2019年7月2日火曜日

【話の肖像画】チベット難民の医師・西蔵ツワン(67)(2)豊かだったチベット時代

Source:https://www.sankei.com/world/news/190701/wor1907010003-n1.html
2019.7.1、GOOGLEニュースより

【話の肖像画】チベット難⺠の医師・⻄蔵ツワン(67)(2) 豊かだったチベット時代 2019.7.1 07:21 | 国際 | 中国・台湾  〈ネパール国境近くの、貿易が盛んな商業都市シガツェ で、⽗、カルチェンさんと⺟、チメさん、妹のヤンチェンさ んの4⼈家族で育った〉  実家は貴族階級の名家などではなかったのですが、裕福な 家庭でしたので、亡命する10歳までは何不⾃由なく育てて もらいました。⺟はいつも美しく着飾っていましたし、炊事 や洗濯などは何⼈もいるお⼿伝いさんがすべてやってくれま した。⽗は仕事で不在がちでしたが、私は優しい⺟とお⼿伝 いさんに世話されて、妹と⼀緒に⽢いお菓⼦を⾷べ、庭で楽 しく遊び、幸せな時間を過ごすことができました。  〈⽗はチベットの役⼈で、「塩の道」と呼ばれるチベット とネパールやインドを結ぶ交易路を統括する仕事をしてい た〉  ⽗はもともとシガツェ郊外のタシロンボ寺で修⾏した学僧 で、今でいう博⼠号を取得するほど熱⼼に勉強したそうで す。  かつてのチベットでは僧院が教育の場でした。中国⽀配へ の抵抗運動が武⼒鎮圧される「チベット蜂起」が起き、各地で僧院が破壊された1959年まで は、チベット全⼟に6千以上の僧院があったといいます。  ただ、僧院での⽣活は厳しく、共同⽣活を営みながら、早朝から深夜まで、院内の仕事を分担 してこなし、あらゆる種類の宗教的儀礼を⾏い、独習もしなければならない。⽗は勉強は熱⼼に したようですが、かなりやんちゃな性格で、僧院での⽣活は⻑続きしなかった。若い僧は当番で 厨房(ちゅうぼう)の仕事、買い出し、⾷事や茶の給仕などを担当するのですが、井⼾のない僧 院から町中まで⽔をくみに⾏く仕事を割り当てられた⽗は、⽔の代わりに酒を買って持ち帰り、 怒られたことがあったそうです。  そんなわけで⽗は役⼈になったのですが、塩の道の統括というのは、チベットから⼤キャラバ ン(隊商)を組んで岩塩をネパールやインドに持っていく、その代わりにインドから⽶などの物 資をチベットに持って帰ってくるというのが仕事です。  ⾯⽩い仕事だったのでしょう。シガツェを拠点に頻繁に出張し、インドでの活動拠点だった英 国の植⺠地時代の雰囲気が今も残るダージリンやカリンポンから、蓄⾳機や英軍が使っていた銃 の弾倉、ガスマスクなどを⼟産物として持ち帰り、家に飾っていました。  ⻄洋の⽂化に触れる機会の多かった⽗は、当時のチベット⼈社会の中ではハイカラな⼈でし た。出張時には、第⼆次世界⼤戦や朝鮮戦争など世界情勢に関する情報も仕⼊れて上司に報告し ていたと聞いています。  〈⽗は教育にも熱⼼だった〉  僧院で学び、社会的地位を得る上での教育の重みを理解していたのでしょう。就学前の私に家 庭教師をつけて、チベット⽂字を習わせました。チベットでは、きれいな字を書けると教養があ るとみなされます。この時期に勉強の習慣を⾝につけてもらったことが、後々の⽇本留学につな がったように思います。(聞き⼿ 平⽥雄介) 

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