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「保阪君、雲の上の人に会う気はあるか?」と、昭和史研究の第一人者である故・半藤一利氏に声をかけられた著者。これを機に、「2013年から2016年の3年間で6回も、天皇、皇后両陛下(現上皇、上皇后)に御所にお招きいただき、それぞれ数時間にわたる“雑談”を、都合20時間以上重ねた」という貴重な記録が一冊になった。陛下に教わった、ソ連も勝てないアフガニスタンの強さの秘密とは?本稿は、保阪正康『平成の天皇皇后両陛下大いに語る』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● エリザベス女王の戴冠式で チャーチル首相の歓待を受けた 最初にお目にかかった年の前年、両陛下はウィンザー城で開催されたエリザベス女王即位60周年記念式典(編集部注/2012年の6月に開催)に参列されていた。そのとき26人の各国君主と代理王族が勢ぞろいした記念撮影が話題になった。つまり、その時すでに陛下とエリザベス女王は、女王の戴冠式(1953年)以来、60年にわたるご交流を続けてこられていたわけだ。 「私にとっての成人式は20歳でなく18歳だったんですよ。その翌年に1カ月くらいかけて船と列車でロンドンに行きました」 1953年3月30日、横浜港から大型客船プレジデント・ウィルソン号で出発された陛下は、サンフランシスコに到着した後、北米大陸を列車で横断し、ニューヨーク港からクイーン・エリザベス号で英国に向かわれた。ロンドン到着は4月28日であった。 陛下は、翌々日の30日にダウニング街10番地の首相官邸で開かれた午餐会に主賓として招かれている。時の首相は、6年ぶりに政権に返り咲いていた御年78のウィンストン・チャーチルだった。 「チャーチル首相が首相官邸の午餐会に招待してくれましてね。握手するなり、私を慈しむように接してくれました。いろんな思いが私にも伝わってきました。チャーチルさんは私を抱えるようにして椅子まで案内してくれ、席に座らせてくれた。本当に慈父のようでした」 当日、陛下にお供した首席随員の三谷隆信侍従長や松本俊一駐英大使はじめ、日本側はどうなることかと気を揉んでいたが、結果は大成功だった。雰囲気を大きく変えたのは、午餐会でのチャーチルのスピーチだったという。三谷は、後にこう振り返っている。 ● チャーチル首相のスピーチは 将来の日英関係を示唆していた 〈食後チャーチル首相は殿下のため挨拶に立った。彼は秘書官が2階の書斎から持ってきた馬2頭が並ぶ、高さ1尺余りの銅像を指して、これは自分の少年の頃、母が日本に旅行した記念にもち帰った土産品であると、昔の思い出などから話をはじめ、 「日英両国の間にはかつては、失敗もあり、不明もあったが、いまやこれらのことはすべて過ぎ去った過去のことである。殿下には過去に対する責任はない。ただ将来あるのみの幸福な方である。 日本はこの馬の銅像の示すように、美術の面においても素晴らしいものをもつ国である。願わくは今後の世界はより多く美術を愛し、より少なく戦艦、大砲を必要とするようになりたい。 英国には女王は統御するけれども、支配しない。大臣は過ちを犯すが、女王は過失をおかさないという原則があるが、われわれ政治家はしばしば意見を異にし、激しい論争をする。しかし結局は平和のうちに議をまとめて進む。どうか殿下もこの我々のやり方をご覧になってご帰国願いたい」 という趣旨を諧謔を交えて面白く語った。首相の演説は新聞には掲載されなかったが、将来の日英関係を示唆するものとして、我々は感銘深く聞いた〉(『回顧録 侍従長の昭和史』)
エリザベス女王の戴冠式は6月2日にウェストミンスター寺院で行われた。 「戴冠式には、いろいろな国の若い皇太子が来ていて、彼らと話ができたのが楽しかった。特にエチオピアの皇太子とは親しく懇談しました」 「エチオピアの皇帝と言えば、ハイレ・セラシエですね。その皇太子でしょうか」。私がたまたま覚えていた名前を出すと陛下は「よくご存じですね」と言われた。 ハイレ・セラシエ1世は英女王戴冠式の3年後、日本が国家元首として戦後初めて迎えた国賓で、当時大きな話題になった。『昭和天皇実録』にも詳しく書かれているほどで、私や半藤さん(編集部注/故・半藤一利。昭和史研究の第一人者であるジャーナリスト)の世代は親しみをもって記憶している。 ● ウェストミンスター寺院での戴冠式 陛下に用意された席は最前列だった 美智子さまはこうした話題の時はじっと黙って聞いていて、知っている人の名前が出ると短く質問される。エチオピア皇帝の訪日の話が出た際には、 「それは私がこちらに上がった後だったでしょうか」 とお聞きになった。皇室に入ることを「上がる」とおっしゃる。エチオピア皇帝の訪日は「上がる前」ということになる。「上がる前」「上がった後」という表現をしばしば使われた。 戴冠式の朝、ウェストミンスター寺院に到着してみると陛下に用意された席は最前列だった。祭壇に向かって右側にソ連駐英大使、ネパール王族夫妻、陛下、サウジアラビア王子、イラク皇太子が並び、左側に米国、ラオス、ベトナム、エチオピア、アフガニスタン、カンボジアの各国代表が並んだ。 戴冠式の翌々日には、エチオピアの皇太子から午餐に招かれた。このとき親しくなられたのだろう。エチオピア皇帝が最初の国賓になった背景には、皇太子同士の関係もあったのかもしれないと思った。 2022年9月にエリザベス女王の訃報があった時、宮内庁は、英女王の戴冠式に出席した外国代表で、即位60周年祝賀行事にも出席したのは、陛下とベルギー国王アルベール2世陛下のお二方だけだったとわざわざ発表している。エチオピアでは1974年に軍事クーデタが起こり、ハイレ・セラシエ1世は廃位され、その皇太子は1997年に米国で亡くなっている。 夜、御所をお訪ねすると食事をご用意いただくこともあった。応接間の続きの間が食堂になっていて、少し高いテーブルで椅子にかけていただくのだ。
食前酒のあと、天ぷらに野菜の煮つけ、魚料理もあったと記憶している。ごはんは茶碗に半分ほどよそってあった。天ぷらにした山菜について美智子さまが、 「これは御所でとれたんですのよ」 とおっしゃったり、食前酒について、 「これは私の妹がヨーロッパで買ってきたお土産なんです」 と説明してくれたりしたことがあった。 ● ソ連をも撤退させたアフガニスタンの 巧みな戦術を陛下に教わる 私たちのほかには給仕の係が1人いるだけで、時折「おかわりはいかがでしょうか」と聞いてくるだけだ。食卓ではごく普通に食事をめぐる会話が弾んだ。 「ごゆっくり食べてくださいね」 「これで足りますか」 と美智子さまは気を遣ってくださる。私も半藤さんも健康のことを考え、あまり食べ過ぎないようにしていたので食事は20分ほどで終わった。食事の後はいったん休憩が入り、両陛下がお部屋をいちど離れた後、10分ほどしてからまた応接間で懇談が始まった。 エチオピアとの縁は意外だったが、もうひとつ陛下の口から出た話で意外だった国がある。アフガニスタンだ。エリザベス女王の戴冠式には、アフガニスタンの王子も招かれており、その王子の話からアフガニスタンの話になった。 アフガニスタンには、ザーヒル・シャーという国王がいたが、エチオピアと同じく1973年にクーデタで王朝は倒された。その後、1979年に親ソ政権支援のためソ連軍が侵攻したが、泥沼化し10年後には撤退を余儀なくされる。2021年4月には、バイデン政権が米軍のアフガニスタンからの撤退を決断した。2001年の同時多発テロ以降、駐留を続けたものの、国内は安定せず、アメリカもソ連と同じく手を焼いて放り出した。多民族国家であり厳しい山岳地帯が続く国だ。大国の武力をはねのけてきた歴史がある。 半藤さんは聞いた。 「私も少し調べましたけれど、なかなかわかりませんでした。あのソ連でもアフガンに勝てなかった理由は何だったのでしょうね」 陛下は「私が理解している範囲ですが」と前置きして説明を始めた。大要、次のような話であった。 「例えば、渓谷の谷間の道を戦車隊が入ってきますよね。するとアフガニスタン軍は最初の戦車と最後の戦車をまず叩く。すると戦車隊は前にも後ろにも進めなくなる。そうして残りの戦車を囲んで攻撃する。そういう戦術をアフガニスタン軍は採ったようですね。地形を生かした戦術が巧みだったと聞いています」
● 現在の国際情勢にかかわる話は あえてしないよう心がけていた 半藤さんは、「ほうたしかに、それは巧みですね」と感心した。私も「なるほどそうだったのですか」とうなずいた。 陛下がどうしてこのような話を知ったのかはわからない。以前、現代ロシアの専門家袴田茂樹氏から、「陛下はロシアの歴史について詳しいですよ」と聞いたことがあったので、もしかすると袴田氏のご進講の席で知ったのかもしれない。もっとも皇太子同妃両殿下時代にアフガニスタンを訪れ、バーミアンの石窟寺院等もお訪ねになられているから、前々からあの国の歴史にご関心をお持ちだったのかもしれない。 美智子さまは、アフガニスタンを訪問された直後と、同時多発テロに先立ってタリバンがバーミアンの石仏を破壊した時に御歌を詠まれている。 バーミアンの月ほのあかく石仏は御貌削がれて立ち給ひけり(1971年) 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在さず(2001年) こういう歌を残されているが、アフガニスタンの話題のとき美智子さまはじっと私たちの話を聞いていらした。私たちの話の中に「佐官クラス」という言葉が出た時には、「サカンとは何ですか」とお尋ねになった。これには陛下ご自身が「大佐、中佐、少佐のことを指すんだよ」と解説された。その対話の呼気と吸気が見事に合っていた。 歴史の話は、陛下のほうがご関心があり、美智子さまのほうは、思い出を話されるほうがお好きな方という印象が残った。話が現在のほうに進んでくると、陛下もいつしか何もおっしゃらずにお聞きになっている。私たちは現在の国際情勢にかかわるような話は、あえてしないように心がけていた。
保阪正康
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