2019年1月11日金曜日

海洋における「中国の影響力」の高まり

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190111-00010002-wedge-cn
1/11(金) 、ヤフーニュースより

 ユーラシア大陸の国々を陸路と海路とで結んで巨大なネットワークを築こうという一帯一路は“超巨大な大風呂敷”に過ぎず、財政的にも早晩破綻する。中国は「ウイン・ウイン関係」を掲げ相手国に接近するが、とどのつまり相手国は借金漬けに陥るのが関の山である、という見方がある。その一方で、昨年末にイスラエル最大のハイファ港のターミナル近代化と25年の運営権を中国が獲得した点からも、中国主導による新たな国際秩序構築が着実に進展しているとの声も聞かれる。
 いずれにせよ、一帯一路が2019年における米中対立の主戦場になり、東南アジア政策を中心とする今後のわが国の対外路線にも大きくかかわってくることは間違いないだろう。そこで改めて一帯一路の歴史を振り返り、「中華民族の偉大な復興」に込められた意図を考えてみたい。
「安倍ドクトリン」が目指したもの
 習近平国家主席は政権が発足して1年ほどが過ぎた2013年9月、訪問先のカザフスタンにおいて中国を起点にカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、イラン、トルコ、ウクライナ、ロシア、ポーランド、ドイツ、オランダなどを結んだ経済協力機構を構築し、ユーラシア大陸の東と西を中国主導で結び付ける「シルクロード経済帯」構想を打ち出し、その1カ月後、インドネシア国会において中国とASEAN間の海洋上における協力強化を軸に、さらにインド、スリランカ、アフリカ東部、紅海沿岸、ギリシャ、イタリア、フランスを結んだ「海のシルクロード」構想を発表した。

「シルクロード経済帯」と「海のシルクロード」の両者を結びつけた構想の拡大版が一帯一路となる。これが、習近平政権が掲げる一帯一路に関する一般的な理解と考えて間違いないだろう。

 ここで、習近平政権と前後して成立した安倍政権が打ち出した「開かれた、海の恵み  ――日本外交の新たな5原則――」を振り返ってみたい。

「安倍ドクトリン」と通称される対外方針は、首相に返り咲いて最初に訪問したヴェトナム、マレーシアに続くインドネシアで、2013年1月に内外に向けて華々しく発表される予定だった。だが、アルジェリアで日揮プロジェクトに対するテロ事件が発生したことから緊急帰国を余儀なくされ、首相自身の肉声で内外に向けて語られることはなかった。  

 安倍ドクトリンは「万古不易・未来永劫、アジアの海を徹底してオープンなものとし、自由で、平和なものとするところにあります。法の支配が貫徹する、世界・人類の公共財として、保ち続ける」ことこそが「日本の国益」であるとし、「日本外交の地平」を拡大するための「新しい決意」を支える以下の5原則を挙げている。

1.人類の普遍的価値である思想・表現・言論の自由の十全な実現

2.海洋における法とルールの支配の実現

3.自由でオープンな、互いに結び合った経済関係の実現

4.文化的なつながりの一層の充実

5.未来を担う世代の交流の促進

 以上を基本にして日・米・印・豪を結んでの「中国包囲のセキュリティー・ダイヤモンド戦略」の構築を目指したように思う。

 発表時期と内容からして、安倍ドクトリンが2012年秋の共産党大会で胡錦濤総書記(当時)が打ち出した「海洋大国建設」のみならず、地域覇権を超えて国際政治ゲームのルールを自らが作るとまで豪語していた中国への牽制を狙っていたであろうことは想像に難くない。
「有力なカネヅル」ではなくなった日本
 日中両国の対外政策を海洋大国建設(2012年秋)、安倍ドクトリン(2013年1月)、一帯一路(2013年秋)と時系列で並べ、その後の展開をみると、時に注目したいのが、安倍ドクトリンの「3.自由でオープンな、互いに結び合った経済関係の実現」で言及する「メコンにおける南部回廊の建設など、アジアにおける連結性を高めんとして日本が続けてきた努力と貢献は、いまや、そのみのりを得る時期を迎えています」との件である。

 それまでも日本はミャンマー、ラオス、カンボジアなどのメコン流域諸国の貧困救済を軸に多くの予算を投入してきた。ADB(アジア開発銀行)を通じてメコン流域の社会経済開発に投入された多額の援助もまた、その一環といえよう。安倍ドクトリン発表当時、確かに「そのみのりを得る時期を迎えて」はいた。だが、「そのみのりを得」たのは中国ではなかったか。

 カンボジアにせよラオスにせよ、ましてやミャンマーであっても、その後に飛躍的に増大する中国の存在感に較べ、残念ながら日本のそれは小さいと言わざるをえない。ならば黒田日銀総裁がADB総裁当時に内外に強く打ち出していたメコン流域開発への積極的資金投入は、サッカーでいう自殺点(オウンゴール)であり、“利敵行為”に近かったように思う。

 2018年11月末にメコン流域の中心ともいえる中国、ラオス、ミャンマー、タイが国境を接するゴールデン・トライアングルと呼ばれる一帯で、関係4カ国武装部隊による共同治安訓練が行われた。じつは中国は東南アジアの内陸部の一角で7年前から関係3カ国を従えて河川警備を進めてきたのである。メコン流域を東南アジア大陸部をネットワークする物流の幹線ルート――それはまた東南アジア大陸部における一帯一路にとっての重要な柱でもある――と捉えるなら、メコン流域警備の主導権は中国にとっては何物にも代え難い「みのり」といえるだろう。

 はたして中国の「みのり」を凌駕するほどの「みのり」を、日本は手にしただろうか。やはり首を傾げざるを得ないのだ。

 想像するに、安倍ドクトリンの根底には1977年当時の福田首相が訪問先のマニラで打ち出した福田ドクトリンがあったに違いない。福田ドクトリンでは、(1)日本は軍事大国にならず世界の平和と繁栄に貢献する。(2)ASEAN(東南アジア諸国連合)各国と心と心の触れ合う信頼関係を構築する。(3)日本は対等のパートナーと位置づけるASEANの平和と繁栄に寄与する――ことが謳われていた。

 福田ドクトリンにせよ安倍ドクトリンにせよ、日本がASEANとの関係を極めて重視していることは多言を要しない。同時に福田ドクトリンがその後の東南アジアにおける日本官民の影響力拡大に大きく寄与したことも明らかだ。だが、ここでASEANを取り巻く国際環境の激変という紛れもない事実に向き合うべきではないか。福田ドクトリン当時には国境を閉じていた中国は、それから2年ほどが過ぎた1978年末に対外開放に踏み切っていたのである。

 じつは中国が国境を閉じていた30年ほどの間、官民を問わず日本とASEANとの関係を定めるモノサシの多くは日本主導で取り決めることができた。ASEANもまた、地域の安定と繁栄にとって日本(もちろん、その背後のアメリカ)との関係がカギであることを知っていた。敢えて刺激的な表現を使うなら、ASEANにとって日本以外に有力なカネヅルはなかった、ということだ。だが、今や中国との関係が極端に重要度を増しているのである。これを言い換えるなら、“熱帯への進軍”を本格させた中国との関係をどのように調整・構築するかが、ASEANにとっての死活問題になったということになる。
天安門事件以前から続く“熱帯への進軍”
 ここで時計の針を、天安門事件から半年ほど遡った1988年11月に戻してみたい。

当時、民主諸党派の1つである九三学社と四川・雲南・貴州・広西・重慶市の社会科学院によって構成された「振興大西南経済対策検討会」が江澤民総書記(当時)に書簡を送り、発展から取り残された雲南省を軸とする西南地区の開発を提言している。

 この提言に従って、「雲南省を軸とする辺境地区を南方の国際市場に向って開放せよ」(李鵬首相)との方針が決定され、中国は人口10億余の市場(インド・バングラデシュ・ネパール・ミャンマー・ラオス・ヴェトナム)と結びつけることで西南地区の社会経済開発を促すことに踏み出したのである。

 この西南開発への動きに呼応するかのように、1990年11月には香港の親中系学者などが中心となった「亜太二一世紀学会研究検討会」が極めて野心的な「亜洲西南大陸橋構想」を発表した。それは、(1)タイのチェンマイと昆明とを結んだ鉄道を成都・宝鶏にまで延伸させ、さらに西進して阿拉山口で国境を越え西ヨーロッパに繋ぐ(欧亜大陸橋)。(2)昆明から大理を経て瀾滄江(メコン川)に沿って南下させ、鉄道でASEAN諸国と繋ぐ。(3)欧亜大陸橋を軸に昆明を中継点にしてASEAN諸国とヨーロッパを結ぶ――という巨大鉄道ネットワーク構想である。

 一見して荒唐無稽に過ぎる構想だが、発表から30年ほどが過ぎた現時点から考えると、習近平政権が掲げる一帯一路に重なってくることを認めざるを得ない。

 雲南省の省都である昆明を中心にして西南地区と隣接する東南アジア大陸部の総合開発を地図化したと思われる『大西南対外通道図』(雲南省交通庁航務処製作・昆明市測絵管理処製図印刷/1993年1月発行)を見ると、この地域の主要都市に向かって昆明から放射線状に航空路線が引かれ、メコン川やサルウィン川などの東南アジア大陸部を貫流する国際河川に拡幅工事を施し物流ルートとし、昆明とシンガポールを結んだ国際鉄道路線(後に「泛亜鉄路」と呼ばれる)が描かれ、同じく昆明と周辺地域の主要都市を陸路(国際公路)で結んでいる。
加えるに、「雲南水運対外通道建設計画案比較」と名付けられた付表には、建設が構想される何本かの物流ルートの概要――たとえば幹線ルートである「昆明⇒(公路)⇒小橄欖堰⇒(水路)⇒チェンセン⇒(公路)⇒バンコク」のルートはミャンマー西部、ラオス、タイ、マレーシア北部、シンガポールに関係し、公路は5年で水路は3年の建設期間を要し、総工費(約19億元)、運送能力(600万トン/1年)、総延長(約2100キロ)、輸送コスト(1トン当たり公路は288・9元、水路は192・8元)――が示される。

 しかも各ルート終着都市の先に、インド洋を越えた先のアデンなど中東の主要都市が記されているのだ。

 1990年代初頭の段階で、『大西南対外通道図』に記された関係各国や各都市が中国側の計画を承認していたとは思えない。だが2019年初頭現在、『大西南対外通道図』が目指した物流ルートは着実に建設されていることを軽視するわけにはいかない。

敢えて言うならば、一帯一路は習近平政権によって構想されたというよりも、むしろ1980年代末より東南アジア大陸部に向かって進めてきた“熱帯への進軍”という試みが土台になっている。いわば一帯一路は1980年代末から延々と続いていると見るべきではないか。
我慢較べの「チキンレース」は続く
 昆明を起点とする航空路は、1990年代初頭では考えられない程に発達している。昆明とバンコクを結ぶ昆曼公路は稼働している。メコン川の物流ルートは先に見たように、中国主導によって流域4カ国で管理されている。鉄道は泛亜鉄路中線の一部である昆明⇔ヴィエンチャンが建設中だ。ラオスの首都であるヴィエンチャン近郊でメコン川を渡った鉄道は対岸に位置するタイのノンカイから南下してバンコクに繋がるわけだが、この路線建設に関してはタイと中国の両国政府でマラソン交渉が続く。

 時にタイ側が自前建設を打ち出し交渉打ち切りを宣言し、時に中国側が提示する好条件を前にタイ側が交渉に応じる。スッタモンダの交渉が続くが、交渉の経緯を、泛亜鉄路中線の建設問題のみならずASEAN諸国と中国との関係に注目する日本人は肝に銘じておくべきだろう。

 これまでそうだったように、これからもタイと中国の両政府間で紆余曲折の交渉が続くことは十分に予想される。だが、だからといって、このプロジェクトが失敗だなどと短兵急に捉えるべきではない。「談談打打・打打談談」――話し合いながら撃ち合い、撃ち合いながら話し合う――テーブルを囲むのは現場(戦場)での戦いを有利に進めるため、会談に臨むのは戦況を有利に持ち込むため――話し合いも戦いも、最後の一瞬まで続くわけだから。

 タイもまた中央部を南下してバンコクに至る近代化した鉄道路線を必要としている。そこでヴィエンチャンとバンコクを繋げた路線を南下させクアラルンプールに繋ぎ、さらにシンガポールまで延伸させ、昆明⇔ヴィエンチャン⇔バンコク⇔クアラルンプール⇔シンガポールと結んだ一気通貫路線を手中に収めたいという中国の腹の内を見透かし、可能な限り自国に有利な形の安いコストで路線を建設したい。

 これに対し中国は、タイの経済建設にとって必要不可欠な鉄道による国際的な鉄道ネットワークを持つゆえに、この利点をテコに交渉に臨む。中国が押さえる国際ネットワークを経由しない限り、タイが鉄道を使って国際物流ネットワークにアクセスすることは不可能であることを中国は知っているのだ。日本や台湾など閉鎖された鉄道ネットワークに見られる常識は、他国と陸続きで国境を接している国には当てはまらない。タイのような国にとって周辺諸国とのネットワークを構築してこそ、経済効果は飛躍的に高まるというものだろう。

 タイと中国の両政府が互いの手の内を知った上での交渉であるから、当然のように我慢較べでチキン・レースのような交渉とならざるをえない。こういった状況は、中国とマレーシアの関係でも指摘できる。

 2018年5月の総選挙で勝利したマハティール政権は、前ナジブ政権が中国との間で結んでいた鉄道建設案件を破棄した。わが国には一連の動きを見て「一帯一路を頓挫させた」とする考えもあるが、やはり早計というべきだろう。タイと同じように国内の鉄道網の整備・建設は当然のこと、国際的な鉄道ネットワークへのアクセスは、マハティール政権であれ(その後継政権であれ)経済発展を目指すうえでは至上命題といえる。南は経済先進国のシンガポール、北はタイとラオスを経由して中国という巨大市場にアクセスすることがマレーシア経済発展のカギとなるはずだ。

 マレーシアの今後を考えるなら、一旦は白紙に戻した鉄道建設プロジェクトを再考する時期が来るに違いない。その時、マレーシアもまたタイが中国を相手に見せたように、自らの地政学的位置を最大限の“武器”にして交渉に臨むだろう。マレーシアは可能な限り低コストで建設を進めたい。これに対し中国は是が非でもマレー半島部分の一帯一路を完成させたい。中国が“熱帯への進軍”を続ける限り、この構図が崩れることはないだろう。
すでに中国が押さえているダーウイン(オーストラリア)、バンダルスリムガワン(ブルネイ)、チャオピュー(ミャンマー)、チッタゴン(バングラディシュ)、ハンバントタ(スリランカ)、モルディブ、グワダール(パキスタン)、ドウクム(オマーン)、ジブチ、ハイファ(イスラエル)、ピレウス(ギリシャ)と並べると、その先にアドリア海の最深部に位置する要衝のトリエステが浮かんでくる。昨年6月にイタリアに出現した政権は反EUの立場からG7諸国としては初めて一帯一路への接近を打ち出すともいわれるだけに、トリエステの“陥落”は時間の問題となろうか。

 遥か東のアラフラ海から始まり、ティモール海、南シナ海、インド洋、紅海、地中海東部、そしてアドリア海まで、海洋における中国の影響力は高まりつつある。

 日露戦争が勃発した明治37(1904)年、高瀬敏徳は『北清見聞録』(金港堂書籍)を出版し、その冒頭で「第二十世紀に於て世界が當に解釋すべき大問題は、啻に一のみではあるまい。而かも所謂支那問題なるものは、其の最も大なるものに相違あるまい」。「今や北京は殆んど世界外交の中心であるかの觀がある。少なくとも日本外交の中心點は北京である。若しわが日本が、北京外交の舞臺に於て敗を取ることがあるならば、大日本の理想は遂に一個の空想に過ぎない」と主張した。

「第二十世紀」を21世紀に、「所謂支那問題なるもの」を中国問題に置き換えてみるなら、高瀬の主張は現代に通じるように思える。やはり一切の希望的観測を排し、現実に冷静に向き合う必要があるだろう。
樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)

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