Source:https://www.sankei.com/life/news/190704/lif1907040011-n1.html
■苦しかった難民キャンプ
〈チベットを支配した中国から1962年に亡命した西蔵さん一家は、いったんネパールに腰を落ち着けた〉
国境を越えてネパールに入ったとき、周囲は緑豊かで花が咲き乱れ、とても開放的な気分になりました。家族4人で新しい生活が始まるという期待感がありました。
でも、チベットとネパール、インドを結ぶ交易路「塩の道」の途中にある小さな村にたどりつき、父に「しばらくの間ここに住むんだよ」と言われた家を見てがっかりしました。ちょうど雨が降っていたのですが、木の屋根の隙間からの雨漏りがひどくて、とてもみすぼらしく見えたのです。
チベットで住んでいたシガツェの家には立派な仏間もありましたし、町に出れば映画を見ることもできた。ネパール国境に近くインドとの貿易が盛んな商業都市でしたから、今思えば発展していたのでしょうね。
洗脳教育が行われていた中国式の学校でも、真面目に勉強して教師に褒めてもらうことがありましたから、あのまま頑張っていれば北京に行けたはずなのに、ここには学校もないじゃないかと、将来の展望を描けずに不満に思うこともありました。
〈ネパールでの暮らしは3カ月ほどで終わった。子供の教育を重視する両親はインドの都市部への早期移住を決意し、一家は東部ダージリンへ向かった〉
ダージリンに到着してからも貧しい暮らしに変わりはありませんでした。父は共同事業を起こそうと友人に金の延べ棒を託したのですが持ち逃げされ、無一文に。その日暮らしを続け、いよいよ物ごいをしなければいけないところまで追い詰められたとき、難民キャンプに入れることになりました。
このキャンプを運営していたのは、法王(ダライ・ラマ14世)様の兄の妻、ミセス・ドンドゥップです。父はチベットの役人として働いていましたから、その縁で助けていただいたようです。
難民キャンプに移ってからの父は炊事場でコックとして働き、朝から晩までエプロンをして食事をつくり、食器を洗っていました。母は、それまで仕事などしたことのない人でしたが、キャンプにある糸巻きの工場で一生懸命働いていました。シガツェで優雅に暮らしていた両親の姿が記憶にありましたから、ショックでしたね。家族4人で住んでいたのも6畳くらいの一間を2家族で分けた部屋です。間仕切りはありましたが、1つの豆電球を2家族で分け合うような生活でした。
ただ、ダージリンの難民キャンプには学校がありました。チベット語と算数に加えて、中国語の代わりに英語を習うようになったのが中国式とは違うところです。もちろん洗脳教育なんてありません。この学校で私は、後に日本留学をともにする友人たちと出会います。彼らは、チベット人の抵抗運動が中国に武力鎮圧された59年の「チベット蜂起」をきっかけに亡命された法王様の後を、家族とともに追いかけ、一足早くインドへ来ていました。(聞き手 平田雄介)
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