泣いてしまった。2人がシュアムが結婚していた事実を知るはずもない。 私は智江さんの両親の無念さを胸に感じながらシュアムに尋ねた。 「それではなんで智江さんと一緒に生活をしていたんですか。智江さんと結婚して日本に来て、娘さんもできたでしょう」 すると、今まで饒舌に話していたシュアムは答えに窮した。苦しまぎれにシュアムが言った。 「頼むから、ネパールの妻のことは誰にも言わないでください」 その言葉でシュアムは智江さんの両親だけでなく、智江さんにもネパール人の妻のことを伝えてないことを確信した。 最初は、あどけない少年のように見えたシュアムが、醜悪な獣にしか見えなかった。後味の悪さだけを感じながら、シュアムとの面会を終えた。殺害された智江さんは、結婚の意思を両親に伝えたとき、シュアムについてこう言っていた。 「純粋で仕事を真面目にする人なの。だから心配しないでほしい」 智江さんはシュアムと暮らすことによって、幸せな生活を送ることを夢見た。しかし約1年の生活でその夢は破綻し、命すらも絶たれてしまった。 日本とネパール、2人の女性と赤子の運命を弄び狂わせた人面獣心のシュアムは、懲役15年の実刑判決を下され府中刑務所に服役していたが、智江さんの父親によれば事件から12年の歳月が過ぎ、すでに故郷ネパールに帰り、何事もなく暮らしているという(本文中一部敬称略)。 「殺したときには射精していました」“快楽殺人犯”とされた山地悠紀夫が女性殺しに走った本当のワケ へ続く
八木澤 高明
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