Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/b9f80a8c8a56f89faf5b09f7b07428c85834c9ee
松本 卓也(ニッポンドットコム)
御柱祭(おんばしらさい)で知られる長野県の諏訪大社では、古来の自然信仰の名残をとどめる数々の神事が行われている。ドキュメンタリー映画『鹿の国』は、これらの神事を映像に収めながら、しばしば現れる鹿の存在を軸とした新たなアプローチで諏訪信仰の謎に迫る。1月2日に公開されるや、メイン館のポレポレ東中野(東京)をはじめ、連日満席の大入りとなり話題を呼んでいる。弘理子監督に話を聞いた。
「日本のへそ」と呼ばれる場所はいくつかあるが、その中でも長野県の諏訪地域は、地理的にだけでなく、地質、歴史、文化、そして信仰の面からもその呼び名にふさわしいと思わせる要素がそろっている。 諏訪盆地は、日本列島を縦横に走る2つの断層(糸魚川-静岡構造線、中央構造線)が交わる位置にあり、まさに大地を動かす強大なパワーによって形成された。中心には諏訪湖、周囲には八ヶ岳や南アルプスと豊富な自然資源に恵まれ、日本の建国以前から栄えた地であった。打製石器に使われた黒曜石の一大産地としても知られ、縄文時代の遺跡も多い。
諏訪湖を挟む南北には、諏訪大社の上社(本宮と前宮)と下社(春宮と秋宮)が鎮座する。創建は古事記の国譲り神話にさかのぼるとされる日本最古の神社の1つであり、全国各地に1万社以上を数える諏訪神社の総本社。「大社」と呼ばれるようになったのは、元は別々だった上社と下社が統合された明治以降だ。 上社前宮を除いて本殿がなく、ご神体は背後の守屋山(上社本宮)あるいはご神木のスギ(下社春宮)やイチイ(下社秋宮)と、古来の自然信仰の形を今に伝え、その多くの謎が歴史研究家・愛好家を魅了してきた。 特に有名なのが寅(とら)年と申(さる)年に行われる御柱祭。山から切り出した16本の樅(もみ)の巨木を1000~2000人で力を合わせて里へと曳(ひ)き、4社殿の四隅に柱として立てる壮大な奇祭だ。氏子たちが巨木とともに急斜面を滑降する命知らずの勇猛な姿は、映像を通じて広く知られている。
鹿を通して見える諏訪信仰の核
諏訪大社特有の神事はほかにいくつもある。映画『鹿の国』の企画は、年間を通してそれらを映像に記録する試みから始まった。 企画したのは本作のプロデューサー、北村皆雄氏。これまで民俗学をテーマに数々の映画を撮ってきた。諏訪信仰は長野県出身の北村氏が半世紀にわたって研究してきたテーマだ。一方、監督を務めた弘理子氏は広島県出身。諏訪については御柱祭を通じて断片的に知る程度だったという。 「よく耳にしてはいたんですが、それでも“御柱の国”というイメージが強かったですね。これまで2度ほど御柱祭の取材をしたことがあったのですが、本当は何の祭りなのか、どうも分からないなと。ただ、取材すると、そのエネルギーの渦に飲み込まれていってしまう。今回はあえてそれを脇に置いて、諏訪信仰の中核に迫るような映画を作ろうと思いました」 映画は、諏訪大社で行われる年間200回を超える神事のうち、古来の信仰の痕跡をとどめる独自の「特殊神事」にフォーカスしていく。 その1つが上社前宮で4月15日(かつては旧暦3月の酉の日)に行われる「御頭祭(おんとうさい)」。鹿75頭の首を供える神事だ。現在ははく製を使うが、江戸時代には狩りをして獲物の首を捧げていた記録がある。 「御頭祭は狩猟の神事であると同時に、豊穣(ほうじょう)を予祝(よしゅく=前祝い)するものなんです。これを春の初めに行い、その後に苗を育て、田植えをし、収穫するコメ作りの1年が始まります。稲の成長を4段階に分けて、それぞれに農耕の神事を行いますが、諏訪ではこれに必ず御狩神事(みかりしんじ)という狩猟の神事が付いてくる。現代では狩り自体は神事として行いませんが、農耕を司るには贄(にえ)が必要との考えは生きているんですね。そこに諏訪大社の神事の大きな特徴があると思います」 古くから鹿を神前に供え、食してきた諏訪の特異性を示すものとして、全国で諏訪大社だけが発行する「鹿食免(かじきめん)」というお札がある。肉食を禁忌していた時代にも、これを授かれば鹿を食べても罰が当たらないとされた。 「古代の人々は鹿を狩り、その肉を食べるとき、自分たちの体内に命をいただくことを体感していたのだと思います。その行為は自然に対する畏れや敬いと結びついていた。1年の神事を通じて諏訪大社が綿々と伝えてきたのは、命とは何かということ。あらゆるものがつながって、循環していることの象徴として鹿があるんじゃないかと考えました」 こうして弘監督は、鹿を入り口として諏訪信仰に光を当てる新しいアプローチにたどり着いた。その着想は、若い頃ネパールに暮らした経験によるものが大きいと振り返る。 「ネパールの祭礼で供犠(くぎ。いけにえを供える宗教的・呪術的儀式)は身近なことでした。神様にお願いするために手ぶらじゃダメで、一番大事なものとして命を捧げる感覚なんですね。それが諏訪と同じように農耕儀礼と重なっていて、暮らしの中にあったんです。日本に戻って諏訪について知り、特別なものとして語られていることに違和感を抱きました。日本各地で行われてきたはずのことが、なぜ諏訪以外ではなくなってしまったのか、興味が湧いてきたんです」
秘められた神事を再現
御頭祭の祭壇には鹿の毛皮が敷かれ、かつてその上に少年が座っていたとされる。これが大祝(おおほうり)と呼ばれる“生き神“だ。古代より諏訪明神の依り代(よりしろ。神や霊が降りて宿る対象)としてあがめられていた。 上社前宮にのみ本殿があると前述したが、これも昭和に建てられたものに過ぎず、かつてその場所には、大祝が自身に“精霊”を降ろすために心身を清めた「精進屋」があったという。その精霊こそ、諏訪の民の信仰の対象である「ミシャグジ」だ。ミシャグジの“正体”については、さまざまな説が入り乱れ、謎に包まれている。 「諏訪の人々にとっては、何らかの動きを促す力、命を巡らせる力という理解なんですね。私は学者ではありませんから、ミシャグジが何か、答えを出すつもりはないんです。むしろ、なぜ諏訪大社の神事に鹿が欠かせないのか、鹿が何を象徴するのか、それを伝えられたらなと」 神事には、記録にはあるが、行われなくなったものもある。その1つが「御室神事(みむろしんじ)」だ。かつては旧暦の12月22日から約3カ月にわたって、大祝を中心に、「神使(おこう)」という神の使いの少年たちを伴い、御室(みむろ)と呼ばれる竪穴式の穴倉にこもり神事を行ったそうだ。 映画では、この神事の中で行われた芸能の再現に挑む。中世芸能史の研究家・宮嶋隆輔氏がわずかに残る史料と独自に行った調査をもとに、新たな視点で解釈したものだ。 「宮嶋さんは、諏訪から天竜川沿いを下り、山を越えて静岡に至る一帯を調査して回っている方です。『文化の痕跡は辺境に残る』と言われますが、諏訪には残っていなくても、そこから伝播(でんぱ)していった芸能の片りんが今でも確認できるそうです。そうして拾い集めた破片を再構築する作業をお願いしました」 御室の空間では、村人たちが鹿肉を肴(さかな)に酒を飲んで宴(うたげ)に興じ、ユーモラスな歌と舞を奉納して神々を喜ばせる。独特の赤い衣装に身を包んだ神使たちもこれに加わる。 「芸能では、稲作の1年が再現される一方で、神の使いの子どもたちが体の中に命を宿し、それが生まれてくる“再生”の儀礼にもなっています。神使たちは冬が終わると穴倉を出て、稲魂(いなだま)となって地上に戻ってきます。こうして春の初めから、今年も秋には確かに稲が実ると約束してくれるのが御頭祭の予祝なんです」 映画『鹿の国』は、狩猟と農耕が調和した独特の信仰を今に伝える諏訪大社の神事を通じて、日本の原風景をあらためて見つめる手がかりを与えてくれそうだ。 「目に見えない自然の力や命の循環にひたすら祈りを捧げる。こうした感性は、決して諏訪の人々だけではなく、日本人がもともと持っていたはずのものなんです。地形やさまざまな要因によって、諏訪という巨大な盆地の中に、今でもそんな世界が残っている。この映画を観て、私たちは本来こういう国の人間だったのかと感じてもらえたらいいなと思っています」 取材・文:松本卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
・監督:弘 理子 ・プロデューサー:北村 皆雄 ・語り:能登 麻美子 いとうせいこう ・音楽:原 摩利彦 ・出演:中西 レモン 吉松 章 諏訪の衆 ・芸能監修:宮嶋 隆輔 ・撮影協力:諏訪大社 ・製作・配給:ヴィジュアルフォークロア ポレポレ東中野ほかで公開中、全国順次ロードショー
【Profile】
弘 理子 HIRO Riko ネパールに留学し、ヒマラヤの山村に滞在しながらドキュメンタリー制作を始めて以来、“自然と祈り”をテーマに作品を作り続ける。代表作に「ヒマラヤ・娼婦になった女神たち」、「少年と子ヤギの大冒険~ヒマラヤ越え300日・塩の道」、「ガンジス河口 世界最大のマングローブ林に命あふれる」など。『鹿の国』が初の劇場公開長編作品となる。 松本 卓也(ニッポンドットコム) MATSUMOTO Takuya ニッポンドットコム海外発信部(多言語チーム)チーフエディター。映画とフランス語を担当。1995年から2010年までフランスで過ごす。翻訳会社勤務を経て、在仏日本人向けフリーペーパー「フランス雑波(ざっぱ)」の副編集長、次いで「ボンズ~ル」の編集長を務める。2011年7月よりニッポンドットコム職員に。2022年11月より現職。
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