2018年12月26日水曜日

永住者、失踪者、労働者──日本で生きる「移民」たちの実像

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181219-00010001-newsweek-int
12/19(水) 、ヤフーニュースより

<国会で外国人労働者受け入れ拡大をめぐって議論が紛糾するなか、日本の移民問題に詳しいライターの望月優大氏が本誌12月11日号に10ページのルポを寄稿。その第1章を公開する>
この国で「移民」という言葉がかつてこれほど取り沙汰されたことがあっただろうか──。

日本で暮らす外国人が年々増加し、在留外国人数は今年6月時点で263万7251人と過去最高を更新。政府はこの勢いをさらに加速させようと臨時国会に入管法改定案を提出し、来年4月に「特定技能」という在留資格を新設しようとしている。

だがそんな提案をしながらも、政府は「移民」という言葉を意図的に避けている。自分たちは日本で定住する外国人を増やしたいわけではなく、一時的な人手不足に対応するために「いつか帰る外国人労働者」を受け入れているだけ──その言い分を維持することで、日本が「日本人」だけの国であり続けてほしい人々をなだめすかしたいかのようだ。しかし、そう思いどおりにいくものだろうか。

現実を見れば、日系人のビザ取得を大幅に緩和し、後の技能実習制度につながる研修生の在留資格を創設した89年の入管法改正(90年施行)以降、日本で10年、20年と暮らす外国人はどんどん増えてきた。政府が意図しようがしまいが、今では永住権を持つ外国人が100万人を突破している。それこそが、終わりに近づく平成という時代の偽りようもない結果だ。

日本で働く外国人は大きく4種類に分けられる。(1)在日コリアンや日系人など「身分」に基づく在留資格(「永住者」含む)を持つ人々、(2)留学生アルバイトなど、本来は就労以外の目的で来日し「資格外活動」として一定の制限内で働いている人々、(3)途上国への国際貢献や技能移転を建前とする「技能実習生」、(4)就労そのものを目的とする「専門的・技術的分野」の在留資格を持つ人々、この4種類である。

だが、何十万、何百万と数値化された人間の塊ではなく、一人一人の外国人は何を考え、どんなことに悩み、どんな選択をしてきたのか。数字の裏側にある息遣いを知るために、神奈川県横須賀市、福島県郡山市、大阪府豊中市と、日本のいろいろな土地を訪ねて、そこで暮らす外国人に直接話を聞いて回ることにした。

日本で30年近く暮らしてきた日系ペルー人夫婦、実習先からの失踪を決断した技能実習生、週1日だけ許された休みに仲間たちとサッカーに興じるベトナム人労働者たち。永住者、失踪者、労働者──今ここに確かに存在する、「移民」たちのリアルを追った。
第1章:永住者たちのリアル
臨時国会で入管法についての議論が始まった11月半ばのある日、私は新宿駅のホームで日系ペルー人3世のカブレホス・セサル(39)と待ち合わせた。11歳で親に連れられて来日し、今では自らのルーツを生かして医療通訳として活躍するカブレホス。彼には、以前「移民」をテーマにしたウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」で取材をしたことがあった。

この日は私からのお願いで、横須賀市の追浜で30年近く暮らす彼の叔母夫婦に話を聞くことになっていた。外国人労働者の受け入れ拡大が議論される今だからこそ、かつて外国人労働者として呼び寄せられ、既に「移民」としてこの日本社会に定着している日系人たちの声を聞きたい、私はそう考えていた。

新宿から追浜までは、湘南新宿ラインと京急本線を乗り継いで1時間ほど。オッパマと読むその町は、日産の巨大な工場を擁し、バブル景気絶頂の約30年前から多数の日系人を労働者として吸収してきた。

駅前の焼鳥屋で落ち合った日系3世のナカシマ・ドゥラン(57)と2世のナカハタ・パトリシア(57)夫婦もそんな日系ペルー人。日本での暮らしは既に28年を数え、現在は永住権を持っている。日本生まれで日本育ちの2人の娘もあっという間に20代になった。

日本に来た当初は1年間の「出稼ぎ」のつもりだったそうだ。当時のペルーはテロとインフレに悩まされており、日系人だけが日本に行けることを「当時働いていたクリニックの同僚が羨ましがっていた」と、ナカハタは言う。ナカシマのペルー時代の月給は、わずか200米ドルだった(89年当時のレートで2万5000円ほど)。

2人はそれぞれイノウエという派遣会社に片道渡航費分の30万円を借金して来日。まずは栃木県真岡市にある寮に連れていかれたという。寮の運営はナルセという別の派遣会社で、そこには42人のペルー人がいたことをナカシマは覚えている。ナカハタは日本といえば東京の近代的なイメージしか持っておらず、真岡の風景に驚いた。12月のペルーから来たばかりでとても寒く、一緒に来た姉と「もう帰りたい」と泣いた。

その寮は派遣先が決まるまでの待機場所。1カ月ほどたって、2人とも追浜にある日産の下請け企業へと派遣された。

ナカシマに割り当てられたのは車の座席の頭の部分に手で布をかぶせる仕事。ラインの流れ作業の一部で、朝6時から夜10時までの16時間、毎日同じ作業を繰り返し、最初の1週間であっという間に腕が動かなくなった。来日する前に「月給3000ドル稼げる」と聞いていたが、当時は実際にそれぐらいの収入があったという(90年当時のレートで40万円以上)。

ナカハタは車のドアの内側にドリルで取っ手を留める仕事を担当した。来日前は事務所を掃除する内容の動画を見せられていて、自動車部品という話は全く聞いていなかった。最初は1年間の契約だったので、前の夫との間の息子はペルーに置いてきていた。1年間の出稼ぎの後にはペルーに戻るつもりだったのだ。

しかし、現実は彼女の想定どおりには進まなかった。同じ職場で出会ったナカシマとナカハタは91年に結婚。2人の娘が生まれ、時給制で働く夫婦にはさらなるプレッシャーがかかった。家族の生活を支えるための週6日に及ぶ長時間労働の日々。光の速さで時間は流れた。

2008年にはリーマン・ショックで職場の外国人が全員解雇され、コミュニティー全体がパニックに陥る。年越し派遣村の開設など日本全体が失業の波にのまれるなかで、政府は日系人の失業者対策として1人当たり30 万円の帰国支援金の支給を決定。職を失い、それまで死に物狂いで蓄えてきた貯金を使い果たすことを恐れた家族や仲間たちが、わずかな「手切れ金」をもらって航空券を買い、帰国していったという。

最初は出稼ぎ目的でやって来たナカシマとナカハタは、それでも帰らなかった。「娘がいたから」とナカシマ。ナカハタは「たぶん娘が生まれたとき」に、これから先もこの国で生きていくことを決めた。彼女は2カ月前、病気の父に会いに91年の結婚以来初めてペルーに帰国したが、27年ぶりに帰った母国は「とても違う国に見えた」という。

一方、ナカシマは老後はペルーに帰りたいと思っている。15年ほど前にはペルーに家も建てた。帰るのか、帰らないのか。今も、夫婦の間で意見は一致していない。

2人は出稼ぎのつもりでやって来た。政府も短期の労働需要に応えるかのように日系人への門戸を開いた。しかし、結果として起きたのは永住権の取得と30年近くにも及ぶ日本での定住だった。追浜で目の当たりにした現実は、今なお政府が外国人労働者の受け入れ拡大を「移民政策ではない」と言い続けていることの非現実性を改めて浮き彫りにしていた。誰がどう見ても、2人はこの国で暮らす「移民」であるように思えた。

自分のことを「移民」だと思いますか? そう聞くとナカシマはすぐさま「そう思う」と答えた。ナカハタのほうは少し思案して、論理的にはそうだけれど「言い方の問題」だと言った。そして、「おまえは外人だ」と攻撃的な言い方で言われたら傷つく、それと一緒だと言い添えた。

2人は論理的には「移民」である。だが、多数者がその言葉を外国人を社会の一員として迎え入れるために使うのか、それとも排除するために使うのか。少数者として生きてきたナカハタはその差異に敏感に反応していると思えたし、多数者としての私がその言葉をどんなふうに使っていくのか、改めて問い掛けられているのだと思った。

ナカハタはこんな経験もしている。中学生時代の長女を怒鳴りつけた教師に抗議した際、彼女はその教師から「日本の文化に慣れてください」と言われた。だが、彼女はペルーで生徒を怒鳴る教師など見たことがない。同化を迫る社会の中で、ナカハタは自分が信じる筋を通すために戦う必要があった。「日本の文化や日本人を尊重しますけど、私は日本人ではありません」──彼女はそう言い返した。

それでも、2人は日本で長く暮らしたことを全く後悔していないという。ナカハタは、人生の半分にまで至った日本での28年間を「絶対的にポジティブな思い出」であったと言い、そして「私たちはとても親切な日本人に出会ったので」と付け加えた。最初の会社で上司だった男性は2人のことをいつも気に掛けてくれ、永住権申請の際には保証人にまでなってくれたのだと。

ただ1つだけ、ナカシマは日本語を覚えられなかったことを「ちょっと後悔している」と話した。工場にはペルー人やブラジル人が多く、生活もペルー人のコミュニティー内で完結していたので、日本人との接触が少なかった。「日本にいるにもかかわらず、やはり私の世界というのはペルー人コミュニティーですね」。来日当時は「おはよう」すら知らなかった。その後は少しだけ日本語が上達したものの、28年がたったこの日の取材でも、カブレホスによる通訳がなければ込み入った話を聞くことは難しかった。現在、2人が日常的に交流のある日本人の友人は1人もいないという。

日本語ができたら「おそらく今の私の状況は全く違っていただろう」とナカシマは言った。「もしかしたら今頃お金持ちになっていたかもしれない」と笑うナカハタに、「冗談冗談」とナカシマも笑いながら応じた。ただし、これから来る外国人は、ある程度日本語を勉強してから来たほうがいいと彼は思っている。そして、それは「自分自身の経験から」だと。

今もナカシマは日産関係の工場で働いている。時給は1400円。ナカハタは果物の選別工場で働いている。時給は980円。昔と違って、周りにはフィリピン人やベトナム人の女性たちがいる。ナカシマのすぐそばで働くネパール人の若い女性たちは、本当は日本人からの指示が理解できていないのに、日本語が理由で解雇されるのを恐れて聞き返すことすらできない状態にあるのだという。時代は変わった。そして、何も変わっていない──。

電車での帰り道。通訳を仕事にするカブレホスに言葉とコミュニティーについて聞いてみた。「コミュニティーにいると楽。でも向上心がどこかで失われてしまうと思うんです。そんな親の姿を見ている子供たちも同じ。工場の仕事に残ってしまう。みんなにもっと可能性あるぞと呼び掛けていきたいんです」

静岡県富士市で暮らしていた彼は、20代前半で自ら日系人のコミュニティーを離れ、上京を決めた。東京で働き始めると、ペルーでは「すごい企業の営業マン」だった父がなぜ工場の労働者にとどまっているのかと疑問に思うようになった。なぜ日本語を勉強してもっといい企業に行かなかったのか。父にそう聞くと、父の答えはナカシマやナカハタの答えと同じだったという。つまり、週6日仕事をして、子供ができて、周りに安心できるコミュニティーがあった。そして、時間だけが過ぎていった。

カブレホスは今、東京近郊で4人の子供を育てている。現在高校1年生の長女が小学生のころ、「警察官になりたい」と言われてぎくりとした。この国では、永住権だけでは警察官(※)にはなれない。そのとき初めて帰化のことを真剣に考えたという。「もしそれが夢だったら、パパとママ頑張って帰化するよ」

※事実関係に誤りがあったため、「公務員」を「警察官」に訂正しました(2018年12月18日11:30)。

日本で30年近く暮らし、今では永住権を持って生活している人々。最初は「出稼ぎ」のつもりでも、いつの間にかこの国に定住する「移民」になっていた。不況を理由に政府が帰国を促しても、日本で生まれ育った娘たちのために帰らなかった。2018年、いま日本に「出稼ぎ」のつもりで来ている外国人たちの暮らしはこれからどうなっていくのだろう。これからさらに30年後、彼らとこの国との関係は一体どんなふうになっているのだろうか。
望月優大(ライター、「ニッポン複雑紀行」編集長)

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