Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/472806907f5dcd6854acbd5b9be10ae7789b0c6b
東京・日本橋から千葉、茨城、福島、宮城県仙台市まで向かっている国道6号線、通称「ロッコク」。その途中には、福島県のいわき市、広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市、相馬市があり、その中には福島第一原子力発電所事故により帰還困難区域となったまま住民の帰還の見通しが立たないエリアもある(※1)。 【写真】「一度は見なければ」国道6号線のバリケードがずっとつながっている そんな福島県の国道6号線(通称ロッコク)沿いの町で暮らす人々の「食」を通じて、等身大の日常を描くドキュメンタリー映画『ロッコク・キッチン』が劇場公開されている。ノンフィクション作家の川内有緒さんが同名の著書『ロッコク・キッチン』(講談社)を執筆し、映像作家の三好大輔さんとともに共同監督を務めた。お二人の共同監督作は前作『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』に続いて2作目となる。 東日本大震災から15年。「みんな、なに食べて、どう生きてるんだろ?」という小さな問いから始まった本作は、被災地を「かわいそうな場所」として切り取るのではなく、そこに暮らす一人ひとりの複雑で温かな日常を見つめている。本と映画、それぞれの表現で何を伝えようとしたのか。ライターの田幸和歌子さんが、川内さん、三好さんお二人に制作のいきさつなどを聞いた。 ※1:2011年3月11日に発生した東日本大震災での福島第一原子力発電所事故によって、避難指示は12市町村におよび、特に楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町は全町民に対して避難指示が出た。その後、避難指示区域は、帰還困難区域などに再編されると同時に、一部地域では少しずつ避難指示が解除されていったが、浪江町、大熊町、双葉町にはまだ非常に広範囲にわたる帰還困難区域が今も残っている。
映像と書籍、2つの形で表現した理由
田幸和歌子(以下 田幸):著書と映画を並行して拝見しましたが、言葉で伝わるものと映像で伝わるものはそれぞれ違って、それぞれの面白さがありますね。 川内有緒(以下 川内):映像だと微妙な表情の変化があったり、空がきれいだなと感じられたりするのはやっぱり映像の力ですし、何も映っていないように見える夜の時間もいい。時間の厚さというか、視覚的な時間がある。一方で本はいろんな情報と体験を込められるので、情報量としては本のほうが多い。だから『ロッコク・キッチン』は、両方あっての作品だなと思います。映画では言葉を削って削って、この一言だけというところまで絞り込んでいるので、映画では削った部分も、本にはきちんと書けたことにすごく満足しています。 三好大輔(以下 三好):同じ人物の取材でも、映像と本ではかなり印象が違うと感じてくださる方が多いですね。本を先に読んでから映画をご覧になった方からは、読むことでより深まったという感想もいただいています。 田幸:もともとの出発点は、国道6号線、ロッコク沿いで暮らしている住民の方々から食をテーマにしたエッセイを募り、一冊の本にまとめるものでした。映画と本を並行して進めると決めたのはどんなタイミングでしたか。 川内:結構早いタイミングで決めていました。映画は撮影ができたもので作り上げるものだから、まずは映像をしっかり撮っておくことが重心としてあって。 三好:本に関しては、それをまとめ、その過程も記録していけばいいんじゃないかと。映画が主軸としてありつつ、途中から書籍の作業も始めていった形です。
震災から6年経ってなぜ福島に向かったのか
田幸:川内さんにとっては、お母様がいわき市のご出身ということで、福島は縁のある土地でしたね。それでもいわきより北の双葉郡は「結界でも張られているように」足を向けられなかったと著書に書かれていました。震災から6年経ったとき、なぜ初めて国道6号線を走ろうと思えたのですか。 川内:震災の直後は行ける雰囲気ではなかったんです。避難指示が出ていて12市町村に入れない時期が長かった。しかし、2015年以降『空をゆく巨人』(現代美術の世界的スーパースター蔡國強と、いわきの実業家志賀忠重を描いた実話)の取材で、たびたび福島県を訪れる中で、これだけのことが起きている大元の場所を見なければという気持ちがありました。 行きたいというよりも、「一度は見なければ」という感じで行ったんです。本当に衝撃的な風景で、国道6号線のバリケードがずっとつながっていて大熊町や双葉町は車で通りすぎることしかできなかった。そこから、徐々に避難指示が解除されたと聞いて、また行ってみようかなと。最初は何かをしようとしていたわけではなかったですね。 三好:僕自身は2011年の震災の後、すぐ東京から長野に移住していて、どこかで後ろめたさを感じていた。2014年に東北復興のプロジェクトで福島に一度足を運んだのですが、それ以外に行く機会がなくて。川内さんに「福島に行かないか」と誘われたとき、何ができるかわからないと思いつつ、「まずは行ってみよう」ということで始まったんです。行ってみると、バリケードが残っている一方で、若い人たちが活発に暮らしていて、“被災地”と言われている場所とのコントラストは想像を超えていました。これが現実なんだと。すべて行かないとわからないことでした。 田幸:映像の力でいうと、被災地の瓦礫を空中から映したドローン映像などは、ニュース映像やSNSでも見慣れていましたが、映画『ロッコク・キッチン』の冒頭にあった民家の洗濯物がそのまま干された状態で時間が止まった家の静けさには衝撃を受けました。 三好:僕らが撮影を始めたころ、かろうじて震災当時の姿を残している建物があったのですが、避難指示解除の後、多くの建物は除染と共に取り壊されました。ここ数年で更地になった土地に新しい建物や道路、商業施設ができて、もともとの景色を思い出そうとしても難しい。 そんな中、大熊町で夜だけ開く書店『読書屋 息つぎ』を営む武内さんに出会いました。彼はおばあちゃんの家があった更地になった土地で本屋を開いているのですが、「建物がなくなると思い出すきっかけがなくなって、思い出したくても思い出せない」と言って、その場所で暗闇の中で裸電球をつけて書店を開いている姿に、すごく大切なことを教えてもらった気がしました。
住民だけが持つ心情を知り、考えた制作の形
田幸:そこに暮らす人が今何を食べているのか、自炊なのか外食なのか、一人なのか誰かと一緒なのか。川内さんはそれを著書で「野次馬的発想」と表現されていましたが、もっときれいな言葉で語る人が多い中で、そうではないスタンスが新鮮でした。 川内:私自身、ミッションを感じて、『ロッコク・キッチン』の制作を始めたわけではなかったんですね。ある町を訪ねたとき、ホテルで働く人たちから職場にネパール人の方がいるんだけど、「誘ってもご飯を食べには来ない」とか、「ネパール食材は地元では手に入らないだろう」といった話を聞きました。もともと漁業が盛んだった土地なのに思うようにいかない。 スーパーに行っても、うちの近所のスーパーとはどこか違っているんです。福島第一原発での作業、家の解体や除染、復興事業で、単身者で働きに来ている人が多い地域だから、惣菜コーナーやお弁当がとても多かったり、一方でお酒のコーナーが驚くほど充実していたり。そういうことがいろいろと積み重なって「みんな何食べてるんだろう?」という問いがどんどん大きくなっていきました。 田幸:でも、自分で取材をして聞いて巡るのではなく、エッセイを書いてもらう形にしたのはなぜですか。 川内:そこに暮らしている人たちは取材されること自体に疲弊している面もあります。「お話を聞かせてください」と言われてうんざりしているし、私自身、双葉郡に通っていると、メディアの方に声をかけられ、「東京から来ました」と言うとあからさまにがっかりされるようなことがありました。だったら、そういう聞き方はしないほうがいいなと。それに、普通の方が書いたものを読むのが好きなので、みなさんが書いてくれたら一番いいだろうと思ったんです。 田幸:自分が食べているものにカメラを向けさせてもらうのは、実はとてもプライベートな領域に踏み込むことでもありますが、被写体との距離の取り方はどうされたんですか。 三好:エッセイを書いてくれた方たちとはすでに関係ができていたので、カメラを向けやすかった。とはいえ、その場の空気を壊さないように控えめに撮っています。映画の構成はまずは有緒さんが組み立て、それを元に二人で編集を進めました。限られた尺の中で伝えられる人数を絞り込んでいくと、やっぱり3人になった。それぞれ一人ひとりを掘り下げるだけの素材がありました。 川内:距離が縮まっていくプロセス自体を描けたのではないかと思います。インドから来て現在双葉町で観光業に携わるスワスティカさんのように最初からオープンな方もいれば、中華丼を作ってくれた大熊町の女性・大竹英子さんのように親しくなる中でいろんな話をしてくださった方もいて。ただ本も映画も一回目の出会いを軸に構成しました。驚きとか出会った瞬間のものを大事にしたかったから。もっと深くいろいろ知ってから書くほうがいい、という考え方もあると思いますけど、旅をしていく中で我々がどんなふうに出会ってどんな会話をしたかという過程を見ていただきたかったんです。 ◇映画に登場する3人の登場人物を選んだ理由、撮影のスタンス、そして取材を通じて川内さんと三好さんが見えてきたものについて、引き続き話を伺う。
田幸 和歌子(フリーランスライター)



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