2019年8月21日水曜日

未経験でも世界最高峰へ 日本人最多、エベレストに9回登頂した山岳ガイドの夢

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010000-globeplus-int

8/17(土) 、ヤフーニュースより

濃いグレーの雲が空を覆い、烈風が稜線を吹き抜ける。進むか、戻るか。猶予は5分。5月23日、中国・チベット側の世界最高峰エベレストの標高7760メートル地点で、倉岡裕之(58)は日本人登山客3人を連れ、究極の決断を迫られた。
例年より雪が少なく、露出した岩場は金属製の爪が付いたアイゼンでは歩きにくい。モンスーンの影響で、8848メートルの頂を目指すチャンスは春と秋の短い期間に限られる。倉岡の決断は下山だった。「身に危険が及ぶ」。同じタイミングでこのルートを登った人の中には、死者も、成功者もいた。悔しさと安堵感が入り交じる。(文・金子元希、文中敬称略)
順調な登山人生の先に落とし穴
「最も有名で、最も愛されている日本人ガイドの一人。彼には多くの経験があり、信頼できて、信じられないほど強い」。倉岡をよく知るスイス人ガイド、カーリー・コブラ(64)は言う。

9回のエベレスト登頂は日本人最多。2013年、プロスキーヤー三浦雄一郎(86)が世界最高齢(当時80歳)でエベレスト登頂に成功した遠征隊で、核となる登攀(とうはん)リーダーを務めた。

小学5年の頃、たまたま手に取った登山の入門書が人生を決めた。剱岳(富山県)の岩場をよじ登るクライマーの表紙写真に、心を奪われた。

初登山は中学3年の時、単独で挑んだ神奈川・丹沢。山登りは教わるものという感覚がなかった倉岡はその後も、独りで学んだ。進学した大学の山岳部は人数が少なく、活気を感じられなかった。社会人の山岳会に入ると、海外登山へと踏み出していく。

21歳でヒマラヤに初挑戦。翌84年、世界最大の落差がある南米の大滝エンゼルフォールに挑み、約1000メートルの岩壁を3週間かけて登りきった。85年には、前年に北米最高峰デナリ(マッキンリー、6190メートル)で遭難した冒険家・植村直己の映画を撮影する仕事でアラスカに渡った。

順調に経験を積んできたと思った先に、落とし穴があった。85年秋、トレーニングに出かけた山梨県内の岩場でロープワークに失敗。約25メートル落下し、骨盤にひびが入る重傷を負った。ロープが怖くなり、岩登りから遠ざかった。「クライマー人生は終わった」と覚悟した。

大学は7年目でやめた。結婚して子どもが生まれ、仕事をしないといけない。それでも、山との縁は切れなかった。クライミング雑誌の編集者が旅行会社を立ち上げ、声を掛けてくれた。中高年を中心に登山熱が高まる中で、「海外の高い山に登りたい」と考える日本人客をガイドするのが、倉岡の仕事になった。
8000メートル級が「仕事場」
登山の世界では、「公募隊」が注目されていた。エベレストに登りたい人を募り、旅行ツアーのようにガイドが一緒に登る。複数のメンバーで登山隊を組み、シェルパや物資を大量投入して最終的に登頂できるのはわずかという、従来の組織的な登山とは異なる。山岳会などに属さなくても最高峰に挑むチャンスが広がる一方、96年には日本人女性2人目のエベレスト登頂者となった難波康子が下山中に遭難死する事故が起きた。

そうした「商業登山」への賛否がある中で、「山登りは自由なアクティビティー」と考える倉岡は、日本で募った登山客を現地に連れていき、現地業者と組んでガイドするという自らのスタイルを切り開いていく。2003年、ヒマラヤのチョー・オユー(8201メートル)の登山を機に、「デスゾーン」と呼ばれる8000メートル級の世界が主戦場となった。

04年に自身のエベレスト初登頂にも成功すると、それ以降は、毎年のようにエベレストに足を運んでいる。「エベレストに行かないと、その時期に何をしていいのかわからない」と笑う。4人程度を1人でガイドするのが倉岡流。それが安全面なども含めると最も効率が良いからだ。

現地では多種多様な国のガイドらとの交渉も大事な仕事だ。時にはうまく話がまとまらないこともあるが、「すぐにかっとならないのが大事。相手も人間なので、こちらがソフトに出れば、頑固ものでも時間をかければ変わっていく」と語る。

スイス・ツェルマットを拠点に旅行会社を経営し、山のガイドなどをしている田村真司(53)は倉岡と20年以上にわたり交流があり、海外で一緒に仕事をしてきた。「ずば抜けた生命力と厳しい状況でもあきらめないところはまねができない」と評価し、「安全を確保できる限り、登頂を目指して粘る。一方で危険と判断した場合の撤退する勇気も持ち合わせている」と話す。

そんな倉岡に惚れ込んだのが、三浦雄一郎だった。

倉岡と組む前に、三浦は70歳の03年、75歳の08年にもエベレストに登頂。世界にその名が知られていたが、心臓に持病を抱える中、80歳での挑戦には困難が伴うと考えた。
三浦雄一郎隊の「リーダー」
13年5月23日、三浦は倉岡と組んでエベレスト登頂に成功するも、下山時に疲労困憊となり、最後は暗闇をヘッドランプを頼りにキャンプにたどり着いた。その時の倉岡のサポートに、三浦は感謝が尽きない。「高所でピンチに陥った登山者の命を守るという気持ちが、最後の最後まで続いていた」

高所攻略のポイントは「酸素」というのが、倉岡の持論だ。酸素は5000メートルで低山の6割、エベレスト山頂では4割未満となる。酸素ボンベなしに8000メートルをめざす先鋭的な登山家もいるが、倉岡はむしろ積極的に酸素ボンベを使うべきだと考える。

ともに登頂した三浦の次男豪太(50)は、そんな柔軟な考え方や視野の広さに驚かされた。「僕は持ち上げる酸素ボンベの数をきっちり考えがちだけど、倉岡さんは、足りなければ下のキャンプから運べばいい、とフレキシブルに考えていた」

今年1月、三浦の南米最高峰アコンカグア(6961メートル)遠征にも同行した。1日の行動時間を短くし、酸素を吸い続ければ、86歳でも登頂は不可能ではない。倉岡はそう考えた。現地では三浦の体力を考慮し、ベースキャンプから標高5580メートルまでヘリコプターで飛ぶプランにも変えた。

「それでも登山?」と疑問視する声に、倉岡は言う。「そもそも登山は自然を相手にする遊び。どんな手段を選ぶのかは本人の自由だ」

ただ、三浦の体力が80歳のときより落ちていることも冷静に見ていた。身長は164センチ、体重90キロ超。重くなれば、心臓への負担がかかる。現地入りしてからも「一緒に歩いてみないとわからない」と登頂の成否には慎重だった。

結局、ドクターストップ。下山後、三浦は「超高齢の食べ過ぎ、飲み過ぎ、太り過ぎ」と振り返った。

海外の登山を支える山岳コンサルタント会社「ウェック・トレック」(東京)を95年に立ち上げた貫田宗男(68)も三浦隊に参加してきた1人。テレビ局の登山ロケなどを通じても付き合いが深い倉岡については「ガイドする相手が何を望んでいるかを細かく理解し、リスクに対する意識をしっかり持っている」と評する。

倉岡にとって山の魅力とは何か。「不思議と説明できない。(登りきって山の)反対側を見たいという気持ちは根元にある」という答えが返ってきた。

そんな倉岡が次に描く夢は、「山を知らない人」が登るエベレストだ。ガイド仲間と協力し、経験が浅い人たちを短期間で一から教え、アコンカグア、そして最高峰に挑む。国内登山で鍛錬を重ね、そしていずれはヒマラヤへ、という「順序」を覆し、「ヒマラヤに行きたい」と思った人が登るために必要な経験を逆算して積ませる。

「帰国翌日から社会復帰」。最近の倉岡はキャッチフレーズのように言う。これまで低酸素の影響で、高所から平地に戻っても回復に時間がかかる登山者を何人も見てきた。

「装備が進化し、ベースキャンプの環境が快適になった。今は山を登るためのインフラが整っている。凍傷で指を失うと、昔は勲章だけど今は恥。いずれは高山病も恥と言われるようにしたい」

ただ、高所を軽々しく考えているわけではない。もしエベレストの登頂アタックで吹雪に遭って酸素が切れたら、「生き残るチャンスはない。死ぬんです」。だからこそ、天気に関する情報は入念にチェックして登る。一つのミスが命取り。失敗は許されない重圧がある。

そして、場数を踏んできたからこその哲学がある。「経験を積めば積むほど、登れる確率は高まる。失敗しそうな経験をすれば、失敗を回避できる」

商業登山に対しては、今年も大渋滞が話題になるなど議論はある。それでも、と倉岡は言う。「楽に安全に登れるのであれば、選択に躊躇はない。でも、満足度が低いかといえば、そうではない。大切なことは、厳しい山に登ったかどうかではなく、楽しんだかどうか、そこだと思います」。目線の先には、2桁のエベレストの頂がある。
愛車のナンバーも山にちなみ
七つの頂… エベレストを含めて倉岡のガイド経験が豊富なのは「セブンサミッツ」と呼ばれる世界7大陸最高峰だ。アコンカグアや南極のマウント・ビンソン(4892メートル)もその一つ。七つの頂をすべて倉岡とともに踏んだ日本人もいる。
「(セブンサミッツは)アメリカの実業家が作り上げた概念。達成することでビジネス面で役立つと考えてめざす人たちがいる」と語る。今年6月もエベレストから帰国してすぐにヨーロッパ最高峰エルブルース(ロシア、5642メートル)をガイドして登頂した。

日本の山… 国内の山を案内することはめったにない。「国内を専門に活動している人には地元の情報がかなわない」と話す。ただ、近年は夏の時期になると、長野県の北アルプス・唐松岳(2696メートル)に学校行事で登る中学生を知人ガイドと案内している。今年も7月下旬に出かけた。
登山の前には「ペースが大事です。余計な荷物は置いていきましょう」とアドバイスをしてからスタート。登りながらヒマラヤなどの思い出を語ると、生徒たちからは「異次元すぎる」と驚かれた。

家族… 愛車のナンバーをエベレストの標高である「8848」にしてしまうほどの倉岡だが、家族は山とは無縁だ。2人の娘も結婚し、今は千葉県我孫子市で妻・慶子(57)と2人暮らしだが、昨年は10カ月も海外にいた。
慶子は倉岡の仕事の中身について「知らないから、気にならない」。ただ、三浦の遠征のときはメディアの露出が増えたことで「こんなに危ないところで、とかえって心配になった」と話す。

■Profile
1961 東京都で生まれる。その後、千葉県我孫子市に移り、小中学生時代を過ごす
1976 中学3年のときに独学で登山を始める
1983 ネパールで初めてのヒマラヤ登山
1984 ベネズエラのエンゼルフォールの登攀に成功
1985 映画「植村直己物語」のスタッフとして北米アラスカに入る。世界7大陸最高峰の一つである北米最高峰デナリに登頂。エベレストを初めて訪れる
1996 ヒマラヤの高峰での仕事を始める
2003 8000メートル峰のガイドが本格化する
2004 ガイドとして臨んで、エベレスト初登頂2006 世界7大陸最高峰の登頂をガイド側で達成
2013 プロスキーヤー、三浦雄一郎のエベレスト遠征に登攀リーダーとして参加。当時80歳の登頂を成功に導く
2018 エベレスト9回目の登頂を果たす
2019 三浦のアコンカグア遠征に参加。5月、10回目のエベレスト登頂をめざすも、途中で下山

Self-rating sheet 自己評価シート
倉岡裕之さんは自らをどう見ているのか。編集部の用意した項目を5段階で評価してもらうと、「判断力」「危険察知能力」「高度順応力」を加え、いずれも5をつけた。
標高8000メートルの極限状態を知るだけに「危険察知能力が一番大事」。決断力・判断力も「鍵になる」と語り、危ないと思ったときは「すぐに逃げ帰る」。集中力もポイントで、「1年間のうちで集中していない時間の方が多いから、その分だけ必要なときに凝縮される」。
高度順応力の5は「生まれつきではないけれど、いつも高いところに行っている」という理由だ。独創性・ひらめきや分析力・洞察力が低めなのは、「あった方がいいと思うけど、僕の仕事は経験値がすべて」。
朝日新聞社

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