Source: http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161212-00010011-agora-soci
アゴラ 12/12(月)、ヤフーニュースより
これまで私は、日本、中国、韓国、フランス、アメリカなどの通史を書いてそれなりに多くの方に読んでいただいてきましたが、「日本史」と「世界史」の通史をワンセットで出したいといろんな出版社にお願いしてきましたが、二冊一緒にということがネックになってきました。
しかし、このほど、扶桑社新書から12月に「世界と日本がわかる 最強の世界史」(http://amzn.to/2gCygB9)、3月に「日本と世界がわかる 最強の日本史」を出すことになりました。
一人で世界史と日本史を同時に書いて読んでもらってこそ、歴史の全体像が見えてくるはずという思いですので、これまでの本以上に私としては皆様にお読みいただければ幸いだと思っています。
こうした通史を書いていると、これまでうっかり見過ごしていたことに気がついて、悩むことになります。とくに西洋と東洋、そして、その真ん中の中近東、中央アジア、インドなどの役割をあらためて勉強することになり、目が鱗から落ちたような思いもいろいろありました。
とくに、世界史のいろいろな出来事の前後関係がこれまで少しずれていたのに気付いたりします。
そうしたことを何度かに分けて紹介もしたいのですが、今日のテーマは仏教とギリシャ文明です。
よく考えて見ると、ギリシャ文明あってこその仏教なのです。「137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史」」(クリストファー ロイド ,講談社)という人気のある世界史の本では、世界史上の重大事件のひとつとして、アショーカ王による仏教の国教化を上げています。ブッダによる悟りや布教よりこちらを選んだのが面白いところです。
仏教もブッダ自身は新たな宗教を開いたと思っていなかったでしょう。そして、やはりブッダの時代から二世紀ほど後のアショーカ王が仏教に帰依し、インドを統一してその国教としたことで世界的な影響までもつきっかけになりました。その意味で、アショーカ王の改宗にこそ意味があるという見方は説得力があります。
インドに侵入してきたアーリア人たちの宗教はバラモン教でした。厳格なカースト制度を敷き、社会的停滞の原因になりましたが、階級同士の連帯が強いことが、民族同士で対立を激化させないメリットもありました。
ところが、前5世紀ごろになると中産階級を中心に不満が高まり、そのなかで生まれてきたのが仏教なのです。ブッダ(前463?~前383年?)は、ネパール領になっているルンビニーで生まれました。モンゴル系の部族と云われています。
アショカ王はガンジス川中流にあったマガタ国で生まれました。祖父であるチャンドラ・グプタがマウリア王朝を開いたのは、北インドに侵入したアレクサンドロス大王が死んだ直後のことです。チャンドラ・グプタは、シリアのセレウコス朝に500頭の軍象を提供することと引き替えに北インドの支配権を認められました。そういう意味でアショーカ王はまさにヘレニズム時代の人なのです。
アショカ王は、継承にあって、多くの兄弟を殺し、東部オリッサ地方のカリンガ国を征服したとき、数十万人を殺しました。この悲惨な戦争を機に人生観を変え。仏教へ入信し世界史ではじめての人類愛の政治における実践をしました。
仏教は、南方に伝わって上座(小乗)仏教となり、北西インドでは自らだけでなく大衆を救うことを強調した大乗仏教が発達し、紀元前後には、ハイバル峠の両側のアフガニスタンやパキスタンで、ガンダーラ文化が栄えました。
大乗仏教が発展し、ギリシャ彫刻の影響のもとで仏像がつくられたのはここで、その意味で日本にまでその影響は及びました。
中国に仏教が伝わったのは、後漢の時代ですが、本格的な普及は南北朝時代です。 この時代には、西域から仏図澄(232 - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧がやってきて、仏典の漢訳も始まり、中国人に受ける分かりやすいものへ変容してきました。
五胡十六国時代の華北で、多くの国が仏教を受け入れたのは、ユニバーサルな思想である仏教が漢民族でない彼らにとって受け入れやすかったからです。また、仏教はエキゾティックな建築、仏像仏具など工芸、それに、食事や音楽なども一体となったものです。その意味では西域文化がワンセットで中国に入ってきたとも言えます。
そして、南朝でも仏教が盛んになりましたが、北魏では皇帝如来といわれたように、皇帝の権威を高めるために使われましたが、南朝では皇帝菩薩というように上流階級の人が心の平安を願うために重宝されました。晩唐の詩人杜牧は、この時代をしのび「江南春望絶句」で「千里鶯啼きて緑紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝四百八十寺 多少の樓臺烟雨の中」という夢幻的な美しい情景を詠みました。貴族たちは大規模な荘園を構え、弱体な帝権に媚びずに気ままに贅沢な暮らしを楽しみながら仏教に精神の安定を求めました。
この南朝の仏教が百済を経由して日本に入ってきたのが仏教伝来であり、飛鳥時代の仏教でした。そして、この仏教の受け入れで、日本人で読み書きの出来る人が飛躍的にふえ、礎石の上に頑丈な建物が建てられ、本格的な美術工芸や音楽が発展し始めたのです。
シェリーという19世紀のイギリス人詩人は、「私たちはギリシャ人だ」といいましたが、それなら、仏教の強い影響下にある現代の日本人もギリシャ人といってよいのです。
しかし、このほど、扶桑社新書から12月に「世界と日本がわかる 最強の世界史」(http://amzn.to/2gCygB9)、3月に「日本と世界がわかる 最強の日本史」を出すことになりました。
一人で世界史と日本史を同時に書いて読んでもらってこそ、歴史の全体像が見えてくるはずという思いですので、これまでの本以上に私としては皆様にお読みいただければ幸いだと思っています。
こうした通史を書いていると、これまでうっかり見過ごしていたことに気がついて、悩むことになります。とくに西洋と東洋、そして、その真ん中の中近東、中央アジア、インドなどの役割をあらためて勉強することになり、目が鱗から落ちたような思いもいろいろありました。
とくに、世界史のいろいろな出来事の前後関係がこれまで少しずれていたのに気付いたりします。
そうしたことを何度かに分けて紹介もしたいのですが、今日のテーマは仏教とギリシャ文明です。
よく考えて見ると、ギリシャ文明あってこその仏教なのです。「137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史」」(クリストファー ロイド ,講談社)という人気のある世界史の本では、世界史上の重大事件のひとつとして、アショーカ王による仏教の国教化を上げています。ブッダによる悟りや布教よりこちらを選んだのが面白いところです。
仏教もブッダ自身は新たな宗教を開いたと思っていなかったでしょう。そして、やはりブッダの時代から二世紀ほど後のアショーカ王が仏教に帰依し、インドを統一してその国教としたことで世界的な影響までもつきっかけになりました。その意味で、アショーカ王の改宗にこそ意味があるという見方は説得力があります。
インドに侵入してきたアーリア人たちの宗教はバラモン教でした。厳格なカースト制度を敷き、社会的停滞の原因になりましたが、階級同士の連帯が強いことが、民族同士で対立を激化させないメリットもありました。
ところが、前5世紀ごろになると中産階級を中心に不満が高まり、そのなかで生まれてきたのが仏教なのです。ブッダ(前463?~前383年?)は、ネパール領になっているルンビニーで生まれました。モンゴル系の部族と云われています。
アショカ王はガンジス川中流にあったマガタ国で生まれました。祖父であるチャンドラ・グプタがマウリア王朝を開いたのは、北インドに侵入したアレクサンドロス大王が死んだ直後のことです。チャンドラ・グプタは、シリアのセレウコス朝に500頭の軍象を提供することと引き替えに北インドの支配権を認められました。そういう意味でアショーカ王はまさにヘレニズム時代の人なのです。
アショカ王は、継承にあって、多くの兄弟を殺し、東部オリッサ地方のカリンガ国を征服したとき、数十万人を殺しました。この悲惨な戦争を機に人生観を変え。仏教へ入信し世界史ではじめての人類愛の政治における実践をしました。
仏教は、南方に伝わって上座(小乗)仏教となり、北西インドでは自らだけでなく大衆を救うことを強調した大乗仏教が発達し、紀元前後には、ハイバル峠の両側のアフガニスタンやパキスタンで、ガンダーラ文化が栄えました。
大乗仏教が発展し、ギリシャ彫刻の影響のもとで仏像がつくられたのはここで、その意味で日本にまでその影響は及びました。
中国に仏教が伝わったのは、後漢の時代ですが、本格的な普及は南北朝時代です。 この時代には、西域から仏図澄(232 - 348年)や鳩摩羅什(344年 - 413年)などの高僧がやってきて、仏典の漢訳も始まり、中国人に受ける分かりやすいものへ変容してきました。
五胡十六国時代の華北で、多くの国が仏教を受け入れたのは、ユニバーサルな思想である仏教が漢民族でない彼らにとって受け入れやすかったからです。また、仏教はエキゾティックな建築、仏像仏具など工芸、それに、食事や音楽なども一体となったものです。その意味では西域文化がワンセットで中国に入ってきたとも言えます。
そして、南朝でも仏教が盛んになりましたが、北魏では皇帝如来といわれたように、皇帝の権威を高めるために使われましたが、南朝では皇帝菩薩というように上流階級の人が心の平安を願うために重宝されました。晩唐の詩人杜牧は、この時代をしのび「江南春望絶句」で「千里鶯啼きて緑紅に映ず 水村山郭酒旗の風 南朝四百八十寺 多少の樓臺烟雨の中」という夢幻的な美しい情景を詠みました。貴族たちは大規模な荘園を構え、弱体な帝権に媚びずに気ままに贅沢な暮らしを楽しみながら仏教に精神の安定を求めました。
この南朝の仏教が百済を経由して日本に入ってきたのが仏教伝来であり、飛鳥時代の仏教でした。そして、この仏教の受け入れで、日本人で読み書きの出来る人が飛躍的にふえ、礎石の上に頑丈な建物が建てられ、本格的な美術工芸や音楽が発展し始めたのです。
シェリーという19世紀のイギリス人詩人は、「私たちはギリシャ人だ」といいましたが、それなら、仏教の強い影響下にある現代の日本人もギリシャ人といってよいのです。
八幡 和郎
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