Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/8a6438c05f4403abb4de34af3fc90fe407c197e2
人食い動物の逸話は世界中にあり、現実でありながら親和性を帯びた物語として数え切れないほどの人々の心をつかんできた。しかし、436人の命を奪った雌のベンガルトラ「チャンパーワットの人食いトラ」の物語ほど、リアルで身の毛がよだつものはない。 このトラは2つの国を恐怖に陥れ、その足跡には死と絶望が残された。そして、1907年にようやく射殺されたときには、仕留めたハンターの心に変化をもたらした。このトラを仕留めたジム・コーベットは後に、人食い動物の追跡者から自然保護論者に変貌を遂げたのだ。 しかし、1頭のトラがどのように悪名高い存在になり、軍隊をかわし、インドの野生生物保護の方向性を変えることになったのだろうか? ■「恐怖の時代」は、狩りの失敗から始まった 物語は1890年代後半、ネパールの森から始まる。のちに仕留められたインドの村の名を冠して呼ばれることになるトラが人食いトラになったのは、自らの選択ではなく、絶望的な状況に置かれた結果だった。 生息地の破壊と獲物の減少により、トラはすでに大きな生存圧力にさらされていた。追い打ちをかけるように、おそらくはハンターの銃弾によって上顎と下顎の犬歯を失い、通常の獲物を狩ることができなくなった。 この負傷は、耐えがたいほどの痛みを引き起こしただけでなく、トラを絶望的な状況へと追い込んだ。その結果、このトラが生き延びるための唯一の手段が、野生動物より動きが遅く、見つけやすい獲物、つまり人間を狩ることとなったのだ。 人食いトラの襲撃は、ネパールの小さな村々から始まった。当初、村民たちの犠牲はそれぞれ別の悲劇だと考えられていた。しかし、犠牲者が増加するにつれて、恐怖が急速に広がっていった。後述するが、人食いトラが軍隊に追われてネパールを去ったとき、すでに200人の命が奪われていた。 インドに入った人食いトラは、より大胆かつ頻繁に人を襲うようになった。普通のトラのように人との接触を避けるのではなく、白昼堂々と狩りを行い、一帯を恐怖に陥れた。
軍隊さえも、人食いトラを止めることはできなかった
「チャンパーワットの悪魔」の恐怖が広がるにつれて、人々は畑を放棄し、村ごと移住し、地域の経済は完全に停止した。 人の居住地のすぐそばまで来ているにもかかわらず、人食いトラが姿を見せることはなかった。英国の植民地政府が懸賞金を用意すると、名声と富を夢見て、地元のハンターたちが追跡を開始した。 しかし、捕獲に成功するハンターはいなかった。 ■軍隊さえも、人食いトラを止めることはできなかった ネパールからインドへの脱出行は、チャンパーワットの人食いトラのたくましさを物語っている。 この人食いトラは、ネパールで軍隊に包囲され、絶体絶命の状況に追い込まれた。ところが果敢にも、ネパールとインドを隔てるシャールダー川に飛び込み、泳いで国外に脱出したのだ。 川を渡るだけでも危険だったが、この脱出行を成功させたことでチャンパーワットの人食いトラは、恐れ知らずの獣としての地位を確固たるものにした。 インドに入ると、人食いトラはすぐ狩りを再開し、未知の地形にも難なく適応して殺りくを続けた。 多くの場合、殺りくの痕跡は、引き裂かれた衣服、人骨、響き渡るトラのうなり声だけだった。それらは、組織化された捕獲作戦さえもかわす捕食者の恐ろしさを人々の心に植え付けるのに十分だった。 チャンパーワットの人食いトラは、ハンターたちから逃れるため、狩りと狩りの間に30km超も移動することもあった。女性と子どもばかりを狙う恐ろしい手口を編み出し、しばしば森のそばで働く人を狙った。長年の観察によって人の行動を熟知したこのトラは、他の人食い動物とは違う、唯一無二の存在だった。
ジム・コーベットのような人物が必要だった
■流れを断ち切るには、ジム・コーベットのような人物が必要だった 1907年、状況は限界に達していた。インド・ナイニタールの副総督は、平和を取り戻すため、人食い動物のハンターとして名を馳せていた鉄道職員のジム・コーベットに協力を要請した。 ナイニタールのあるクマーウーン地方の丘陵地で生まれ育ったコーベットは、これまで人食いトラの捕獲に失敗してきた多くのハンターたちとは異なり、地元のジャングルを熟知していた。 チャンパーワット村で16歳の少女が殺された後、コーベットによる追跡が始まった。村民300人とともに少女の血痕をたどり、人食いトラの縄張りを明らかにした。 コーベットは、村民たちをバリケードのように配置し、叫び声と太鼓の音でトラを隠れ家から追い出した。そして地形を読み、トラの脱出経路を推測した。 人食いトラはついに姿を現し、村民に向かって突撃してきた。 コーベットの銃弾は当たったが、致命傷には至らず、人食いトラは決死の前進を続けた。銃弾を使い果たしたコーベットは、村民の散弾銃を借り、わずか6mの距離からとどめを刺した。 チャンパーワットの人食いトラの死によって恐怖の時代は終わったが、それは、人食い動物に対する私たちの理解が形成された瞬間でもあった。コーベットと村民たちはトラの死体を調べ、折れた犬歯がこのトラを人食いへと駆り立てたことを知った。 コーベットはその後も人食い動物の狩りを続けたが、その関心は次第に、狩りから自然保護へと移っていった。生息地の破壊と人間の侵入こそが人食い動物を生み出し、自分はその排除を依頼されているのだと認識していた。 その後の数十年にわたり、コーベットはインドで最も声高に野生生物保護を叫ぶ一人となった。コーベットの努力により、1936年にはインド初の国立公園が設立され、後にジム・コーベット国立公園と改称された。 チャンパーワットの人食いトラの遺産は、記録に残されているだけでなく、自然保護の継続的な取り組みとして生き続けている。人食いトラの伝説的な物語は、共生の必要性を浮き彫りにしている。その教訓は間違いなく、1世紀以上前よりも今のほうが大きな意味を持っている。
Scott Travers
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