2019年3月19日火曜日

シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(7) 皇太子さま記者会見:変わらない実直な人柄

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190315-00010005-nipponcom-soci
3/15(金) 、ヤフーニュースより
斉藤 勝久

皇太子さまが2月23日、59歳になられた。間近に迫った即位を前に、記者会見で「自己研鑽に努めながら、国民に常に寄り添い、象徴としての務めを果たしていきたい」と決意を述べられた。体調が心配される雅子さまについては「さらに努力を重ねていくと思いますので、国民の皆さまには温かく見守っていただければ」と理解を求められた。実直な人柄は、浩宮時代から少しも変わっていない。
「時代に応じて求められる皇室を」
皇太子さまは生まれた時から、将来は天皇になることが決まっていた。昭和天皇が亡くなると28歳で皇太子となり、2年半前(2016年8月)、天皇陛下の退位の意向を示すお言葉で、「その日」が急に近づくこととなった。

皇太子時代の総決算となった今回の記者会見は、30分を超えた。「これからのことを思うと、とても厳粛な気持ちになります」と、率直に心境を話された。現両陛下から伺ったことや、公務に取り組むお姿も今後の大きな道標(みちしるべ)とするとともに、「その時代時代で新しい風が吹くように、皇室の在り方も変わってくるものと思います。伝統をしっかりと引き継いでいくとともに、時代に応じて求められる皇室の在り方を追い求めていきたい」と意欲を見せられた。

皇室の将来像については、「男性皇族の割合が減り、高齢化が進んでいること、女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題です」と皇族の減少を心配されていることを明らかにされた。しかし、この点に関することや、次期皇太子の立場となる秋篠宮さまが昨秋、新天皇が行う大がかりな祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」で国費を使うことに疑問を投げかけたことに関しては、発言を控えられた。慎重で、政府や関係者に配慮した、皇太子さまらしい応答だった。
「雅子さまへの理解」国民に求める
儀式などの欠席があり、体調が心配されている雅子さまに関しては、「雅子はこの1年も体調に気を付けながら、公私にわたりできる限りの務めを果たそうと工夫を凝らしつつ、一生縣命に努力を積み重ねてきております。そうした努力の結果、活動の幅が少しずつではありますが、着実に広がってきていることを、本人も私もうれしく思っております」と雅子さまの努力を評価。「(今後は皇后として)公務も多くなる中、一朝一夕に全てをこなせるようになるわけではないと思いますが――」と国民に理解を求められた。結婚に際して雅子さまに「全力でお守りします」と約束された皇太子さまの優しい人柄も感じられる。

雅子さまは昨年12月、55歳の誕生日に合わせて、文書で今の思いを述べられた。「(訪問先や沿道で)皆様からかけていただいた声を身近に感じることも多く、そうした国民の皆様のお気持ちは、私にとりまして大きな支えになっております」「引き続き体調の快復に努めながら、できる限りの公務に力を尽くすことができますよう、努力を続けてまいりたいと思っております」と覚悟を記されている。新天皇、皇后おそろいで国民との触れ合いの機会が増えていくことを祈りたい。
うそがつけないご性格
皇太子さまのこれまでの記者会見の中で、特に話題になったものが、浩宮時代最後の1988年(昭和63年)、28歳の誕生日の時。当時の関心はお妃選びだった。ご趣味の登山に例えて、「七、八合目ぐらいといったところでしょうか」「山頂は見えていても、なかなかそこにたどり着けない感じ」と述べられた。

「理想の女性に巡り合われたか」と食い下がる記者側の質問には、「会ったかもしれませんし、会わないかもしれないですし」と微妙な言い回しをしながら笑われた。筆者はこの記者会見に出席していて、浩宮さまは正直な方だと思った。この会見の1年半前に、東宮御所でのスペイン王女歓迎茶会で、初めて外務省入省前の雅子さまと対面されたのは知られており、雅子さまを意識されての発言と推測できたからだ。東宮職幹部に「七、八合目発言」について改めて取材したら、「宮さまは本当にうそがつけない方で……」と、額の汗を拭くしぐさをしながら笑っていた。

だが、本当にうそがつけないご性格であるのを痛感するのは、翌89年9月、皇太子になって初の記者会見でのことだ。「(お妃選びが)今は何合目あたりでしょうか」という質問に対し、「自分でも分からないですね。どうもはずみで言ったことが独り歩きしている印象を持つのですが」と前言を大きく後退させたのだ。この会見の直前に、礼宮さま(現秋篠宮さま)のご結婚が皇室会議で正式決定した。雅子さまとの交際が思うように進まない中で、皇太子さまは率直に現状を話し、結婚にはまだ時間がかかる見通しを述べられた。その言葉通り、ご婚約決定にはそれから約3年半かかった。
思い出のブータン親善訪問
若き皇族として浩宮時代の国際親善の業績に、1987年のブータン訪問がある。長年鎖国を続け、日本との外交関係樹立はわずか1年前。ヒマラヤの未知の王国に、日本側初の要人として訪問された。この親善訪問はネパール、インドと合わせ南西アジア3カ国、16日間の長旅の真ん中に組み込まれており、筆者も同行記者団に加わった。

山岳地帯を縫うようにして飛ぶ定員20人足らずの航空機でブータン入りすると、標高2000メートルを超える高地に日本の原風景を思わせる「桃源郷」のような景色が広がっていた。人々の顔つきが日本人そっくりで、男性は丹前に似た「ゴ」、女性は着物に似た「キラ」という民族衣装を着ていたため、自然と親しみがわいてくる。明らかに他のアジアの国とは違う、日本人に近いものを持った人たちだと感じた。

4日間の滞在で、ブータンは親日の皇太后を中心に王室を挙げて、「将来、天皇となるプリンス」を歓迎した。当時27歳だった浩宮さまは、4歳上の第4代ワンチュク国王と特に親しく話されていた。2011年に王妃と共に来日した国王の父である。16歳で即位し、開国を進め、国内を意欲的に歩き、国民全体の幸福度を大切にする「国民総幸福」を提唱して世界に影響を与えるなど、開明的な国王だったので、学ぶところが多かったと思われる。

浩宮さまはスケジュールの空きができると、市内の散策を希望された。人口約3万人の首都ティンプーの繁華街に、突然現れた日本人の一行を取り巻く数千人の人だかりができたが、浩宮さまは優しい笑顔を絶やさなかった。みやげ物店に入ると、名産品を見ながら竹細工の弁当箱や仏教画を買われた。その翌日は農家に入り、主人が差し出す地酒をおいしそうに飲んだり、子供たちに声を掛けたりして、ブータンの人たちとの交流を重ねられた。

最後の夜の皇太后主催の宮中晩さん会には、報道陣の陪席が認められた。民族衣装「ゴ」を着た浩宮さまは踊りの輪に入られ、報道陣も国王の姉妹の王女らに誘われて一緒に踊った。出国後、この訪問について浩宮さまは、「感動の連続で、時間を超越した夢の世界にいる思いでした。国王をはじめ、同じ世代の王室と交流できたことが有意義でした」と話された。こうして、日本・ブータンの本格的交流が始まったのである。
雅子さまとの縁を取り持った「幸せの国」
浩宮さまは帰国後、ゴを着て昭和天皇に帰朝報告をされた。その約2年後、昭和天皇が亡くなられると、ブータンは直ちに王宮に天皇の遺影を掲げた祭壇を設け、国を挙げて6日間、喪に服し、全国の寺院で哀悼のための特別法要が開かれたという。昭和天皇の死に涙を流したワンチュク国王は、ゴを着て来日し、昭和天皇の大喪に参列した。

ブータンから帰国して間もなく、浩宮さまは雅子さまとの交際の始まりとして、高円宮邸でお会いになった。その時に持参されたのが、あの親善訪問のアルバムだった。浩宮さまが雅子さまにブータンの話をたっぷりとされたのは間違いないだろう。緊張している若いお二人の間を取り持ったのだ。そして、先に紹介した「七、八合目発言」につながっていく。日本と「幸せの国ブータン」は不思議な縁で結ばれていると、筆者は信じている。

(2019年2月27日 記)
【Profile】
斉藤 勝久 SAITO Katsuhisa
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社に入社後、社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部では著名人が自ら語る闘病記「一病息災」を連載した(医療・健康サイト「ヨミドクター」に収録)。2016年夏からフリーに。

0 件のコメント:

コメントを投稿