2024年9月5日木曜日

「月給1万円」の生活から抜け出すため… ネパールで見た若者の姿は名古屋で死んだ留学生に重なった

 Source:https://www.chunichi.co.jp/article/861130

2024年4月15日 06時00分 (4月15日 06時00分更新)、Googleニュースより
 「みなさーん、元気ですかー」。2023年10月の朝、ネパール第2の都市ポカラ。雑居ビルの一室にしつらえた教室で、日本への渡航希望者に日本語を指導するバンサカリャ・スリージャン(53)の声が響き渡る。小舟が浮かぶポカラの湖。ヒマラヤの山々は雲に隠れていた=ネパール・ポカラで
小舟が浮かぶポカラの湖。ヒマラヤの山々は雲に隠れていた=ネパール・ポカラで
 <前回まで>名古屋市内で2022年に亡くなった、ネパール人のワグレ・ナバラズ=享年(27)=とドゥルガ=同(25)。若い2人はなぜ、遠い異国で命を落とすことになったのか。日本国内や故郷で足跡をたどった。2人はいずれも「留学」ビザで来日していた。出稼ぎ目的ならば、就労時間が限られる留学は割に合わないはず。それでもネパールからの留学生が増加の一途をたどっている理由が気になっていた。
 湖畔から、雄大なヒマラヤの山々を望むリゾート地にほど近い市街地に、教育コンサルタントが運営する「学校」が50軒ほどひしめく。首都カトマンズほどではないが、狭いエリアに密集しているせいか、学校の看板は目立つ。バンサカリャが校長を務める「おはよう教育学院」もその一角にあった。
 バンサカリャ自身に留学歴はないが、この道30年のベテランだ。長らく、留学希望者に日本語を教えてきた。この数年、若者たちの意向に変化を感じている。
 朝の授業に出席していた20代中心の生徒11人のほとんどが、19年に日本政府が新設した在留資格「特定技能」の取得を目指しているという。
 特に人手が不足する建設、介護など12分野で、まずは5年間に限って、ゆくゆくは期限を区切らず外国人材を受け入れる。「移民」の受け入れを長く否定してきた日本の大きな政策転換とされ、海外への出稼ぎが盛んなネパールでもチャンスと捉えられていた。
 バンサカリャも4年ほど前、新制度が始まった年に日本の独立行政法人が催した日本語指導者向けの実地研修に参加した。アジア各国から30人弱が日本に呼ばれ、ネパールで声がかかった4人のうちの1人に含まれていた。「ほら、これ見てください」。額に入れて事務室の壁に飾った修了証書を誇らしげに指さす。
 珍しい日本からの来客のためか、授業のボルテージも上がる。
 前日に勉強したという「~しながら」の復習の場面。「日本ではー、留学生はー、勉強しながらー」とバンサカリャが聞くと、「働いています」と生徒が応じる。
 「ネパールではー、勉強しながらー、働くことができますかー」
 「仕事がありません」
 「みなさーん、ネパールにいたいですかー」
 「いたくないでーす」
 ネパール第2の都市ポカラの市街地に位置する「おはよう教育学院」。授業を見学することになったきっかけは、まったくの偶然だった。海外留学希望者向けの「学校」が並ぶ市街地=ネパール・ポカラで海外留学希望者向けの「学校」が並ぶ市街地=ネパール・ポカラで
 日本国内で相次ぐネパール人の死の背景を探るため、知人に紹介された元留学生に会いにポカラを訪れた...この記事は会員限定です。

日本への留学者は中間層

0 件のコメント:

コメントを投稿