Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/3b6ffd0c74c6c8ee523963805894ba1b1b4dd389
本田圭佑擁するパロFCか、ネパールの雄チャーチボーイズか。AFCチャレンジリーグ、プレーオフ。間違いなく最高峰ではない。しかしながら互いの思惑と誇りが交錯した泥まみれの死闘は、本場プレミアリーグにも匹敵する熱を、確かに帯びていた。 発売中のNumber1103号に掲載の[ナンバーノンフィクション]本田圭佑「今夜、アジアの片隅で」より内容を一部抜粋してお届けします。 【伝説フォト】本田の白Tシャツ&グラサン姿がスゴい迫力…マイナス20度のロシアで息も凍るプレー、W杯の衝撃ゴール&PK戦で一人祈る姿など「持ってる男・ケイスケホンダ」のキャリアを一気に見る!
10歳の少年が夢見たブータンの奇跡
すべての始まりはパロ空港の駐車場に設けられたささやかなスクリーンだった。 ヒマラヤ山脈の東端に位置するブータンでは、伝統文化を守るために長らくテレビ視聴が禁止されていた。国民はテレビ放送の解禁を1999年まで待たなければならなかった。 ただし、例外もあった。そのひとつがブータンに駐留するインド軍である。ブータン軍を訓練するためにインド軍から軍事訓練チームが派遣されており、彼らはパラボラアンテナを設置することができた。 インド軍は国民との交流のために、ときおりパロ空港でテレビ上映会を開催した。'90年イタリアW杯の際には、西ドイツ対アルゼンチンの決勝を上映した。 10歳だったカルマ・ジグメは、初めて見たサッカーに一瞬で魅了される。 特に目を奪われたのはアルゼンチンのディエゴ・マラドーナだ。左足でボールに魔法をかけ、相手を翻弄する。試合こそ敗れたものの、マラドーナの輝きは勝敗を超越していた。少年はいつかブータンの地にサッカーの花を咲かせたいと思った。 少年が創立したクラブがブータンに奇跡をもたらすのは34年後のことである――。
「負の歴史」を変えるべくなりふり構わぬ強化
アジアの多くの国にとって、レベルを問わず国際大会は憧れの存在だ。W杯のアジア枠は8.5に拡大されたとはいえ、中堅国以下にとってまだまだ高嶺の花である。アジアカップの出場も24に限られている。アジアサッカー連盟(AFC)に登録する47団体の約半分は、他の大会に夢を見る場を求めなければならない。 クラブシーンで長らくその受け皿になってきたのが「AFCカップ」だ。 AFC主催のクラブ大会といえばアジアチャンピオンズリーグ(ACL)が有名だが、それに参加できるのはアジアにおけるエリート勢だけである。そこでAFCは下位カテゴリーの大会として2004年にAFCカップを創設した。日本では馴染みがないが、東南アジアや中東にとっては極めて重要な大会である。 約10年前に「FIFAランキング最下位」として話題になったブータンにとってもそうだ。ブータン勢は過去にAFC主催大会で予選を突破したことが一度もなく、'16年からリーグ王者がAFCカップのプレーオフ(もしくは予備ラウンド)に挑み続けてきたが、一向に出場権を得られていなかった。対戦相手は同じ南アジアの国のクラブなのだが、ブータンはこのエリアでも後れを取ってしまっている。 そんな負の歴史を本気で変えようと考えたのが、パロの名家のひとつ、カルマ一家のカルマ・ジグメによって'18年に創設されたパロFCだ。 カルマはクラブの会長に就任すると次々に手腕を発揮する。自身が経営するホテルの敷地内に練習場を建設し、監督には大学で体育学の教授を務めていたプスパラル・シャルマ(通称プッシュ)を招聘。1年目にブータンリーグで2位になり、2年目に早くも優勝を果たした。
3度プレーオフに挑んだがすべて敗退
しかし、その勢いをもってしても「南アジアの壁」は高かった。 パロはこれまで'20年、'22年、'23年と3度プレーオフに挑んだがすべて敗退。ブータンの人口は約78万人にすぎない。選手層に限界があった。 もはや通常のやり方では南アジアのライバルに対抗できないだろう。今年のプレーオフを前に、カルマはなりふり構わない強化プランを思いつく。それは「1試合限定で助っ人を雇う」というものだ。 折しもAFCは'24-'25シーズンを機に大改革を行おうとしていた。ACLを2つのカテゴリーに分け、AFCカップを「AFCチャレンジリーグ」に刷新。さらに外国人枠を撤廃した。ホームグロウンの条件を満たす選手を2人、試合のメンバーに入れれば、何人でも外国人を起用できるようになったのだ。 これを生かさない手はない。パロは南アジアのライバルたちに先駆けて、外国人選手をかき集め始めた。 まずはモンゴルでプレーしていた海野智之を獲得し、次に金城寛大と成田光希を獲得。他国からも選手を獲得し、すでに在籍していた44歳の本間和生らを含めて日本人4人、ガーナ人3人、セルビア人2人、モンテネグロ人1人という多国籍軍ができあがった。 ブータン王者としてAFCチャレンジリーグのプレーオフを優位な戦力で迎えられる……はずだった。
ブータンのビジネスマン対ネパールの牧師
しかし、新たなクラブが勃興しているのはブータンだけではなかった。ネパールにも急成長するクラブが存在した。 ひとりの牧師によって'09年に創立されたチャーチボーイズ・ユナイテッドである。 当初、タンカ・ラル・ライ牧師(通称ルーベン)は選手としてキャプテンを務めていた。いつかネパール1部でプレーするという夢を持っていたからである。 ところが牧師はすぐに現実を突きつけられる。'10年に3部参入のトーナメントに初参加したところ、手も足も出なかったのだ。結局チャーチボーイズが3部に参入するまで約10年間を要してしまう。 だが、牧師には教会の国際ネットワークからスポーツ支援を受けられるという強みがあった。ノウハウを学び、少しずつ基盤を整えていった。 奇跡は突然始まった。'21年、チャーチボーイズは3部で優勝し、2部への昇格を果たす。すると'22年に2部で優勝し、さらに'23年に1部で優勝。3年連続の昇格&優勝はネパール史上2クラブ目の快挙だ。'23年5月にはネパールの電力会社「API Power」がメインスポンサーにつき、名実ともにネパールを代表するクラブになった。 あまりの急躍進のため'23-'24シーズンはAFCライセンスの取得が間に合わず、AFCカップのプレーオフに出場する権利を得られなかった。 ただし代替措置として'24-'25シーズンのAFCチャレンジリーグのプレーオフに出場する権利が与えられた。8月13日にネパールの国立競技場で行われる一戦の対戦相手はブータン王者パロ。 初の国際舞台を目指し、ルーベン牧師はネパール代表選手をかき集める戦略を取った。パロ戦に向けて「アフリカ人選手3人+ネパール代表8人」という先発をつくり上げた。 ブータンのビジネスマン対ネパールの牧師。 両者の知恵と戦略がぶつかり、国の威信をかけた戦いになることは間違いなかった。
まさかの本田圭佑、1試合限定契約?
ところが、名物会長同士の対決という構図を根底から覆すような事変が突如として発生してしまう。 きっかけは7月下旬、パロのカルマ会長がタイ在住の仲介人・真野浩一に宛てた1通のメッセージだった。 「1試合限定の契約で左利きの右ウイングを探している。誰かいないか?」 1試合限定――。試合が終われば無所属、つまり無職になるわけで、一般的なプロ選手であれば受け入れづらい条件だろう。話を聞いて憤慨する選手がいてもおかしくない。 だが、真野は知人に相談するなどリサーチを続けるうちに、思わぬ人物が最適解になりうることに気がついてしまった。 本田圭佑、38歳である。
(「NumberPREMIER Ex」木崎伸也 = 文)
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