2024年9月5日木曜日

日本のインドカレー店が、どこもメニューがソックリな理由/カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」

 Source:https://ddnavi.com/serial/1303462/a/

公開日:2024/4/27、Googleニュースより

カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(室橋裕和/集英社)第1回【全7回】

 いまや日本中で見かけるようになった格安インドカレー店。そのほとんどがネパール人経営で、いわゆる「インネパ」と呼ばれている。なぜ、格安インドカレー店経営者のほとんどがネパール人なのか? どこも“バターチキンカレーにナン”といったコピペのようなメニューばかりなのはどうしてなのか? そもそも、「インネパ」が日本全国に増殖したのはなぜなのか? 背景には、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさや、海外への出稼ぎが当たり前になっている国ならではの悲哀に満ちた裏事情があった。『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』は、どこにでもある「インドカレー店」から見る移民社会の真実に迫った一冊です。

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カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」
『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』(室橋裕和/集英社)

同じようなメニューの店が多いワケ

「いま日本にはね、4000〜5000軒くらいあると言われてるんですよ」

「そんなに!」

 けっこうな数字に僕は驚いた。教えてくれたのはティラク・マッラさん(59)だ。日本でただひとつのネパール語新聞「ネパリ・サマチャー」を発行し続けて25年というベテランのジャーナリストなんである。編集部は僕が住む新大久保(新宿区)にあり、ご近所なのでたまに遊びに行く。そして編集部の2階にある編集長室で、日本に住むネパール人たちについてあれこれ教えてもらうのだ。ネパール語で情報発信を続けてきた日本唯一のメディアだけあって、マッラさんのもとにはいろいろな話が集まってくるし、ネパール人からの相談も寄せられる。とっても柔和なおじさんなので、みんな安心して話せるのだろう。僕もそのひとりだ。

 そんなマッラさんならきっと「インド料理店を開いているネパール人」について詳しいだろうと思って訪ねてみたのだが、「4000〜5000軒」という数にまずは驚いた(この数字には諸説ある。3000軒ほどではないかと話すネパール人もいる。ちなみに「食べログ」で「インドカレー」と検索すると、全国でおよそ5900軒がヒットする)。

「なんでまた、そんなに増えたんですか?」

「ひとつはね、やりやすい商売ってのがあるんじゃないかな。まず、専門的な難しい日本語はそんなにいらない。カレーをつくって、注文を受けて、料理を出して。いらっしゃいませ、どうぞ、ありがとうございました、あとはメニューの説明くらいでもなんとかやれる」

 確かにそれ以上の会話をレストランで交わす日本人は、あまりいないかもしれない。だからなのか、たまに僕が「このカレー、どうやってつくってるんですか?」「なんでこの場所に出店したの?」とか突っ込んで聞いても、うまく答えられず申し訳なさそうに苦笑する人もよくいる(もちろん日本語が堪能な人もいるが)。

「あとは、お金もそこまでかからない。何千万円なんてなくても、お店を開ける。家賃も安いところを選ぶし」

 これまた確かに、ネパール人経営のインド料理店はいかにもリーズナブルであろう老朽化した建物に入っているのをよく見る。それに、以前はラーメン屋だったのかな、居酒屋かなと、なんとなく想像できる居抜き物件をそのまま使っているところもある。すでに厨房の設備が整っているので、大がかりな工事をせずにすぐ開業できるし初期費用を抑えられるのだ。

「だから店長と奥さん、子供たち、あとコックさんを雇うこともあるけど、自分たちでどうにかはじめられるビジネスなんですよ」

 やっかいなのはビザや店の営業許可といった役所関係の手続きだ。日本人だって相当に手こずるややこしい書類仕事の山との格闘になるのだが、そのあたりは行政書士に依頼する。これは官公署に提出するものなど、オフィシャルな書類作成を行う職業だが、近年では「外国人専門」の行政書士も増えている。入管法(出入国管理及び難民認定法)の研修を受けて専門知識を学ぶことで、外国人の各種申請を代行する「申請取次行政書士」と呼ばれる存在だ。彼らに手数料を払って、自分や従業員のビザ、営業許可などをクリアする。経理関係は税理士にアウトソーシングすればいい。だから日本語があまり得意ではないカレー屋の店主も「ギョウセイショシ」「ゼイリシ」なんて言葉はちゃんと知ってたりする。

 こうして言葉の面でも資金面でも、外国人が比較的手を出しやすい商売が、飲食というわけだ。

 とはいえ、もちろんネパールから来ていきなり店を開くわけではないそうで、

「だいたい8年とか10年、日本のインド料理店で働いて、それから独立する人が多い」

 のだとか。インド料理店といっても、やはり店主はネパール人だ(インド人やバングラデシュ人ということもある)。そこにコックとして雇われ、しばらくは黙々と働く。

「日本で成功しようって夢を持ってくる人たちだからね。将来はこうなりたいって、目標を持って働くわけ。がんばるわけ。料理を一生懸命につくって、どうすれば日本人のお客さんが喜ぶか考えてね。もうカレーのことしか考えてない。だからお金も貯まる」

 そして独立資金とノウハウが蓄積できたら、自分の会社をつくり、店を開くのだ。そこで提供するメニューは、雇われて修業していた店の、まるでコピペのようにソックリなもの。というのも、それでお客が入っていたのだから間違いがないはず、これで日本人を満足させられるはず、と考えるからなのだとか。バターチキンカレーを軸に日本人の好むメニューを用意し、味つけは修業した店のレシピを流用。壁にはヒマラヤと、ネパールの聖地スワヤンブナート寺院の写真なんかを貼りつけて、いざオープンする。こうしたスタイルは、

「失敗できない、なんとしても日本で稼ぎたい」

 という必死さの表れなのだという。冒険してメニューや店のたたずまいにアレンジを加え、お客が入らなくなるのが怖いのだ。話してみれば愛想よくにこにこ笑って、お気楽そうな人々に見えるかもしれないが、みんな人生を賭けて外国に、日本に来ている。自分や家族親族の貯金も注ぎ込んでいる。だからどうしても慎重になるのだ。その気持ちを彼らは「模倣」という形で表現する。

 もちろんコピペではなくオリジナリティを出してくる人だっている。インド料理ではなくネパールの伝統的な料理を出したり、味つけを変えたり。あるいは日本語学校や専門学校経由でカレー界に参入してくる「留学生上がり」は、アルバイトしていた飲食店で学んだ、枝豆だとかタコわさみたいなちょっとした居酒屋メニューを出したりもする。

 しかしやっぱり王道は、修業先の店を模倣するやり方だ。そこには慎重さに加えて、「それなりに稼げている完成品を持ってくれば、成功する可能性も高いのだから、それでいいじゃないか」という考えもある。東南アジアや南アジアではありがちだ。うまくいっていそうなビジネスをそのままコピペすれば、手間もかからない。日本人からすると「もっと工夫を」と言いたくなるのだが、彼らからすれば効率的ということになる。悪く言ってしまえば安直なのである。

 しかも修業先のすぐ近所に出店しちゃうなんてこともある。これは土地勘があるとか引っ越したくないとか、子供を転校させたくないとか、さらにいえば「面倒くさい」とか、あるいは外国人に貸してくれる店舗が限られているのでどうしても似たような地域になるとか、そのあたりも絡み合っているのだが、近所にインド料理店が2軒もあれば需要に対して供給過多となり、お客の奪い合いとなって両者共倒れ……なんてケースを聞くと、やっぱり「もうちょっと営業戦略を」と日本人としては忠告したくなる。

 それでもそれなりに生き残っていったネパール人たちのインド料理店からコックが独立し、近隣地域に似たようなインド料理店を生み出していくという図式が生まれた。細胞分裂のごとく、ひとつの店から暖簾分け的にどんどん枝分かれしていって、同じような店が日本全国に増殖していった……というのが大まかな流れのようだ。

「インネパ」というワードに漂うある種のニュアンス

 本書のテーマである「ネパール人経営のインド料理店」は、巷では「インネパ」なんて呼ばれることがある。この言葉には、

〝本当のインド料理でも、ネパール料理でもないものを出す店〞

 というニュアンスが込められているように思う。これはおもに、インドやネパールなど南アジアの食文化を愛する人々や、エスニックファンからの視線なのだが、そこにはちょっとした「侮蔑」が含まれているのでは……と感じてしまうのは僕だけだろうか。

 確かに現地の文化に詳しい人からすると、「インネパ」は異質に映るかもしれない。インドの味つけとはだいぶ違う、甘みが強くてスパイスの刺激が薄いカレー、やたらにふわふわで巨大なナン、そこらのスーパーで買ったであろうゴマだれドレッシングのかかったサラダを出す店もあれば、インド亜大陸のどこを探したって見当たらない「あんこナン」「明太子ナン」なんてのを出す店もある。

「これのどこがインド料理だあ!」

 と怒るカレーマニアの日本人もいる。日本には本格的・伝統的なインド料理、ネパール料理の店もあるけれど、「インネパ」はどちらともちょっと異なる。

 僕も何度かインドやネパールを旅したことがあるが、現地で出会う料理と「インネパ」はやはり違っていたよな、と思い出す。地元の人が集まる安食堂に入ることが多かったが、インドのとくに北部を回ったときは「ターリー」という定食ばかり食べていた。肉か野菜のスパイス煮込み(これを外国人にもわかりやすいようカレーと称する)、ダルという豆の煮込み、ニンジンや大根などの野菜をスパイスで漬けたアチャールで、ライスをかき込む。お米ではなくパンが出てくることもあるが、ナンではなくロティやチャパティで、乾いた粗野な感じの味わいがなかなか好きだった。

 街の食堂ではいつもこんな感じで、たとえばバターチキンカレーやタンドリーチキンやナンは、少し高めのレストランか、外国人旅行者相手のレストランでしか見なかったように思う。よそいきの料理なのだ。家庭料理とはちょっと違う。「インネパ」はそれを土台にして、さらに日本人向けにアレンジしたもので、確かにインド人がふだん口にしている料理とはやや距離がある。それを、しかもネパール人がつくっているのだ。そこに違和感を持つ人もいる。日本人的に考えると、中国人のつくったカリフォルニアロールを寿司と呼びたくない、というような心理かもしれない。

 そしてネパール料理はもっと「ナン+カレー」から距離を感じる。ダルとお米、アチャール、副菜には発酵させた高菜とか野菜のスパイス炒めあたりが基本で、素朴な山里の味といった感じだ。そんな料理で育ったネパール人が、日本でインド料理店を開いていることに疑問を感じる日本人もけっこういる。

 しかしだ。スパイスにも南アジアにも、あまり詳しくない日本人(僕だってこっち寄りだ)は、「インネパ」の料理をおいしいと思って食べている。たとえ本物のインド料理ではなくても、ネパール人がつくっていても、日本人に広く受け入れられたからこそ4000軒とも5000軒ともいわれるまでに増殖したのではないか。

 日本を席巻したといっても過言ではないわけだが、つまり「インネパ」のメニューは「この国でいかに成功するか」に特化したものなのだ。そこに「きちんとしたインド料理を出す」「故郷ネパールの伝統料理を日本人に提供したい」という気持ちは、はっきり言ってしまうとあまりない。なぜなら、それは彼らの目指すビジネスモデルではないからだ。南アジアの料理文化に詳しい、いわばニッチな日本人よりも、今日のランチはラーメンかカレーか迷った末に「インネパ」にやってくる会社員のようなフツウの日本人のほうがはるかに多いし、こちらをターゲットとしたほうが間口が広い。商売としては堅い。

 そんなごく一般的な日本人からしてみれば、ネパール料理はややイメージしづらい。南アジアの料理なら、やっぱりインドなのだ。そしてインド料理といえば、誰もがカレーやナンを思い浮かべる。その味つけや食感も、日本人の味覚に合わせたほうがウケるだろう。カレーはスパイスを効かせすぎず、ナンは甘く柔らかく、そして「映え」を意識して過剰に大きく。ランチ営業をしているまわりの店に合わせた価格帯、日本人の好む日替わりメニューなんかも用意する……。こうしてなるべく幅広い層の日本人をお客とするために練られた、いわば最大公約数的なメニューを「インネパ」は提供している。

自分たちがつくっているカレーに興味がない?

 だが、それにしたって「インネパ」はあまりにもメニューが似通いすぎてはいないか。なにかマニュアル的なもの、あるいは伝道師・コンサルタント的な存在がいるのだろうかと思ったのだが、

「そういう人はいないと思います」

 と小林さん。あくまで自分が修業した店の味を受け継ぎ、提供している人が多いようだ。マッラさんもやはり、コンサルなどはいないと言う。

 まずはコックとして何年か働き、お金を貯めた人が独立・開業し、店のオーナーとなって、今度は新しくコックを雇う立場になる。そして修業した店のレシピをそのままコックに伝え、同じようなカレーをつくらせて、お客に出す。このときにオリジナリティを発揮して新メニューを開発するコックも中にはいるが、「オーナーの決めたことだからね。言われた通りにつくるのが仕事」とマッラさんが言うように、たいていの人は淡々と来る日も来る日も指示されたレシピでカレーをつくって日本人をもてなすのだ。やがて自分もお金が貯まって独立したコックは、オーナーになるとやはり同じようなレシピのカレーを出す……。埼玉県南部で話した、ある「インネパ」の店主は言う。

「料理は前に働いてた店のと同じもの出してるよ。ほら、このメニュー表もデータもらってそれプリントして。うちは許可もらってコピーしたけど、そこは人によるんじゃないかな」

 コピペであることを堂々と教えてくれるのである。また、店のウェブサイトの写真やロゴを勝手に使われていると話す経営者もいた。日本人ならやや後ろめたさを感じるかもしれないが、ともかくこうして似たような店がどんどん広がっていったようだ。小林さんとマッラさんが言う「失敗したくない」という気持ちのもと、「ビジネスとして」料理をつくり続けているのだ(しかしこの「コピペ文化」の根底にはまた違った理由があることも、僕はのちに知ることになる)。

「彼らのまかないを見るとね、店で出しているものとぜんぜん違うものを食べてるわけですよ」

 小林さんは言う。「インネパ」のスタッフたちもふだん食べているのはネパールの家庭料理なのだ。素朴な味つけのダル、青菜やじゃがいものタルカリ(スパイス炒め。おかず全般を指す言葉でもある)、マスタードがほどよく効いた大根やニンジンのアチャール……「インネパ」のカレー世界とはまるで別モノだ。

「店の料理はあくまで仕事でつくっているものなんですね。だから自分たちが出している料理にあまり興味はない、もしかしたらおいしいと思ってつくっていないかもしれない。そんなことも感じます」

 完全にビジネスとしての割り切りなんである。すべては日本で稼ぐための手段というある種シビアな、そして日常的に「インネパ」を利用している身からすると、ちょっと寂しさを覚えてしまう話なのであった。

 もちろんこのあたりは人によって温度差がある。自分たちの「ソウルフード」とは違うものでも、熱意を込めてつくっている人もいるし、研究に余念がない人もいる。あるいは日本人が喜びそうな「新ネタ」を次々に投入する店もある。そんな人々がたとえば「ごまナン」「チョコナン」を生み出し、あるいは既存のカレーのレシピに手を加えて人気になったりもする。それをまた、ほかの店が模倣していく。

「インネパ」のメニューはこうして少しずつ姿を変えながら、しかしオリジナルの姿はしっかりと保ち、日本各地に伝播していったと思われる。

インド経由、名古屋行き

「生まれはバグルンです」

 ネパール中部の観光都市、ポカラにも近いガンダキ州バグルン郡の、ガルコットという村の出身だ。中部ヒマラヤ山脈に抱かれた山深いところで、なかなかに暮らしはたいへんなようだ。このバグルンやガルコットという名を、このあとの取材で僕は聞き続けることになる。

 エベレストやアンナプルナ連峰といった外国人観光客の多いトレッキングルートからも外れ、これといった産業のないバグルンは古くから出稼ぎ頼みの土地だったそうだ。多くの村人が山を離れて、国境を越えてインドに仕事を求めた。タパさんもそのひとりとして、なんと13歳のときにインドに渡り、首都デリーで働いていた。

「コックではなくて、掃除や洗濯や、そういう仕事をずっとしていました」

 インドで肉体労働に従事しているネパール人は多い。子供の姿もよく見る。僕がインドをよく旅していた90年代でも児童労働は珍しくもなかったし、タパさんが子供のころ、70年代はもっと当たり前だったろう。街角の安食堂や安宿に入っても小間使いの子供が働いている姿をどこでも見たものだ。あの中にはネパール人の子もたくさん交じっていると聞いたことはあるが、タパさんもそのひとりだったのだろうか。

 一度は東部のアッサム州でも働いたタパさんは17歳のときに再びデリーに戻り、それからはずっとインド料理のコックとして働いてきた。そして24歳のころに、新聞で「アクバル」の広告を見つけ、運命が大きく変わるのだ。日本行きというチャンスをつかんだわけだが、

「はじめは2年くらいのつもりだったんです」

 と言う。短期の出稼ぎのはずだった。だから「アクバル」で2年間を過ごし、1985年(昭和60年)にいったん故郷のバグルンへと戻る。村の人たちはタパさんを取り囲み、日本の話を聞きたがった。どんな国か、言葉は、食べものは、仕事は……。

「そんなに働きやすいんだったら、あの人の息子も日本につれていったらどうかとか、相談させてほしいとか、そういう話もあってね」

 タパさんはバグルンに日本のことを知らしめる伝道師だったのだ。この1985年まで、バグルンから日本に働きに行く人は(おそらく)ほとんどいなかった。しかしタパさんが故郷に錦を飾ったこの年を境に、日本を目指すバグルンの人々が増えていく。自分たちもコックとして日本で働いてみよう……そんな夢を与えたのは、タパさんだったのである。

 千葉・柏にある「ラージャ」のディル・カトリさんもバグルン・ガルコットの出身だ。彼がコックとして日本に来たのは1995年のことだ。そしてタパさんと同じようにデリーで働いているときに、日本でレストランを出店しているインド人に誘われ、チャレンジしてみることにしたそうだ。この「インド経由・日本行き」が初期のコックにおいては主流だったと、新大久保のジャーナリスト、ティラク・マッラさんも言っていた。

「昔はネパールからまっすぐ日本に来るコックはいなかったんですよ。インドのレストランやホテルの厨房で働いてるときに、そこの社長に『日本に支店を出すから一緒に来ないか』って持ちかけられたって人が多かった」

 あるいはタパさんのように募集を見て応募して日本に来た人もいる。ともかく日本におけるインド料理の草創期、少ないながらもいたネパール人コックはそのかなりの部分がインドでの実務経験を買われた人たちだった。

インド人がネパール人コックを重宝した理由

 タパさんにそんな話を聞いているうちに、次なる疑問が湧いてくる。

 なぜインド人はネパール人をコックとして雇ったのだろうか。そこには両国における経済格差があり、ネパール人は安価な労働力だったろうという事情はわかる。しかしもうひとつ理由があるのだとタパさんが言う。

「たとえばインドのコックさん、自分の仕事しかやらない。カレーだったらカレーだけ。タンドールだったらタンドールだけ。洗い場だったら洗い場だけ」

 それはインドのカースト制度の意識が影響した、伝統的な分業制だ。カーストは階層でもあり、また細分化されて職業とも密接に結びついている。このカーストはこの職業、というように仕事と身分が固定化・世襲化されているのだが(それも近年の経済成長やグローバル化で変わりつつあるそうだが)、だから同じ厨房で働いていても自分の仕事しかやらない人がほとんどだ。カーストそのものというより、そこに根差した考え方からくる風習としての分業のようだが、タンドールでナンを焼くのと、カレーを煮込むのは別の仕事なのである。ましてや店の掃除や、お客の応対なんかはまったく異なる仕事と認識される。兼任するものではないのだ。

「でもネパール人は、ひとりでぜんぶやっちゃう」

 インド人と同じヒンドゥー教徒が多いネパール人だが、カーストによる職業的な縛りは比較的少ない。だから掃除から調理からレジ打ちから、ひとりでなんでもこなすのだ。経営者からすれば、その柔軟性はありがたい(しかしこれは、のちに〝ワンオペ〞で酷使されるコックの増加にもつながっていく)。

「いまもうちにはインド人のコックがいるけど、開店前に私が店を掃除してたって、あの人たち立ってるだけ。なにもしない(笑)」

 仮にも店長であり超ベテランのタパさんがせっせと掃除をしているのに、インド人コックは手伝うこともない。それが彼らの「ふつう」だからだ。

「しょうがないから息子の奥さんに来てもらって、掃除のアルバイトしてもらってる」

 加えてインド人コックは、イスラム教徒の場合がある。インドは人口14億2000万人のうち、およそ14%の2億人ほどがイスラム教徒だ。それにムグライ料理はイスラムにルーツがある。だから日本のインド料理店で働くコックの中にはイスラム教徒もたくさんいるのだが、彼らはたとえば豚肉を扱えない。豚由来のさまざまな調味料も同様だ。ほかの肉でもイスラムの戒律に則って処理されたものでないと安心できない。その点、ネパール人は食材のタブーがない。

 幅広い食材を扱えて、なんでも仕事ができるネパール人は、こうしてインド人をサポートする立場として重用されるようになっていく。そしてインドの公用語であるヒンディー語は南アジアで広く通じる。ネパール人でも理解する人は多く、言葉の壁が低い。だから日本に進出してカレー屋を開いたインド人の中には、ネパール人を信頼して一緒につれてきた人もけっこういたというわけだ。

入管はチラシ配りもチェックしている?

「インネパ」といえば居抜きの店が多い。もともとラーメン屋だったんだろうな……なんて丸わかりのカウンターがあったり、居酒屋の雰囲気が残っていたりする。あらかじめ調理設備が整っていれば安く上がるから居抜きを選ぶネパール人が多いのだが、それでも内装工事にはけっこうお金がかかる。

「自分の好みでどれだけお金をかけるかだけど、居抜きの場合は500万円くらいかな。イチからだとその倍はかかりますね」

 と岐阜県で「サティ」を営むセレスタ・ハリさんは言う。こちらのお店はインドやネパール、ベトナムなどの食材を売るブースも併設されていて、席数36(うち座敷席8)という規模の店だ。こちらも、もともとはネパール人のカレー屋だったが、そこを居抜きで使っている。開業はコロナ禍がはじまったばかりの2020年。

「前はコックだったんですが、働いてた店がコロナで売り上げ落ちちゃって。仕事も減ったんですね。別の仕事も探したんですが、なかなか見つからなくて。国に帰るか、日本で自分でビジネスやるか、どっちかしかなかった」

 そこで思い切って勝負に出ることにした。コックとして日本各地で腕を振るってきた16年間で培った経験と財産とを、賭けてみようと思ったのだ。

 進出する場所は岐阜にした。以前もこの街のカレー屋で働いていたことがあり、なじんでいたからだ。岐阜市南部、まわりにも飲食店の立ち並ぶ県道沿いに、やはりコロナ禍でつぶれてしまった「インネパ」の物件があることを知り、そこを借りた。内装工事には500万円ほどをかけて、がらりと模様替えをし、木目調の温かな雰囲気でまとめた。ネパールの土でつくったという素焼きのおしゃれなコップもあって、日本人にとっても、なかなかに居心地のいい空間だ。コロナで外食をしない人が増えているからと、食材の販売もする。もちろんテイクアウトにも対応する。

 こうして内装や営業形態を整えていったが、店の家賃は月15万5000円。はじめに払い込む保証金は3か月ぶんだ。内装工事に加えてこの金額、さらに在留資格を取得するために手続きを行政書士に依頼する必要もあるし、食材の仕入れなどなども含めて、かなりの入り用なんである。しかしセレスタさんは勤勉だった。

「日本に来てはじめの10年くらいは、日本語も日本のこともよくわからないから、働くだけだったの。遊びにも行かない。行くとこ知らないから(笑)。だからお金、かなり貯められたんです」

 そういうコックもけっこういるそうだ。黙々と来る日も来る日もカレーをつくり続けているうちに、故郷に送金をしながらも、手元にそれなりのお金が残るようになる。

「でもいまは、日本語も覚えたしクルマの免許も取ったし、日本のこともわかってきたから、あちこち遊びに行ってお金使っちゃう」

 と笑うセレスタさんだが、そのお金で独立してみることにした。このあたりは人それぞれだ。日本で10年、15年と働くうちに貯まったお金で、なにをするのか。ネパールに帰って家や土地を買うか、日本で店を開くのか……。

「自信がある人は日本でビジネスやる。ない人は帰る」

 そう話すセレスタさんは「自信があるほう」だったようだが、異国で長い時間をかけて貯めた大切なお金をどう使うのか、なににベットするのか。それはやっぱり重い決断なのだろうと思う。

 なお店舗を借りる際に必要な保証人は、やっぱり日本人でなくてはという大家が多いそうだ。それでも話し合ってネパール人の保証人でもOKとなることもあるし、どうしても日本人の保証人を立てられず行政書士や税理士に相談したり、あるいはその物件をあきらめることになったりもする。都内のあるカレー店経営者はこう話す。

「ターミナル駅そばのビルとか、そういう大きな物件は私たちみたいな外国人で小さな会社には絶対に貸してくれませんね。店を出したい地域をじっくり歩いて回って、半年くらい借り手がついてない空き店舗とか、そういう物件は外国人でも借りやすいんです」

 やっぱり外国人はなにかと不利なのだが、行政が手助けしてくれることもあるのだと、この経営者は続ける。

「たとえば、食品衛生管理者の資格あるでしょう。飲食店に必ず必要なやつ。講習会と簡単な試験があるんですが、私のときは難しい漢字を読めない外国人を別室に集めて、口で問題を説明してくれたんですよ。優しいですよね」

 もちろん講習の内容をしっかり理解していなければ資格は得られないが、こうした対応は自治体にもよるようだ。

 ともかくこうして開業したあとは、店の売り上げとにらめっこする日々が続く。それは日本人の店主も同じだろうけれど、ひとつだけ違うことがある。外国人の場合、経営している会社が赤字だと、在留資格の延長に支障が出てくるのだ。

 外国人はふつう、自らの滞在目的にあった在留資格を取得して日本に住んでいるのだが、これには1年とか3年とかの有効期間がある。で、リミットが近づいたらまた書類を用意して入管で審査し、延長が認められればまたこの国で暮らせるが、なんらかの問題があって延長が却下されれば、帰国するしかない。そして会社の社長がおもに取得する「経営・管理」の在留資格の場合、「なんらかの問題」のひとつが、赤字なのだ。外国人のビザをおもに扱う行政書士Kさんによれば、

「赤字で即ビザNGというわけではないですが、経営状態が悪かったり債務超過があると、たとえば有効期間が1年しかもらえなかったり、雇っているコックの在留資格も短い期間になってしまうことがあります。一方で経営が安定していて、優良な会社だと入管が認めれば、3年、5年がすんなりもらえる場合も」

 1年か、3年か。これは大きな違いだろう。1年なんてあっという間に過ぎてしまう。しかし3年あれば、いくらかは腰を据えて商売に打ち込めるのではないだろうか。商売だけでなく、住む部屋の契約や、子供の学校など、向こう1年間しか滞在できる保証がないのでは、なにかと暮らしにくい。しかし3年、5年と暮らせるメドがついているなら、もう少し長いスパンで物事を考えられる。日本になじもう、言葉をもっと覚えようというモチベーションにもつながるだろう。行政書士Kさんは言う。

「日本人の飲食店だったら節税のために売り上げを少なく見せる場合がありますが、外国人の場合は逆です。在留資格のために少しでも売り上げを増やしたい。だからそのぶん、税金もがっぽり持っていかれちゃうんです」

 円滑な在留資格更新のためには、安定した売り上げに加えて、日々の努力も問われるのだという。セレスタさんは熱弁を振るう。

「もし赤字だったら、その原因はどこにあるのか。オーナーはきちんと経営しているのか。お客さんが少ないなら、増やすためにどんなことをしているのか。そういうところまで入管はチェックするんです。ちゃんと宣伝しているのか、チラシとか配っているのかって」

「インネパ」のお店ではこれも定番、店のメニューを列挙したチラシのことだった。割引クーポンがついていたりもする。ところどころ日本語があやしい箇所があったりしてそこはご愛嬌だ。ときおり店頭や街角で、このチラシを配っているカレー屋の外国人を見かけるが、そんな街頭営業を行う「インネパ」がやけに多いことも気になっていたのだ。そこにはやはり「在留資格更新のために安心材料を増やしたい」という意識が働いていた。

 実際のところ、このチラシがどれだけ入管に対して効力があるのかは不明だ。そういう条文があるわけでもない。しかしこれも、メニューやレシピと同様、「安全運転」のための材料のひとつであるようなのだ。前に働いていた店と同じような料理を出したり、成功店のアイデアをコピペして取り入れるのも、異国で稼ぐ上での「安心感」を増やしたいから。チラシ配布は在留資格が更新しやすくなるポイントのひとつ。どこまで意味があるかはともかく、そういう説があるならやってみようというのは、やはり移民ならではの必死さの表れなのだろうと思う。

 ちなみに神奈川県のある「インネパ」では、このチラシを我が子に配らせていると地域で問題になったことがあったそうだ。ネパール人としては親の仕事を子供が手伝う母国のノリだったのだろう。僕も小学生のころから親の町工場を手伝っていたので「チラシ配りくらい、別にいいのでは」と思うのだが、現代の日本人は人権意識も高い。「児童虐待では」と心配され、周辺住民に諭されて、子供を使うことはやめたという。移民とは、異なる価値観を生活圏に持ち込んでくる存在だ。そこが面白さでもあり、難しさだと実感したエピソードでもあった。

5000軒にまで急増したウラ事情

 コックが独立開業してオーナーになり、母国から新しくコックを呼び、そのコックも独立し……という暖簾分け的なシステムのもとに「インネパ」が広がっていった経緯を見てきたが、ここまで爆発的に増殖した理由はほかにもある。そのひとつが「コックのブローカー化」だ。

「外国人が会社をつくるには500万円の出資が必要じゃないですか。ネパール人にはすごく大きなお金です。家族や親戚や銀行から借りる人もいますが、中には誰かに出させる人もいるんです」

 こう語るのは、自らも都内でカレー屋を営むネパール人Rさん。この500万円を何人かのネパール人に分割して支払ってもらうのだという。

「たとえば、新しい店で3人のコックを雇うとします。この人たちはネパールでスカウトしてつれてくるんです。日本で働ける、稼げると言って」

 そしてビザ代や渡航費、手数料などの名目で代金を請求する。仮に1人アタマ150万円を出してもらえば計450万円で、オーナー本人の出費は50万円で済む。日本行きのチャンスと考えた人たちは、借金をしたり家や土地を売ったりしてこのお金をつくってくる……そのあたりまではまだ、健全だったかもしれない。

 やがて、カレー屋ではなく人を呼ぶほうが本業になってしまう経営者も現れた。多店舗展開し、そこで働くコックをたくさん集めてきて、もはや会社設立の500万円とは関係なく、1人100万円、200万円といった代金を徴収する。

「なんで自分の店でこれから働く人にお金を払わせるのか。おかしな話なんですよ」

 それでも海外で稼げると思った人たちは、どうにかお金を算段して志願する。彼らを呼べば呼ぶほど儲かるわけだから、誰だっていいとばかりに調理経験のない人もコックに仕立て上げた。本来、調理の分野で「技能」の在留資格を取得するには10年以上の実務経験が必要となる。しかし一部のカレー屋オーナーは日本の入管に提出する在職証明などの書類を偽造し、新しくやってくるコックのビザを取得していたのだ。カレーとナンのつくり方なんか自分が教えればそれでOKという経営者たちが、次から次へと母国から人を呼んだ。

 だから現場にはスパイスのこともよく知らなければ玉ねぎの皮も剝けないコックがあふれてしまった。「インネパ」の中にはぜんぜんおいしくない店もちらほらあるのはそのあたりに理由がある。僕が取材したあるカレー屋のコックはこんなことを教えてくれた。

「日本に来て初めてナンを食べたよ。おいしいって思ったね。でも、つくり方は知らなかった。そうしたら社長が『YouTube見て勉強して』だって。はじめはタンドールでヤケドばっかしてたけど、やっと慣れてきた」

 この方はいまも大阪で元気にカレーをつくっている。Rさんは言う。

「このプロセスをコピペする人たちがどんどん出てきたんです。だから日本でカレー屋がこんなに増えたんですよ。これはもうビザ屋であって、カレー屋ではありません」

 コックが経営者となる過程でブローカーになって人材ビジネスを展開し、彼らに大金を払って日本に来た人たちもやがて同じようなルートをたどる。こんなサイクルができ上がった。肝心のカレーはぜんぜんおいしくなくて、閑古鳥が鳴いているのに、ふしぎとつぶれない……そんなインド料理店も見るようになったが、こうした店の本業は「ビザの手配」なのだとRさんは語る。また、ネパールから呼んだ人間を自分の店で働かせるならまだしも、工場に「派遣」するケースもあったと聞く。コックの分野で「技能」の在留資格を取っているなら、工場で働くのは完全に違法である。

 ちなみに経営者は、自分のツテでコック志願者を集めたり、ネパール側のブローカーと協力するなどしているそうだが、親戚筋であってもお金を要求することがあるようだ。そのあたりの額は人間関係にも縁戚関係にもよるという。

「でもふしぎなものでね。近い親族だから、あの人には世話になったからって、お金を取らずに日本に呼んでるいい人もいるんだけど、私が見る限りそういう人たちはみんな成功してない。元手の軍資金がないから。借金なしで日本に来たほうも、ハングリー精神がないからなのか、あまりがんばらない。だからうまくいかない」

 なにが正しいのかわからなくなってくる話なのだ。

 さらに、コックたちへの搾取も目立つようになった。約束したよりもはるかに安い給料で働かせるのだ。月に8万円、9万円程度しか払わないこともあるという。経営者の子供の送り迎えとか、家事までやらされているコックもいるそうだ。

「抗議をしても、じゃあ誰がコックのビザを取ってあげたの、と。やめてもいいけど、日本のことも日本語もよくわからない、料理もロクにできないのに、借金も背負っていて行くところあるの、と」

 こうして同国人の食い物にされているコックもいるのだとRさんは訴える。同じような境遇のコックが安いアパートで同居しているし、勤め先はレストランだから食べるものだけはあって月10万円以下の給料でもなんとか生きてはいけるが、きわめて苦しい。故郷での借金の利息もある。それでも平均月収1万7809ネパールルピー(約1万7100円、国際労働財団による。2019年)の祖国にいるよりは、と耐え忍ぶ。

カレー屋のそばにカレー屋

「見てくださいよ、すぐそこでしょう」

 都内でインドカレー店を営むネパール人、Jさんは顔をしかめる。すぐ先に、似たようなカレー屋があるのだ。同じネパール人の経営だが、向こうは路地の入口に位置しているためどうも客入りで負けているらしい。

「うちのほうがずっと前から営業していたんです。あっちは後から来て、うちと似たようなメニューで、どれも少しずつ値段を下げているんです。ネパール人同士でこれはないでしょう」

 アタマに来ているからつきあいはないので、いったいどういう考えなのかわからないが、狭い界隈に「インネパ」が2軒もあってはお互いに損ではないかとJさんは嘆く。

「だからネパールは発展しないのかもしれない」

 やや仁義にもとるようにも思うこうしたケースや、安直なコピペ文化、あるいは法外な手数料をせしめるブローカーの存在にしても、ネパール人の間で自浄作用がいまいち働いていないように見えるのはどうしてか。ネパール人と結婚した日本人女性が「大陸の感覚なのかもしれないけれど」と前置きをして、教えてくれた。

「その人がどんなことをしたいのかはその人の問題であって、干渉しないし、良いも悪いも言わないんです。ある種ドライなのかもしれないけれど、それがネパールの世間づきあいの知恵というか。だからカレービジネスにしたっていろんな問題があるのはみんなわかっているけど、それがコミュニティの中でテーマになることはないですね」

 これは物事の是非というよりも、文化の違いなのだろう。その結果、店がうまくいかなくなったらどうするか。売ってしまうのだ。在留資格を取るための「ハコ」が欲しい人はいくらでもいる。値段は場所や広さによってまちまちだ。「インネパ」で店の名前がときどき変わるのを見るのはこのためだ。

月給10万円、現金払い、社会保険なし

 多くの「インネパ」関係者に取材してやはり気になったのは、コックの待遇だ。実際に搾取の対象となっていたひとりが、アルジュン・バンダリさん(仮名、41歳)だ。

「日本に来るときに、紹介料として112万ネパールルピー(約112万円)を支払いました」

 独学で勉強したという日本語で語る。ネパール中部パルバット郡の出身だ。20代のころは、首都カトマンズと、その後インドの首都デリーのホテルでコックとして働いたこともあったそうだ。

「インドのホテルでは〝日本行き〞を待っているネパール人のコックがほかにも何人か働いていました」

 と言うが、アルジュンさんに話が舞い込んできたのは2008年のことだ。先に日本にコックとして行っていた姉の夫のツテだった。その人の遠縁の親戚が、関西地方のある街でインドレストラン「S(仮名)」を開いているという。そこに頼み込み、112万ネパールルピーを家族で用立てて、アルジュンさんは日本にやってきた。

「僕も合わせて7人のネパール人が、一緒に『S』に入ったんです」

 そして、「S」とその系列店で働きはじめるのだが、最初の3週間は無休だった。すぐに別の店に移されたが、そこは繁盛店でお客がひっきりなし。休みは2週間に1日しかなかったが、それで月給は10万円だった。現金払いだった。もちろん社会保険などは一切なかった。

「日本に来る前には、手取りで18万円と聞いていたのですが」

 それでも10万円は、アルジュンさんにとって大きい額だった。当時のネパールは公務員の月給が1万円ほどだったという。アパートは会社が用意していたし、まかないはあるから生活はできるのだ。洗濯機に使う洗剤まで、必要なものは会社の支払いで買い、アパートにはWi-Fiもあったので、そういう意味では「S」は良心的で「ほかのネパール人の店よりは、だいぶましだったと思う」とアルジュンさんは振り返る。それに仕事が忙しく、店とアパートの往復だけで、どこかに行ったり買い物をするような時間もない。だから10万円の給料のうち、毎月3万円を故郷に送り続けた。

「僕はまだ、もらってるほうでした。ネパールとインドでコックの経験があったので。同じ時期に『S』に来たネパール人の中には、コックの仕事がぜんぜんできなくて、給料が6万円、7万円という人もいました」

 アルジュンさんだって実のところ、技能ビザ取得に必要なコックとしての「実務経験10年」という条件を満たしていない。「カトマンズで1年、インドで半年くらいの経験しかありません。カレーもナンもひと通りつくれましたが、うまくはなかったです」と明かす。

 アルジュンさんのような経験不足の、あるいはまったく未経験のコックが、材料とレシピを渡されて回しているだけの店もけっこうあるのだという。そんな店をいくつも経営し、儲けているネパール人がいる。彼らのような経営者の考えはシビアだ。コックがあまりにも安い給料と休みなしの過酷な勤務に音を上げてやめれば、次を補充すればいい。そうすればまた、「手数料」が転がり込む……。同胞から搾取することにためらいがない。

 アルジュンさんは日本に来てから知り合った友人に誘われて、いくらか条件のいい東京の店に移るため「S」をやめたが、そのとき社長からはこう言われたという。

「お前がやめれば、次のやつがまたカネを持ってやってくる。だからある程度うちで働いて、ほかに行くアテができたら、みんなさっさと出ていってほしいんだ」

 低賃金なのも、長時間労働も、あるいは早いうちにやめさせて人の回転を促すためのものなのかもしれない。そうして流浪していくコックを集めて店を開く人もいれば、コック自身が苦労してお金を貯めて開業することもある。そうやってどんどん「インネパ」は増えてきた。移民の夢を食って、日本で増殖したのだ。

「もうネパール人には雇われたくない」と話すネパール人

 2012年に東京に出てきたアルジュンさんは、しぶとく生き残り続けた。いくつかの店を渡り歩き、月給は安いながらも12万円といくらか上がっていた。一時帰国したときに結婚した妻も一緒に暮らすようになり、やがて子供も生まれた。少しずつ日本語を覚え、日本の文化にもなじんでくる。柔らかな物腰と、人懐っこい笑顔が印象的な人なのだ。日本人とも打ち解けやすい性格だったのだろう。日本人の友人も増え、そのネットワークの中で日本人経営のインド料理店に転職をした。

「月給は18万円になりました。もらう額と、書類に書かれていた額が一緒だったことが印象的です(笑)。でも、社会保険はここもなかった」

 次の職場も日本人の店だった。月給は21万円にアップ。社会保険は個人事業主扱いだったが入ることはできた。アルジュンさんは日本で初めて、社会保障の枠の中に入ることになった。

「日本を好きになって、ずっと暮らしたいから永住権が欲しいと思っても、社会保険を支払っていなければ申請もできません。それに年収300万円以下でもダメなんです」

 と言う。劣悪な待遇で働き続けてしまうことが、現在の状況だけでなく未来も閉ざしてしまうのだ。そうならないためにもアルジュンさんは、「日本の会社」かつ「社会保険に入れてくれる」ところを探して、ネパール人や日本人のツテに頼らず、自力で就職活動をはじめるようになる。

「もうネパール人には雇われたくない。ネパール人と働くくらいなら、帰国します」

 そんな覚悟で日本語を磨き、「Indeed」や「飲食店ドットコム」などの日本の求職サイトに登録し、いくつかの会社と面接を重ねた。日本に来てから13年、当初はコックとしてはいまいちだったが、各地で経験を積んできたこともあってスキルは上がっていたし、それに日本語力も認められ、都内や関西にレストランを複数展開する日本の会社に採用された。

「いまの給料は30万円です。社会保険もあるし、待遇はすべて日本人社員と同じです」

 ようやく報われたのだ。そしてアルジュンさんのように、「脱ネパール」を目指すネパール人は増えているという。どうにか日本の会社に就職して、まともな待遇で働きたい。そのために必要なのは、コックとしてのスキルもあるが、なにより日本との親和性だろうと思うのだ。アルジュンさんは「日本人とコミュニケーションを取るのが楽しいし、大好き」と話すし、奥さんも日本人に揉まれながらコンビニで働き、ずっと家計を支えてきた。

 そんな2人が、自宅で昼食をごちそうしてくれた。大根とニンジンのアチャール、青菜の炒め物、骨付きの鶏肉の煮込み……ふだんアルジュンさんがレストランでつくっているものとはまったく違う、素朴なネパールの家庭のメニュー。辛さもほとんどなく、優しい味だった。家庭で料理を担当する妻が教えてくれる。

「そんなにスパイスは入れないんです。塩とオイルが少し。あとはそれぞれのバランス」

 アチャールはでっかいボウルに山ほど盛られていたが、これは近所の日本人にわけるのだという。ネパール人の多い杉並区に住んでいるが、まわりの日本人は「みんなよくあいさつしてくれる」と奥さんは言う。2人の人柄だろう、地域にはなじんでいるようだった。

 気にかかっているのは、ネパールに帰した長男のことだ。5歳までは日本の保育園に入れていたのだが、日本の学校になじめるかどうか不安があったこと、ネパール人向けの「エベレスト・インターナショナルスクール・ジャパン(EISJ)」は学費が高いこと、奥さんが2人目を妊娠して、子育てと出産が重なるといろいろとたいへんなことから、国の両親に預けることにした。いまは向こうの小学校で勉強している。ちなみに息子の将来の夢は、

「ネパールに(アイスの)ガリガリ君の工場を建てること」

 だそうな。「いまは警察官にも興味を持っているようですが」とアルジュンさんは笑うが、我が子の夢を日本からバックアップすることができるだろうか。

 取材の帰路、アルジュンさんは最寄りの駅まで送ってくれた。

「この川のそばをいつも散歩するんです。東京にしては自然がいっぱいで。公園があって、子供が遊べる場所になっていて、子育てにはいいと思うんです」

 そんなことを話しながら、杉並の住宅街を慈しむように歩く。苦労を重ねながら、やっと日本での生活がうまく回りはじめたアルジュンさん一家が、どうか平穏に安心して暮らせるようにと思った。

ヒマラヤの奥地にまである日本語学校

 僕はポカラからバスに乗り込んだ。

 市街地を出ると、すぐに山道へと入っていく。ところどころで舗装が切れ、河原のようなガタガタ道や、ガケすれすれのスリリングな細い道をどうにか走っていく。途中で一度、後輪がパンクし修理に2時間ほどかかったりもした。交通インフラは20年前とあまり変わっていないようだった。

 わずか50km程度の距離なのに半日近くかかって到着したバグルン郡の中心地、バグルン・バザールは、その名の通りなかなかに賑やかな場所だった。幾筋もの道に商店があふれ、色とりどりの服や食品や雑貨やスマホや家電やらが並ぶ。なるほどバザールだ。古くから交易の拠点だったという話を思い出す。そして街を見下ろすように、白銀の峰が美しくそびえる。標高8167mを誇るダウラギリだ。思わず見とれる。なんとも風情のあるヒマラヤのフトコロの市場といった感じだが、こんな地方に来てもやはり目立つのは海外出稼ぎのあっせん業者だ。それも「日本行き」を謳う会社が多い。

「バグルン・バザールは小さな街ですが、うちみたいな企業が10以上あるんですよ」

 日本語学校を営むクリシュナさんは言う。古びた雑居ビルの2階に小さな教室がふたつ。黒板にはたどたどしい日本語が書かれている。壁には日本の地図や、「あいうえお」の50音表も貼られていた。10代から30代まで150人ほどの生徒が学んでいるそうだ。

「ここで日本語を学んで、沖縄、福岡、広島、大阪などの日本語学校に入ります。向こうで日本語を勉強しながらアルバイトで稼いで、卒業したら日本の会社に入って、家族を呼ぶ。それが生徒たちの目標です」

 留学生を送り込むには、日本にある仲介業者を通すこともあれば、学校同士で直接アプローチし合うこともあるという。学費は12万〜16万ネパールルピー(約12万〜16万円)だが、日本に渡航するとなると、この学校が取るコミッション、航空券やビザ、日本側の学校の入学金や授業料などもろもろ合わせて160万ネパールルピー(約160万円)は必要になってくるという。それだけのお金をどうやって用立てるのか。

「親戚を回って借金をしたり、土地を担保にして銀行から借りたりしますね」

 そう説明するクリシュナさんの表情は浮かない。聞いてみれば、どうもこのビジネスに疑問を感じているようなのだ。

「留学生だけじゃないんです。工場や、それにカレー屋で働くために、バグルンからたくさんの人たちが日本に行っています。だから小さな村はもう、働き手がいなくなって、年寄りばかりなんです。おじいちゃんおばあちゃんたちが、日本に行った子供の代わりに孫の面倒を見ている。親の愛情を知らずに育つ子供がどんどん増えている」

 村の若者が丸ごと日本に行ってしまったような集落まであるのだという。だから畑は荒れ、打ち捨てられた家屋が残され、老人ばかりでは不便な山間部で暮らせなくなってしまったため、ここバグルン・バザールに降りてくるケースが増えている。

「村では野菜や米くらいは自分たちで育てられたから、お金があまりなくても生活ができたんです。でもバザールでは違います。なんでもお金を出して買わなきゃならない。現金が必要です。だからまた若者たちが出稼ぎに行く」

 海外出稼ぎがあまりに増えすぎたため、伝統的な自給自足の社会が崩壊しつつあるのだ。そして取り残された子供たちがなにより心配なのだとクリシュナさんは言う。

「年寄りだけではケアしきれません。親の愛をもらえていないんです。だから悪いほうに行ってしまう子が増えている。ドラッグとか、アルコール依存症とか。地域で大きな問題になっているんです」

 僕は日本で出会った何人もの「インネパの子供たち」の顔を思い浮かべた。言葉や文化の壁で苦労していた子ばかりだ。それでも、祖父母のもとに置き去りにするよりはと、カレー屋の親たちは無理をしてでも子供を日本につれてくるのだろうか。

 こんな問題が広がっていても、「日本行き」を目指すバグルンの人々は多いし、こうして語学学校も乱立している。

「仕事がないからです。家族親戚の中で収入を得ているのはたった2、3人なんてところも多いです。その2、3人ももらえて月に1万ルピー(約1万円)くらい。これでは生活ができません。昔は田畑で働いているだけでよかったのですが」

 ネパールの山間部だっていまや資本の荒波に洗われている。モノがあふれるようになったし、それを買うための現金が必要だ。世界的物価高の影響も大きい。スマホもいまでは生活インフラのひとつだ。誰もがFacebookやTikTokを使いこなしている。

「みんなiPhone14が欲しいんですよ」

 自嘲気味にクリシュナさんは呟いた。

 そしてお金のために山を出て、カトマンズすらすっ飛ばして海を越え、日本に渡る。残された里は過疎化していく。それでいいのかと感じながらも、クリシュナさんはこの学校を続けている。

「いろいろな問題があっても、バグルンの人にとって日本行きは希望なんです。だからこの仕事をやっています。家族や村が壊れてしまうことに手を貸しているような気持ちになることもあります。でも、日本語学校の需要はとても大きいんです。私がやらなくても、ほかの誰かがやりますよ」

カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」
ダウラギリ峰を望むバグルン・バザールの街

日本行きの「相場」は120万円

 その後、僕はハリチョールの中心部にある大きな民家にお邪魔させてもらった。家主は以前、近くの学校で校長先生を務めていたというヤム・バハドゥル・スウィシュさん(75)で、地域の顔役のような存在だ。

「うちの息子もひとり、日本に行ってるよ」

 そう話すので、息子さんは日本でなにをしているのかと聞けば、

「カレー屋だよ、ほかにないでしょう。日本人の中ではネパール人といえば、もうカレー屋のコックってイメージしかないんじゃない」

 なんて話す。ハリチョールでは110ほどの世帯があるというが、そのうち10〜15世帯くらいが家族を日本に送っているそうだ。意外に少ないかな? とも思ったが、ネパールの「世帯」は大きい。日本では世帯といえば「両親と子供」を指すことが多いように思うが、ネパールでは「一族」というほどの意味だろう。だから、たとえば父や息子やそのいとこなど7人が日本に行っている世帯もあれば、兄弟や妻や子供などなど30人ほどが日本に移住していった世帯もあるという。ほとんどがカレー屋だ。

「20年ほど前からかなあ、日本に行く人が増えたのは」

 ヤムさんが振り返る。すでに日本で暮らす家族親戚を頼って行くわけだが、その際にかかる費用はなかなか高額だ。航空券などの渡航費だけではなく、ビザ取得をあっせんする業者への支払いだとか、開業費用を折半しようという日本側からの誘いもある。ブローカーもいる。

「120万ルピー(約120万円)以下には下がらないね。うちは170万ルピー(約170万円)かかった。留学の場合は90万ルピー(約90万円)くらいだが」

 この金額をまかなうため、ヤムさんは銀行から借金をし、ローンで返済を続けている。息子はローンの費用を「〝ときどきは〞送ってくる」のだと苦笑いする。日本で生まれた孫は、ネパールの言葉は「ナマステ(こんにちは)」しかわからない。よくSNSで連絡をしているけれど、孫との会話は息子の通訳を介さなくてはならないのが少しさみしい。

「孫には日本でしっかり勉強して、幸せな人生を送ってほしいと思うけれど、本音をいえばネパールに帰ってきてほしい」

 そう語るヤムさんの家は田畑に囲まれ、僕の目にはとても豊かに見える。鶏や水牛は、卵や牛乳やヨーグルトといった恵みを与えてくれる。庭には料理に使うハーブが茂り、バナナが実る。

「ここでは、街の人のようにお金の苦労をしなくて済む。自分たちだけで暮らせる。私はここから絶対に動きたいとは思わないけれど」

 それでも若者は日本を目指すのだ。ハリチョールも近年では高齢者ばかりになり働き手が減っていることから、休耕地がずいぶんと多くなってしまったそうだ。

 逆になにか、出稼ぎが増えていいことはあったのだろうか。聞いてみると、

「やはり収入がよくなった家庭は増えたから、そのぶん子供にお金をかけるようになっている。教育レベルは上がってきていると思う」

 それに日本で稼いだお金でカトマンズやポカラで商売をはじめて、うまくいっている人もいるそうだ。ガルコット自体の過疎化や高齢化は進んでいるけれど、個々の家庭ではカレー屋として働くことで人生をうまく切り開けた人もけっこういるのだろうと思う。

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