Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200103-00000004-courrier-int
1/3(金)、ヤフーニュースより
北インドでかつて栄えたアワド藩王国(1724~1856年)──その王族の末裔だという一家が、インドの首都デリーの廃屋となった遺跡に暮らしていた。
森の中で隠遁生活を送る彼らの正体は謎に包まれ、40年もの間、世界各国のメディアが彼らの真の姿を明らかにしようと取材を続けてきた。
そしてついに2019年、米紙「ニューヨーク・タイムズ」の記者エレン・バリーがこの一家の謎を明らかにした。2016年の春、アワド王家への取材が許されたのだ。
歴史に翻弄された家族の物語を、長編のルポでお伝えする。
森の中で隠遁生活を送る彼らの正体は謎に包まれ、40年もの間、世界各国のメディアが彼らの真の姿を明らかにしようと取材を続けてきた。
そしてついに2019年、米紙「ニューヨーク・タイムズ」の記者エレン・バリーがこの一家の謎を明らかにした。2016年の春、アワド王家への取材が許されたのだ。
歴史に翻弄された家族の物語を、長編のルポでお伝えする。
デリーの街の大いなる謎のひとつ
2016年のある春の午後、まだインドで働いていたとき、デリー中心部の森に住んでいた一人の隠遁者から、電話で伝言メッセージを受け取った。アワド王家への取材が許されたのだ。
アワド王家の存在は、デリーの街の大いなる謎のひとつだった。彼らについての物語は、オールドデリーで働くお茶売りや三輪タクシーの運転手や店主たちの間で伝わっていた。彼らによれば、都市から切り離された森の中の宮殿に、母親と娘、息子の3人が住んでおり、彼らは有名なシーア派イスラム教徒の王家の血を引く最後の末裔なのだという。
この王家の末裔に関する物語は、話を聞く相手によって異なっていた。ある人々は、 1856年にイギリスが王国を併合して以来、アワド王家は今の場所に暮らしており、宮殿を取り巻く森が成長するにしたがい彼らを飲み込んでしまったのだと言う。また別の人々は、彼らがアラブの民間伝承の超自然的な存在であるジン(精霊)の一族であると言う。
かつて望遠レンズを覗いて王女の姿を垣間見た知人によれば、その髪は長い間伸ばし放題で洗髪もしていない状態だったので、枝が敷き詰められた地面に毛が抜け落ちていたという。
ひとつ確かなのは、彼らが同伴者を望んでいないということである。彼らは14世紀の狩猟用ロッジとして使われていた建物に住んでおり、有刺鉄線に囲まれ、凶暴な犬たちに守られていた。敷地の境界には、恐ろしい標識が貼られていた。そこには「侵入者は射殺するものとする」と書かれていた。
この一族は数年おきに、国家に対して彼らが抱いている不満を、1人の記者に(常に外国人だった)話すことを承諾していた。これらの記者たちは、非常に興味深い不気味な話を持ち帰り、私はそれを感嘆しつつ研究していた。1997年、王子と王女は英紙「タイムズ」に対し、母親がイギリスとインドによる裏切りに抗議する最後の意思表明として、砕いたダイヤモンドと真珠を混ぜた毒を飲んで自殺したと語った。
これらの物語がこんなにも心に響く理由が私にはわかっていた。この国には、イギリスによる制圧の只中でなされた謀略から、「分離」として知られる、パキスタンをインドから切り離し、ヒンドゥー教徒とムスリムの間に暴力的な動乱を引き起こしたイギリス領インド解体における大量虐殺にいたるまで、トラウマが深く刻まれているからである。
この一家は、自らの荒廃ぶりを示すことで、インドがこれまで苦しんできたあらゆることを、身を以て示しているのだ。
一家の姉と弟を撮影した、粒子の粗い写真がいくつか公開されつつあった。彼らは美しく、青白く、気品ある顔立ちをしていたが、どことなく荒んでいて、虚ろな表情をしていた。
取材許可のメッセージを受け取った翌日、その番号に電話してみた。数回鳴った後、誰かが電話に出ると、私は電話越しに甲高く震えるような声を聞いた。
アワド王家の存在は、デリーの街の大いなる謎のひとつだった。彼らについての物語は、オールドデリーで働くお茶売りや三輪タクシーの運転手や店主たちの間で伝わっていた。彼らによれば、都市から切り離された森の中の宮殿に、母親と娘、息子の3人が住んでおり、彼らは有名なシーア派イスラム教徒の王家の血を引く最後の末裔なのだという。
この王家の末裔に関する物語は、話を聞く相手によって異なっていた。ある人々は、 1856年にイギリスが王国を併合して以来、アワド王家は今の場所に暮らしており、宮殿を取り巻く森が成長するにしたがい彼らを飲み込んでしまったのだと言う。また別の人々は、彼らがアラブの民間伝承の超自然的な存在であるジン(精霊)の一族であると言う。
かつて望遠レンズを覗いて王女の姿を垣間見た知人によれば、その髪は長い間伸ばし放題で洗髪もしていない状態だったので、枝が敷き詰められた地面に毛が抜け落ちていたという。
ひとつ確かなのは、彼らが同伴者を望んでいないということである。彼らは14世紀の狩猟用ロッジとして使われていた建物に住んでおり、有刺鉄線に囲まれ、凶暴な犬たちに守られていた。敷地の境界には、恐ろしい標識が貼られていた。そこには「侵入者は射殺するものとする」と書かれていた。
この一族は数年おきに、国家に対して彼らが抱いている不満を、1人の記者に(常に外国人だった)話すことを承諾していた。これらの記者たちは、非常に興味深い不気味な話を持ち帰り、私はそれを感嘆しつつ研究していた。1997年、王子と王女は英紙「タイムズ」に対し、母親がイギリスとインドによる裏切りに抗議する最後の意思表明として、砕いたダイヤモンドと真珠を混ぜた毒を飲んで自殺したと語った。
これらの物語がこんなにも心に響く理由が私にはわかっていた。この国には、イギリスによる制圧の只中でなされた謀略から、「分離」として知られる、パキスタンをインドから切り離し、ヒンドゥー教徒とムスリムの間に暴力的な動乱を引き起こしたイギリス領インド解体における大量虐殺にいたるまで、トラウマが深く刻まれているからである。
この一家は、自らの荒廃ぶりを示すことで、インドがこれまで苦しんできたあらゆることを、身を以て示しているのだ。
一家の姉と弟を撮影した、粒子の粗い写真がいくつか公開されつつあった。彼らは美しく、青白く、気品ある顔立ちをしていたが、どことなく荒んでいて、虚ろな表情をしていた。
取材許可のメッセージを受け取った翌日、その番号に電話してみた。数回鳴った後、誰かが電話に出ると、私は電話越しに甲高く震えるような声を聞いた。
小さな妖精のような王子
次の月曜日、私は指示された通り、運転手に午後5時30分に森の中へ連れていくよう頼んだ。
この森自体は少し不思議な、2000万人が住む都市の真ん中にある低木密生林だった。イギリスの植民地将校たちが19世紀にメスキートというマメ科の低木を植えると急速に広まり、牧草地、道路、村など、当時その周辺にあったものすべてを飲み込んでいった。生物学者は後にそれを「外来種」による「大規模な侵入」と説明することになるだろう。
木の天蓋がかき乱され、充分な厚さとなって光を遮るまで、私たちはさらに先へと進んだ。
電話口の人物は、道路の隅にあるインドの軍事施設で使われているような高い壁の横に車を残し、1人で来るように言っていた。私はこのことに驚かなかった。アワド王家の人たちは、よく知られるように、インド人と会うことを拒んでいたからである。私は運転手に離れて待つように頼み、どこかぎこちなく森の中に立ち、ノートを手に持って、この後何が起こるのか考えていた。
それから茂みがガサガサと音を立て、1人の男性が現れた。
彼は小さな妖精のようで、ハイウエストのジーンズを履いていた。頬骨が高く、頬骨の周りは痩せ落ちていて、ふさふさ立ち上がった灰色の髪がでたらめに生えていた。
「サイラスです」と王子は言った。電話で聞いた甲高い声だった。彼は一気に話した。ほとんどの時間を1人きりで過ごしてきた人のようだった。
それから彼は背を向けると、私を森の中へと導いた。遅れをとらないようにと思いながら、根と棘がもつれたものを越えて歩き続け、以前、狩猟小屋として使われていた宮殿へと連なる巨石の階段を登った。建物は半ば崩れ落ちており、外の空気にさらされて、金属格子に囲まれていた。 1本の鉄の棒がゆるんでいて、王子はそれを大きな音を立てて脇へ動かし、私たちは彼らの家へ入ることができた。
私は真鍮製の植木鉢の中にヤシの木が立ち並び、かつては上品だった色あせたカーペットが敷かれた中世の壮大な控えの間に足を踏み入れた。壁には、おびただし暗いローブに包まれた王子の母親を描いた油絵が掛けられており、忘我の境にいるかのようにその目は閉じられていた。
王子は景色を見せようと私を屋根まで案内してくれた。私たちは建物の端で立ち止まり、緑の梢から、熱気の中でチラチラゆらめく埃っぽい街を見つめていた。
他の大都市は遺跡の上に建てられているかもしれないが、デリーという都市は遺跡でできている。 700年前の墓や500年前の砦に躓かずして、ある地点から別の地点に行くことはほぼ不可能なのである。
7代にもわたるイスラム王朝がここに首都を建設し、その王朝時代が終わればその場を追放された。こうした遺跡の数々は、現代を支配するシステムである民主主義、スターバックス、ヒンズー教のナショナリズムなどが、インドの歴史においてはほんの一時的なものに過ぎないことを思い出させてくれる。これらの遺跡は「我々はここにいたのだ」という囁きとともに、今でも息づいているように見える。「これは、私たちのものだったのだ」と。
彼の家族について尋ねると、彼はイギリス政府とインド政府の不実について、生き生きとしたスピーチを始めた。
私はそのスピーチの中に、「ワシントン・ポスト」、「ニューヨーク・タイムズ」、「シカゴ・トリビューン」、「ロサンゼルス・タイムズ」の同僚が書いた記事が引用されていることに気づいた。彼は、ある犯罪集団による迫害を訴え、少し怒鳴り散らした。アワド王家の衰退について語りながら、彼は両手を大きく放り出し、叫び声を上げ、それから芝居がかったような囁く声になった。
「僕は縮こまっている」と彼は言った。 「僕たちは縮こまっている。王女は縮こまっている。僕たちは縮こまっている。」
取材内容を記事にしてもいいかと尋ねると、彼は急にしぶった。そうするには、デリーにいない姉のサキナ王女の許可が必要なのだと彼は言った。私はもう一度出直さなければならなかった。
しかし、私はこのことを奇妙に感じた。
記事に書かれたくないのに、なぜ記者を呼んだのだろうか。
この森自体は少し不思議な、2000万人が住む都市の真ん中にある低木密生林だった。イギリスの植民地将校たちが19世紀にメスキートというマメ科の低木を植えると急速に広まり、牧草地、道路、村など、当時その周辺にあったものすべてを飲み込んでいった。生物学者は後にそれを「外来種」による「大規模な侵入」と説明することになるだろう。
木の天蓋がかき乱され、充分な厚さとなって光を遮るまで、私たちはさらに先へと進んだ。
電話口の人物は、道路の隅にあるインドの軍事施設で使われているような高い壁の横に車を残し、1人で来るように言っていた。私はこのことに驚かなかった。アワド王家の人たちは、よく知られるように、インド人と会うことを拒んでいたからである。私は運転手に離れて待つように頼み、どこかぎこちなく森の中に立ち、ノートを手に持って、この後何が起こるのか考えていた。
それから茂みがガサガサと音を立て、1人の男性が現れた。
彼は小さな妖精のようで、ハイウエストのジーンズを履いていた。頬骨が高く、頬骨の周りは痩せ落ちていて、ふさふさ立ち上がった灰色の髪がでたらめに生えていた。
「サイラスです」と王子は言った。電話で聞いた甲高い声だった。彼は一気に話した。ほとんどの時間を1人きりで過ごしてきた人のようだった。
それから彼は背を向けると、私を森の中へと導いた。遅れをとらないようにと思いながら、根と棘がもつれたものを越えて歩き続け、以前、狩猟小屋として使われていた宮殿へと連なる巨石の階段を登った。建物は半ば崩れ落ちており、外の空気にさらされて、金属格子に囲まれていた。 1本の鉄の棒がゆるんでいて、王子はそれを大きな音を立てて脇へ動かし、私たちは彼らの家へ入ることができた。
私は真鍮製の植木鉢の中にヤシの木が立ち並び、かつては上品だった色あせたカーペットが敷かれた中世の壮大な控えの間に足を踏み入れた。壁には、おびただし暗いローブに包まれた王子の母親を描いた油絵が掛けられており、忘我の境にいるかのようにその目は閉じられていた。
王子は景色を見せようと私を屋根まで案内してくれた。私たちは建物の端で立ち止まり、緑の梢から、熱気の中でチラチラゆらめく埃っぽい街を見つめていた。
他の大都市は遺跡の上に建てられているかもしれないが、デリーという都市は遺跡でできている。 700年前の墓や500年前の砦に躓かずして、ある地点から別の地点に行くことはほぼ不可能なのである。
7代にもわたるイスラム王朝がここに首都を建設し、その王朝時代が終わればその場を追放された。こうした遺跡の数々は、現代を支配するシステムである民主主義、スターバックス、ヒンズー教のナショナリズムなどが、インドの歴史においてはほんの一時的なものに過ぎないことを思い出させてくれる。これらの遺跡は「我々はここにいたのだ」という囁きとともに、今でも息づいているように見える。「これは、私たちのものだったのだ」と。
彼の家族について尋ねると、彼はイギリス政府とインド政府の不実について、生き生きとしたスピーチを始めた。
私はそのスピーチの中に、「ワシントン・ポスト」、「ニューヨーク・タイムズ」、「シカゴ・トリビューン」、「ロサンゼルス・タイムズ」の同僚が書いた記事が引用されていることに気づいた。彼は、ある犯罪集団による迫害を訴え、少し怒鳴り散らした。アワド王家の衰退について語りながら、彼は両手を大きく放り出し、叫び声を上げ、それから芝居がかったような囁く声になった。
「僕は縮こまっている」と彼は言った。 「僕たちは縮こまっている。王女は縮こまっている。僕たちは縮こまっている。」
取材内容を記事にしてもいいかと尋ねると、彼は急にしぶった。そうするには、デリーにいない姉のサキナ王女の許可が必要なのだと彼は言った。私はもう一度出直さなければならなかった。
しかし、私はこのことを奇妙に感じた。
記事に書かれたくないのに、なぜ記者を呼んだのだろうか。
事の発端
物語は、彼の母親から始まった。彼女は、1970年代初頭のニューデリーの駅ホームに、どこからともなく現れ、自身をアワド藩王国のベーグム(インドやパキスタンの高位のイスラム教徒の女性)であるウィラヤットだと名乗った。
アワド藩王国は、もはや存在しない王国である。イギリスが1856年に併合し、首都ラクナウはそのトラウマから決して立ち直ることはなかった。街の中心部は、今でもアワド藩王国時代の丸天井の神殿や宮殿から成っている。
ウィラヤットは、これらの財産が彼女に返還されるまで、駅を離れないと宣言した。彼女はVIP用の待合室に落ち着き、家財すべてをそこに積み下ろした。カーペット、鉢植えのヤシ、銀のティーセット、制服を着たネパール人の召使たち、光沢のあるグレートデーン犬たち。彼女には2人の成長した子供、アリ・ラザ王子とサキナ王女もいて、ともに20代くらいだった。彼らはウィラヤットのことを「殿下」と呼んでいた。
ウィラヤットは人目を引く女性で、背が高く肩幅も広くて、イースター島の像のように厳つくて動じない顔をしていた。暗い色の重たいシルクのサリーを着て、折り目にピストルを所持していた。彼女とその子供たちは、赤いプラスチックの椅子に落ち着き、待っていた。何年もの間。
「座っていたよ、ヨガの修行者のようにね」と、駅で食料を配給するカトリックの慈善活動家であるジョン神父は、当時を思い返した。子どもたちは奇妙なほど従順で、母親の許可なしにバナナを受け取ることすら気が進まないようだった、と彼は言う。
「彼らは犬よりも従順でしたよ」と彼。「彼女の絶対的な管理下にあったのです」
ウィラヤットのふるまいは、横柄で芝居がかっていた。彼女は直接会話することを拒否し、質問をエンボス加工された便箋に書き、銀の大皿に置き、召使がそれを声に出して読むよう要求した。駅長が彼女に対して何らかのトラブルを起こした場合、蛇毒を飲んで自殺すると脅した。
「ネパール人の召使たちは、命令されれば膝立ちで歩いただろう」と当時彼らについて追求していた歴史家のサレム・キドワイは言う。
政府当局は、彼女の住まい探しに駆けずり回った。彼女はメディアから注目を集めており、もしもラクナウに住むシーア派の人々が、彼女が虐待されていると信じた場合、市民たちの不安が爆発する可能性があることを、当局は恐れていたのである。
「非常に空想を掻き立てられるイメージだったのです」とキドワイ氏は言う。「城から出た彼女が、今は鉄道の駅舎に住んでいるというね」
ウッタル・プラデーシュ州の州長補佐官であるアマー・リズヴィは、連絡係としてニューデリーに派遣された。彼は、ラクナウで生活を始められるよう、1万ルピーの入った封筒をウィラヤットに渡したことを思い起こした。
「1975年当時、それはかなりの金額でした」と彼は振り返る。「ですが、彼女は怒って封筒を投げました。お金があたりに舞い、広報担当官はあちこちにお札を拾いに行かなければなりませんでした。彼女はノーと言い、金額が少なすぎるためその場を動こうとしなかったのです」
その後の数ヵ月で、リズヴィ氏はラクナウにある4人用の住宅を受け入れるようウィラヤットを説得しようとしたが、それでは小さすぎると言って拒否した。
彼は心配になってきた。イスラム教徒たちが結集しつつあったのである。かつてリズヴィ氏が1年に一度おこなわれる喪の儀式ムハッラム(ヒジュラ暦における1番目の月)を訪れたとき、彼女は気がつくと巡礼者たちに囲まれており、彼らがカミソリの刃が取り付けられた鎖で自らを鞭打っているのを目にした。
「通りがかった人たちが気の毒でしたよ。彼らはこういう全てのことを見ていましたから」と彼は言う。「あたり一面、血の海でした」
この頃ウィラヤットは、自らの主張を通すため、はるかに効果的な方法を見出していた。外国の特派員を使うことである。
1981年に「鉄道駅舎を統治するインド王女」という記事を書いた「タイムズ」紙の特派員は、ウィラヤットのことを「先祖の名誉を回復し、何世紀にもわたる苦しみを引き起こしてきた過ちを正し、正義を手にするため、正真正銘身を捧げているのだ」と記した。雑誌関係者らは、「アワド藩王国の最後のナワブの子孫がどのように扱われているのか、世界に知らしめよう」と言明する彼女の姿を記録した。
外国の特派員が次々と到着し、記事の読者たちは世界の隅々から、彼女に代わって怒りを表明する手紙を送ってよこした。ウィラヤットは、厳しい条件を課した──彼女の写真は「月が欠けている時しか撮ることはできない」と「ユナイテッド・プレス・インターナショナル」誌は報告している──記者たちはそれに従い、こうしたあらゆるゴシック的な特徴に浮き足立っていた。
1984年、ついに彼女の努力は報われることとなる。インディラ・ガンディー首相は彼女たちの主張を受け入れ、マルチャ・マハルとして知られる14世紀の狩猟用ロッジの使用を認めたのである。彼女たちが駅舎を出る時、最初にそこに現れてから約10年の月日が経っていた。その後、ウィラヤットは二度と公の場に姿を現わすことはなかった。
アワド藩王国は、もはや存在しない王国である。イギリスが1856年に併合し、首都ラクナウはそのトラウマから決して立ち直ることはなかった。街の中心部は、今でもアワド藩王国時代の丸天井の神殿や宮殿から成っている。
ウィラヤットは、これらの財産が彼女に返還されるまで、駅を離れないと宣言した。彼女はVIP用の待合室に落ち着き、家財すべてをそこに積み下ろした。カーペット、鉢植えのヤシ、銀のティーセット、制服を着たネパール人の召使たち、光沢のあるグレートデーン犬たち。彼女には2人の成長した子供、アリ・ラザ王子とサキナ王女もいて、ともに20代くらいだった。彼らはウィラヤットのことを「殿下」と呼んでいた。
ウィラヤットは人目を引く女性で、背が高く肩幅も広くて、イースター島の像のように厳つくて動じない顔をしていた。暗い色の重たいシルクのサリーを着て、折り目にピストルを所持していた。彼女とその子供たちは、赤いプラスチックの椅子に落ち着き、待っていた。何年もの間。
「座っていたよ、ヨガの修行者のようにね」と、駅で食料を配給するカトリックの慈善活動家であるジョン神父は、当時を思い返した。子どもたちは奇妙なほど従順で、母親の許可なしにバナナを受け取ることすら気が進まないようだった、と彼は言う。
「彼らは犬よりも従順でしたよ」と彼。「彼女の絶対的な管理下にあったのです」
ウィラヤットのふるまいは、横柄で芝居がかっていた。彼女は直接会話することを拒否し、質問をエンボス加工された便箋に書き、銀の大皿に置き、召使がそれを声に出して読むよう要求した。駅長が彼女に対して何らかのトラブルを起こした場合、蛇毒を飲んで自殺すると脅した。
「ネパール人の召使たちは、命令されれば膝立ちで歩いただろう」と当時彼らについて追求していた歴史家のサレム・キドワイは言う。
政府当局は、彼女の住まい探しに駆けずり回った。彼女はメディアから注目を集めており、もしもラクナウに住むシーア派の人々が、彼女が虐待されていると信じた場合、市民たちの不安が爆発する可能性があることを、当局は恐れていたのである。
「非常に空想を掻き立てられるイメージだったのです」とキドワイ氏は言う。「城から出た彼女が、今は鉄道の駅舎に住んでいるというね」
ウッタル・プラデーシュ州の州長補佐官であるアマー・リズヴィは、連絡係としてニューデリーに派遣された。彼は、ラクナウで生活を始められるよう、1万ルピーの入った封筒をウィラヤットに渡したことを思い起こした。
「1975年当時、それはかなりの金額でした」と彼は振り返る。「ですが、彼女は怒って封筒を投げました。お金があたりに舞い、広報担当官はあちこちにお札を拾いに行かなければなりませんでした。彼女はノーと言い、金額が少なすぎるためその場を動こうとしなかったのです」
その後の数ヵ月で、リズヴィ氏はラクナウにある4人用の住宅を受け入れるようウィラヤットを説得しようとしたが、それでは小さすぎると言って拒否した。
彼は心配になってきた。イスラム教徒たちが結集しつつあったのである。かつてリズヴィ氏が1年に一度おこなわれる喪の儀式ムハッラム(ヒジュラ暦における1番目の月)を訪れたとき、彼女は気がつくと巡礼者たちに囲まれており、彼らがカミソリの刃が取り付けられた鎖で自らを鞭打っているのを目にした。
「通りがかった人たちが気の毒でしたよ。彼らはこういう全てのことを見ていましたから」と彼は言う。「あたり一面、血の海でした」
この頃ウィラヤットは、自らの主張を通すため、はるかに効果的な方法を見出していた。外国の特派員を使うことである。
1981年に「鉄道駅舎を統治するインド王女」という記事を書いた「タイムズ」紙の特派員は、ウィラヤットのことを「先祖の名誉を回復し、何世紀にもわたる苦しみを引き起こしてきた過ちを正し、正義を手にするため、正真正銘身を捧げているのだ」と記した。雑誌関係者らは、「アワド藩王国の最後のナワブの子孫がどのように扱われているのか、世界に知らしめよう」と言明する彼女の姿を記録した。
外国の特派員が次々と到着し、記事の読者たちは世界の隅々から、彼女に代わって怒りを表明する手紙を送ってよこした。ウィラヤットは、厳しい条件を課した──彼女の写真は「月が欠けている時しか撮ることはできない」と「ユナイテッド・プレス・インターナショナル」誌は報告している──記者たちはそれに従い、こうしたあらゆるゴシック的な特徴に浮き足立っていた。
1984年、ついに彼女の努力は報われることとなる。インディラ・ガンディー首相は彼女たちの主張を受け入れ、マルチャ・マハルとして知られる14世紀の狩猟用ロッジの使用を認めたのである。彼女たちが駅舎を出る時、最初にそこに現れてから約10年の月日が経っていた。その後、ウィラヤットは二度と公の場に姿を現わすことはなかった。
詐欺師一家という評判
私とサイラスが会話を交わすようになっておよそ9ヵ月が経った頃、私は北部インドの大都市、アワド王朝の発祥地であるラクナウを旅行した。この件とは関係のない話で、探偵たちに取材するためにラクナウにいたのだが、1970年代にサイラスが母親と姉と一緒にこの場所に住んでいたことを知っていたので、アワド藩王国の子孫が住んでいると聞いていた場所へ向かったのである。
驚くべきことに、そこでは昔からの住人たちが、サイラスやその家族のことを覚えていた。しかし、彼らが私にほとんど余談のようにして語ったことによれば、サイラスらは詐欺師としてこの場所を追放されたのだという。ナワブが亡命中に亡くなった場所であるカルカッタに住むアワド藩王国の子孫たちも、サイラスらの主張を否認していた。
そして、サイラス自身が答えることができないように思われる質問の数々があった。彼はどこで生まれたのか? 彼の父は誰だったのか? それはともかくとして、ダイヤモンドはどうやって粉砕したのか? といったことである。
彼の姉であるサキナ王女は姿を現さなかったが、彼は彼女が一家について記録していた本を渡してくれた。この本はほとんどが読解不可能で、ランダムに大文字表記があり、句読点がなく、ごてごてした黙示録的な散文で書かれていた。
しかし、このとりとめのないテキストには、姉弟間の真の優しさの閃きがあった。まるで、救命ボートで一緒に座礁した2人の小さな子供のようだった。
サキナは母親を追って自殺するつもりだったが、弟のために生き残った、と書いている。彼の将来への問いかけが、彼女を執拗に苦しめた。「私の弟サイラス・リザ王子、彼はこの後どんな道を歩けばいいのだろう?」という問いかけだった。「私の静かな誠実たる沈黙が望むのは、王子が幸福に恵まれるべきだということだ」
ある夜、サイラスから電話があり、彼は聞きとりにくい声でわめきながら、実は姉は7ヵ月前に死んでいたことを告げた。彼は遺体を埋葬し、誰にも言わなかったのである。彼は何ヵ月もの間、私に嘘をついていたわけだが、そのことを少し恥じているように思われた。私は娘の二段ベッドで丸くなって、電話口に彼の声を聞いた。彼は、二度と訪れないでほしいと言い、とても孤独であるとも言った。
私は数日待ち、マクドナルドのフィレオフィッシュを持ってサイラスの元を訪れた。私たちの関係は再び結びついたようだった。彼から銃とガールフレンドを調達するように頼まれたが、私は応じなかった。防水シートと「屋根の上のバイオリン弾き」の録音を持っていくことには応じたが。彼は1960年代に遡ったかのようなポップカルチャーへの言及をしばしばし、気遣わしく少々おセンチだった。
一度、頬にキスをするよう頼まれた。彼の肌はティッシュペーパーのようにもろく感じられ、彼はキスされるのは10年ぶりだと言った。「君がここにいるとき、僕の心はソフィア・ローレンの『ズビズビズー』みたいになるよ」と彼。
彼は、私が事細かに書きすぎなければ、彼について何らかの記事を書いてもいいとさえ言った。
「真実を書かないと」と私は言った。
「そうだね、君は真実を書かなければ」と彼は言った。「じゃあもう一度、ハリー・ベラフォンテの『バケツの穴』を歌おうよ」
私たちはこうして15ヵ月もの間話をしていたので、その後すぐにインドを離れてロンドンで新しい任務に就くことになっていた。こうしたやり取りが、最後の会話のバランスを整えた。私は彼の起源に関する何かを、彼自身の口から明らかにしてもらおうと思っていた――本当に、何でもよかったのだ――そして彼は、私から身をよじるようにして逃げていた。
「あなたってミステリアスな人よね、だって私はあなたが何者なのか知らないんですもの」とかつて私は言った。彼は照れくさそうに答えた。
「ああ、そうかな」と彼は歌うような声で言った。「うん、まあね。本当にそうかな? 君が僕にミステリアスだと言ったとしても、僕は君の前にただ座っているだけだよ」
ロンドン行きの飛行機に乗る数時間前、サイラスと交わした最後の会話で、彼はもし自分が死んだら、どうやってそのことを私に知らせてもらうことが出来るだろうかと聞いてきた。私は、自殺するつもりなの? と尋ねた。
「今のところ、まだ自分を保存しておくつもりだよ」と彼は言った。
「それがいいわ。じゃあ、また会いましょう」と私は言った。
彼に別れのハグをしたように思う。侵入者から身を守るためのガチャンと音のする鉄製の棒を取り替えている姿が、最後に見た彼の姿だった。【つづく】
驚くべきことに、そこでは昔からの住人たちが、サイラスやその家族のことを覚えていた。しかし、彼らが私にほとんど余談のようにして語ったことによれば、サイラスらは詐欺師としてこの場所を追放されたのだという。ナワブが亡命中に亡くなった場所であるカルカッタに住むアワド藩王国の子孫たちも、サイラスらの主張を否認していた。
そして、サイラス自身が答えることができないように思われる質問の数々があった。彼はどこで生まれたのか? 彼の父は誰だったのか? それはともかくとして、ダイヤモンドはどうやって粉砕したのか? といったことである。
彼の姉であるサキナ王女は姿を現さなかったが、彼は彼女が一家について記録していた本を渡してくれた。この本はほとんどが読解不可能で、ランダムに大文字表記があり、句読点がなく、ごてごてした黙示録的な散文で書かれていた。
しかし、このとりとめのないテキストには、姉弟間の真の優しさの閃きがあった。まるで、救命ボートで一緒に座礁した2人の小さな子供のようだった。
サキナは母親を追って自殺するつもりだったが、弟のために生き残った、と書いている。彼の将来への問いかけが、彼女を執拗に苦しめた。「私の弟サイラス・リザ王子、彼はこの後どんな道を歩けばいいのだろう?」という問いかけだった。「私の静かな誠実たる沈黙が望むのは、王子が幸福に恵まれるべきだということだ」
ある夜、サイラスから電話があり、彼は聞きとりにくい声でわめきながら、実は姉は7ヵ月前に死んでいたことを告げた。彼は遺体を埋葬し、誰にも言わなかったのである。彼は何ヵ月もの間、私に嘘をついていたわけだが、そのことを少し恥じているように思われた。私は娘の二段ベッドで丸くなって、電話口に彼の声を聞いた。彼は、二度と訪れないでほしいと言い、とても孤独であるとも言った。
私は数日待ち、マクドナルドのフィレオフィッシュを持ってサイラスの元を訪れた。私たちの関係は再び結びついたようだった。彼から銃とガールフレンドを調達するように頼まれたが、私は応じなかった。防水シートと「屋根の上のバイオリン弾き」の録音を持っていくことには応じたが。彼は1960年代に遡ったかのようなポップカルチャーへの言及をしばしばし、気遣わしく少々おセンチだった。
一度、頬にキスをするよう頼まれた。彼の肌はティッシュペーパーのようにもろく感じられ、彼はキスされるのは10年ぶりだと言った。「君がここにいるとき、僕の心はソフィア・ローレンの『ズビズビズー』みたいになるよ」と彼。
彼は、私が事細かに書きすぎなければ、彼について何らかの記事を書いてもいいとさえ言った。
「真実を書かないと」と私は言った。
「そうだね、君は真実を書かなければ」と彼は言った。「じゃあもう一度、ハリー・ベラフォンテの『バケツの穴』を歌おうよ」
私たちはこうして15ヵ月もの間話をしていたので、その後すぐにインドを離れてロンドンで新しい任務に就くことになっていた。こうしたやり取りが、最後の会話のバランスを整えた。私は彼の起源に関する何かを、彼自身の口から明らかにしてもらおうと思っていた――本当に、何でもよかったのだ――そして彼は、私から身をよじるようにして逃げていた。
「あなたってミステリアスな人よね、だって私はあなたが何者なのか知らないんですもの」とかつて私は言った。彼は照れくさそうに答えた。
「ああ、そうかな」と彼は歌うような声で言った。「うん、まあね。本当にそうかな? 君が僕にミステリアスだと言ったとしても、僕は君の前にただ座っているだけだよ」
ロンドン行きの飛行機に乗る数時間前、サイラスと交わした最後の会話で、彼はもし自分が死んだら、どうやってそのことを私に知らせてもらうことが出来るだろうかと聞いてきた。私は、自殺するつもりなの? と尋ねた。
「今のところ、まだ自分を保存しておくつもりだよ」と彼は言った。
「それがいいわ。じゃあ、また会いましょう」と私は言った。
彼に別れのハグをしたように思う。侵入者から身を守るためのガチャンと音のする鉄製の棒を取り替えている姿が、最後に見た彼の姿だった。【つづく】
Ellen Barry
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