2019年3月28日木曜日

「切りやすい人々」とは誰か? 「移民の時代」と「人間の条件」

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190321-00063616-gendaibiz-int&p=2
3/21(木) 、ヤフーニュースより

「平成」とは何だったのか
 もうすぐ終わる「平成」という時代は、この国でも外国人が大きく増えた「移民の時代」として記憶されることになるだろう――。

 「昭和」の実質的な終わりを昭和63年とすると(昭和64年は7日で終わった)、その年の在留外国人数が94万人で100万人にも満たなかったということは今こそ思い起こされるべき事実だと思う。

 なぜなら、直近の在留外国人数は260万人を超え、数年以内に300万人を超えることがほぼ確実だからである。平成とは、在留外国人が3倍近くに増えた時代だったのだ。

 ここに事実だけを並べてみたい。

 バブル全盛の昭和63年当時、日本で暮らすベトナム人は5千人にも満たなかった。ブラジル人もわずか4千人強、ネパール人に至っては380人しかいなかった。

 それが、昨年6月時点ではそれぞれ29万人(61倍)、20万人(47倍)、9万人(225倍)へと大幅に増加している。

 国会図書館で様々な統計を読み込みながら、私はこれらの単純なファクトに衝撃を受けた。

 たった30年前、私が生まれた頃の日本には、かの悪名高い技能実習制度はまだ存在すらしなかった。

 ブラジルなどからの日系人もまだ少数だった。当時は在留外国人の7割以上が在日コリアンの人々だったのである。

 だが現在、その割合は2割未満へと減少している。在留外国人は著しく多様化したのだ。

 「平成」は外国人の受け入れ拡大に始まり、外国人の更なる受け入れ拡大に終わった。

 始点は平成元年の入管法改正。日系人の受け入れを一気に拡大し、のちの技能実習につながる在留資格「研修」を創設した。

 そして終点は、この4月から施行される昨年末の入管法改正だ。非熟練分野での外国人労働者受け入れを一層加速する在留資格「特定技能」を新設し、今後5年間で新たに最大34.5万人の受け入れを見込む。

 日本はこの30年間で外国人労働者を受け入れるための様々な方便を編み出してきた。特定技能はその最新型だが、技能実習ももちろんその一つだ。血のつながりを理由にした日系人の受け入れなど、ほかにもたくさんの受け口が構築されてきた。

 だが、それらの間の区別がきっちりついている人は一体どれぐらいいるだろう。あまりに複雑すぎて、色々と混同してしまってはいないだろうか。

 一つ簡単な練習問題を出してみたい。

 「ここ数年でコンビニや居酒屋で働く技能実習生が急増した」――もしこの文章に違和感を感じなければ、ぜひ新刊『ふたつの日本――「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)を読んでみてほしい。

 コンビニで働いている外国人は技能実習生、ではないのだ。だとすれば一体誰なのか。そして、コンビニや居酒屋でないとすれば、技能実習生はほかのどんな場所で働いているのか。そうした違いが正しく理解できるようになるはずだ。

移民の時代と人間の条件
 同時に、一つひとつの制度の違いを超えて、この国の「移民政策」に通底する論理をつかみ取ることも重要である。拙著『ふたつの日本』ではこちらのテーマにも取り組んだ。

 「外国人労働者」の問題は、「外国人」の問題であると同時に「労働者」の問題でもある。そして、平成の時代に起きた「日本人」労働者たちを取り巻く環境の激変と外国人労働者たちの大幅な増加とは双子のような関係にある。

 一言で言えば、この30年間は国家や企業にとって「切りやすい人々」が大きく増えた時代だった。人間の「交換可能性」が著しく高まった時代であったとも言える。

 国家も企業も、一人の人間の人生に対してますます「責任」を負いたがらなくなってきている。自らが必要なときに必要なだけ関わり、未来の約束を回避するようになってきている。

 「未来の約束」とは、長期雇用の約束であり、福祉国家の約束でもある。

 雇用の非正規化、そして老いた人々や病んだ人々に対する社会保障のカット、こうした生々しい変化と、若くて健康な数年間だけ日本で働いてくれる外国人労働者の受け入れ拡大とはコインの裏表だ。

 政府が繰り返す「移民政策ではない」という呪文は、単なるナショナリズムの表現であるだけでなく、むしろそれ以上に「あなたの面倒ごとには関わりたくない」というこの国からの宣言のようなものとして捉えるべきである。そして、重要なことに、その宣言の宛先は外国人だけではないのだ。

 「交換可能な労働力」へと切り詰められた人間の生がどうなるか。外国人労働者、移民たちを取り巻く問題を見つめることは、「人間の条件」について考えることを私たちに強いる。

 日本人の女性社員が妊娠を理由に意図せぬ退職や配置換えを迫られているとき、外国人の技能実習生は妊娠を理由に強制帰国を迫られている――そこに見出すべきは、差異よりも共通性ではないだろうか。

 果たして人は永続的な交換可能性と不安定性の中で生きていくことができるのか。「有用」でなくなった途端に切られ得る存在として、私たち人間は豊かに暮らしていくことができるのか。

 移民の時代に問われるもの、それは人が人であるための社会的な条件である。そういう時代を、私たちは生き始めているのだ。

 *読書人の雑誌『本』2019年4月号より転載
望月 優大

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