2020年3月25日水曜日

初登頂を連発した女性登山家ウォッシュバーン、その魅力的な人物像

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200312-00010000-nknatiogeo-life
3/12(木) 7:11配信、ヤフーニュースより
ナショナル ジオグラフィック日本版
 世界の山で女性初登頂を次々に達成していった米国の登山家バーバラ・ウォッシュバーン。だが、彼女が登山を始めるきっかけは偶然だった。

ギャラリー:初登頂を連発した女性登山家バーバラ・ウォッシュバーン 写真10点

 1939年、彼女は郵便配達人に紹介されて、米ニューイングランド自然史博物館の館長だったブラッドフォード・ウォッシュバーンの秘書の仕事に就いた。それは魅力的な仕事ではなかった。「あの狭くて古くさい博物館で働くのはイヤだった。山登りに夢中な変わり者の下で働くのも気が進まなかった」のだ。

 1年後、キャンプもしたことがなかった若いバーバラはその「変わり者の登山家」と結婚、米国アラスカ州にある標高3110メートルのバーサ山の頂に立っていた。犬たちを連れ、バックパックを背負って1カ月にわたった遠征は、嵐に足止めされ、険しい道に悩まされた。夫のブラッドフォードは「バーバラが登頂に成功したことの方がうれしい。女性としては30年ぶりのアラスカ未踏峰登頂だ」というメッセージをAP通信社に送った。

 さらに1年後、2人が率いるチームは標高4216メートルのヘイズ山初登頂に成功した。当時、女性用の登山服はなかったので、バーバラは男物を身につけていた。不安定な尾根を進むときは、バーバラが先頭に立った。体重が軽く、足場が崩れても引き上げやすいからだ。

 このとき、バーバラは生まれたばかりの娘を家に残していた。「冷静で自信たっぷりに見えるように振る舞っていました。でも、実際は恐怖で震えがとまりませんでした」。バーバラは後にそう話した。「それでも、滑ることも足場が崩れることもありませんでした。みんな無事に私の後に続きました」

 1947年、バーバラとブラッドフォードは3人の子どもを家に残し、北米最高峰デナリ(当時はマッキンリー)に登る。後にバーバラは、これを人生でもっとも難しい決断だったと書いた。2カ月近い旅を経て山頂に近づいたとき、チームのメンバーから最初に山頂に立つことを勧められた。「私はこう言いました。『一番乗りなんてどうでもいいわ。2番目でも十分満足よ』」。だが、結局先頭に立つことになり、北米最高峰に立った初めての女性となった。その後20年間、バーバラはこの山に登った唯一の女性であり続けた。

 しかし、バーバラは自叙伝にこう記している。「マッキンリー登頂は、私の人生最後の大冒険にはなりませんでした。それどころか、私の人生はその後も冒険だらけだったのです」

 ブラッドフォードは地図製作の専門家でもあった。そこで2人は、壮大な地図作成計画に乗り出す。作業を始めたのは1970年。航空写真やレーザー測量機器、ローラー距離計を駆使し、700回近くもヘリコプターを飛ばした。そして7年の年月をかけ、米ナショナル ジオグラフィック協会のためにグランドキャニオンの完全な地図を完成させた。

 さらに、ニューハンプシャー州のホワイト山や、デナリの地図も作った。1984年にはネパールに赴き、エベレストの地図作成に取りかかったものの、高熱を出したバーバラは、急遽米国に戻って治療にあたらざるを得なくなった。それでも、4年後には約1000平方キロメートルにわたるこの地域の地図が完成、ナショナル ジオグラフィック誌に掲載された。

 1988年、ウォッシュバーン夫妻は、エドモンド・ヒラリーやジャック・イブ・クストー、メアリー・リーキーおよびリチャード・リーキーらとともに、ナショナル ジオグラフィック協会の100周年記念で表彰された15組に名を連ねた。その後も、夫妻はエベレストの積雪量調査などをおこなったほか、バーバラは学習障害がある生徒たちにリーディングを教えていた。

 バーバラは後にこう語る。「アラスカを本格的に探検した女性探検家のパイオニアという実感はありませんでした。わかっていたのは、唯一の女性として、ついていくのに精一杯だったことだけです」。バーバラが亡くなったのは2014年、100歳の誕生日まであと2カ月というときだった。夫は7年前に先立っていた。自分のことを「たまたま登山家になった1人の人間」と書くバーバラには、女性だからといろいろ騒がれる理由はわからなかった。
文=NINA STROCHLIC/訳=鈴木和博

0 件のコメント:

コメントを投稿